「ルースを育てた家」での最終戦

執筆者:ブラッド・レフトン 2011年1月11日
タグ: アメリカ
エリア: 北米

 2010年5月10日午後、アメリカ東海岸の港湾都市ボルティモアの郊外で、ある野球の試合が行なわれていた。翌日からは、上原浩治投手の所属する地元オリオールズが、イチロー選手のシアトル・マリナーズを迎えてのメジャーリーグ3連戦が予定されていたが、この日の試合は、ハイスクール同士の何の変哲もない練習ゲームのように映った。
 しかし、5月の爽やかな風のなかで、父母たちに見守られて繰り広げられた熱戦は、いわばアメリカ野球の「聖地」での“歴史的”な一戦だったのだ。
 その球場は、カトリック系のハイスクールの所有地にあった。以前はセイント・メアリー少年工業学校と呼ばれたこの学校のグラウンドこそ、かのベーブ・ルースが「野球を覚えた」場所にほかならなかった。
 なぜ“歴史的”なのか。それは、試合に先立つこの年の3月、ボルティモア・カトリック司教会が、64校中13校ものカトリック学校が厳しい財政状況と入学者数の低迷により閉鎖されることを発表していたからだ。そのうちの1校が、1962年にカーディナル・ギボンズ・スクールと改名された、ルースの母校の男子校だった。したがってこの試合は、いまでもアメリカ野球の最高の人気者でありヒーローのひとりであるルースが育った「聖地」での、2度と見ることのできないゲームだったのだ。
 セイント・メアリー校は、腕白坊主や非行少年を更生させるための学校として、1866年に開校した。息子の手に負えないヤンチャぶりに悩まされていたジョージ・ハーマン・ルース・シニアは、1902年、当時7歳の息子をそこへ送り込んだ。幼きルースは、1914年に卒業するまでの12年間、ここで学び寄宿舎で生活することとなった。
 その敷地のど真ん中にあるのが、ブナの木立に囲まれ、丹念に刈り込まれた芝生の美しい野球グラウンドだ。学校の教師だったマシアス神父が、ルース少年に野球を手ほどきした。
 当時、そのグラウンドのホームベースは、ルースが3階の教室でシャツの仕立てを学んでいた建物の玄関から数歩のところにあった(ちなみに、そこで覚えた技術は、後に彼が破れたヤンキースのユニフォームを繕うときに役立ったという)。ところが、ルースはめきめき腕を上げ強靱な打撃パワーも身につけていったため、左バッターの彼の打球は何度となく当時ライト後方にあった別の建物の窓を割るようになった。そこで、グラウンドの向きをぐるりと転換し、センターの方にホームベースを持って行かざるを得なくなったのだ。結果、ルースの時代からキャンパスに残る2棟の建物のひとつである教室棟は、今は右中間後方にある。この“ルースによる方向転換”は、ホームからセンターのフェンスまで400フィート(約120メートル)を優に超える堂々たるグラウンドに残された、まさしく伝説だ。以来、この球場は「ルースを育てた家(The house that built Ruth)」とも呼ばれ、関係者の誇りとなってきた。

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