中東―危機の震源を読む
中東―危機の震源を読む(24)

「絶対の真理」への傾斜で薄れゆく「知の共通項」

池内恵
執筆者:池内恵 2006年12月号 無料
カテゴリ: 国際
エリア: 中東

[カイロ発]エジプトに行くのは今年に入ってもう三度目である。勤務先が日本研究を海外に広めるという使命を帯びているため、年に一度大規模な学術大会を外国で開く。今年はこれまでにつながりの浅いアラブ諸国に出向くことになった。
 アラブ諸国である程度まとまった日本研究の制度を持つのはカイロ大学の文学部だけである。一九七三年の第四次中東戦争に際して、日本はアラブ産油国によるボイコットを受けた(石油危機)ことから、対アラブ文化交流の拠点として、日本側が働きかけて日本語日本文学科が開設された。日本から常時教授や教員を送り込み、卒業生に奨学金を与えて日本に招き学位をとらせてカイロ大の教員にして戻すなど、国際交流基金など日本側が丸抱えのようにして育ててきた。その後も日本に呼んで便宜を図るなど、きめ細かな配慮がなされている。しかし成果は砂漠に如雨露で水をやるようなもの。とはいえ、水を絶やすわけにはいかない。
 そもそもエジプトに日本学科を作ったところで、ペルシャ湾岸の産油国に直接影響は及ばない。かといって七〇年代の湾岸諸国では初・中等教育すら整備の途上で、高等教育機関などほとんど存在していなかった。二十世紀を通じて、アラブ諸国の中で他に先んじて、どうにか国民教育を整備しようとしてきたエジプトは、アラブ世界との文化交流の受け皿としてほぼ唯一の選択肢である。
 しかしエジプトのような非産油国では、教育機関が大衆化して膨れ上がり、質が低下している。カイロ大学は学生総数が三十万人以上といわれる。文学部だけで二万五千人。哲学科に毎年千人以上の学生が入学するような施設を「大学」と呼ぶことが適切かどうか、私には分からない。ましてや「東京大学」と同列の「最高学府」などと考えると対象を大きく見誤ることになる。給与が安いため、客員研究員・客員教授といった立場で海外に出稼ぎに行って留守にする教員が多く、助手や非常勤講師が適当な授業でお茶を濁している。
 アラブ諸国では、「大学」といった我々が馴染んでいる言葉を同じく用いている場合でも、内実はまったく別物であることが多い。しかし外交も文化交流も、相手側の社会水準や、相手が日本に対して持つ関心や求めるものに応じた形での関係しか、やはり築きようがないのである。遠回りなようであっても、ひとつひとつ積み重ねていくしかない。

日本研究が成立する条件

 二日間の研究大会の間、カイロ大学では処々に横断幕が張り巡らされていた。一行目から、「学長、文学部長……」と延々と有力者の名前が大書され、それらの「庇護の下に」、日本研究の大会が開催されると記されている。これはアラブ諸国の定型で、イベントはどれも有力者の「庇護の下に」行なわれる。日本側が求めているのは、エジプトとアラブ諸国の日本研究の水準を示し、発展させるための研究発表の場なのだが、エジプト側の関心事はいかに「有力者」の名前をそろえるかにあり、発表の準備はそっちのけである。最近はムバラク大統領夫人の「庇護の下に」行なわれる行事がむやみに多い。国民を啓蒙するという「読書週間」が長期間(ほとんど一年中)宣伝され、政府が補助金を出して廉価で大量に配布する書物の背表紙にはもれなく大統領夫人の顔写真がつく。
 これは中東の政治文化の自然な帰結である。何事もトップとまず話をつけなければ、学会すら開けない。そのためにトップとの「仲介者」が暗躍し、互いに足を引っ張り合うのでトラブルも多い。人物と人間関係相関図を見分ける眼力が必要となる。
 無事に学長と学部長がオープニング・セレモニーに現れて挨拶をし、それに合わせて著名な教授陣や有力者が来場し、それを目当てに観客が詰め掛けたことで、エジプト側にとって大会は大成功となった。
 その後の研究発表について、本欄で記すのは適当ではないと思われる。しかし一点だけ述べておこう。私見では、日本研究というものは、いわば「ポストモダン」の状況が社会の一部分にでも出現していなければ成立しない。近代化で目指すものをおおかた達成し、その先に何かを求める個々人が、ふとこの極東の小さな、極端にきめ細かな文化と社会に目を向ける。社会全体におけるかなりハイレベルの知的水準と、政治・経済的余裕を要求する分野なのである。残念ながら、現在のアラブ諸国にそのような意味での日本研究を行なう環境は成立していない。

アレクサンドリアの老碩学と

1度日本に招きたいアッバーディー教授夫妻

 カイロ大学での研究大会の終了後、日本側の参加者のみを連れて、地中海岸の海港都市アレクサンドリアに移動した。ここにはユネスコの援助で二〇〇二年に建てられたアレクサンドリア図書館がある。失われた古代図書館の「復活」を銘打ったこの図書館で会場を借りて、アレクサンドリア大学教授でギリシア・ローマ史が専門のムスタファー・アッバーディー氏を招き、講演とディスカッションを行なった。
 アッバーディー教授はヘレニズム文化のエジプト側での発展、特にアレクサンドリアの歴史に詳しい。一九二八年生まれでもう七十八歳になるが、今も大学でゼミを受け持っており、記憶力も衰えていない。同大学の英文学教授だったアッザ夫人と共に、五〇年から英ケンブリッジ大学に留学して博士号を取った。夫婦ともども美しく明晰な英語を話す。
 エジプトでは、五二年の「自由将校団」のクーデタと革命で王政が倒れた。ご夫妻はそれ以前の自由主義・立憲王政の時代に教育を受けた西欧化知識人の最後の世代である。その後の大学は、特権階層の排他的な場から、失業対策の若者収容所に転じた。
 アッバーディー教授の『古代アレクサンドリア図書館』は日本語にも訳されている。手堅い文献学の成果の合間に、味わい深いユーモアが顔を覗かせる。たとえば、紀元一世紀末のパピルス文書に残る学生の手紙の引用である。アレクサンドリアの学院で学んでいた青年が、上エジプト(ナイル河上流地域)の故郷にいる父に宛てて手紙を書いた。世界の知の中心とされたアレクサンドリアにやってきたものの、青年は当地の学問の状況を嘆く。「無駄な、そして高額な授業料を払うだけで、先生から得るところなど何もありません。自分自身しか頼るものがないのです」。中でもディディムス某という教師について「私ががっかりしているのは、かつては田舎の教師に過ぎなかったこの男が、ほかの教授陣と比べて別に遜色ないと考えているってことなんです」(モスタファ・エル=アバディ『古代アレクサンドリア図書館』松本慎二訳)。
 いつの時代にも変わらないせせこましい大学の風景である。しかしこのように人間性の普遍的なあり方を、その愚かさを含めて突き放して見つめる視点を共有できる人物が、エジプトには少なくなった。そのことは、ヘレニズムが最初にもたらし、近代に再認識された人間主義が、この地域で再び後退しているということを、おそらく意味するのだろう。エジプトをはじめとするイスラーム諸国は現在、近代とその人間主義を「超克」し、イスラーム教のいう「絶対の真理」への確信を強め続けている。
 アッバーディー教授ご夫妻の家は何度か訪ねたことがある。講演の翌日も、午後の紅茶のひと時に招かれた。訪ねるたびに、応接間から居間に飾られた写真や絵画、骨董品の由来を少しずつ聞き、書き留めておく。家族の写真が、十九世紀から二十世紀初頭にかけてのアレクサンドリアのコスモポリタン文化を物語る。
 夫妻の趣味と経験から選ばれた調度品の中に、一九五〇年にロンドンで買ったという、市川海老蔵の役者絵があった。ここで描かれる海老蔵は目を凝らして巻紙を読んでいる。アッザ夫人は、年来、その巻紙の材質を知りたがってきたという。日本を一度も訪れたことのないアッバーディー教授夫妻とは、西洋近代の知を共通項として、互いにそこから興味の触手を少し先に伸ばすことで、容易に対話が成立する。
 しかしエジプト革命後の世代、そしてさらに若いイスラーム教への回帰の世代との間では、この共通項は薄れゆくばかりである。
 書斎の窓からはアレクサンドリアの港と地中海が一望できる。アッバーディー教授は自分のソファから立ち上がり、私を座らせた。古代に世界の七不思議の一つと謳われたファロスの灯台の跡地にマムルーク朝期に建てられたカーイト・ベイの城砦が、ちょうど視界に入る。
「この窓からの景色も写真に撮っておきなさい」と教授は言う。「これはもうすぐ見られなくなる。向かいにビルが建つことになった」。

アッバーディー教授と筆者
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執筆者プロフィール
池内恵 東京大学先端科学技術研究センター准教授。1973年生れ。東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻博士課程単位取得退学。日本貿易振興機構アジア経済研究所研究員、国際日本文化研究センター准教授を経て、2008年10月より現職。著書に『現代アラブの社会思想』(講談社現代新書、2002年大佛次郎論壇賞)、『イスラーム世界の論じ方』(中央公論新社、2009年サントリー学芸賞)、『イスラーム国の衝撃』(文春新書)、『【中東大混迷を解く】 サイクス=ピコ協定 百年の呪縛』 (新潮選書)、 本誌連載をまとめた『中東 危機の震源を読む』などがある。個人ブログ「中東・イスラーム学の風姿花伝」(http://ikeuchisatoshi.com/)。
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