「水田」を「大規模放牧地」に変える「福島県飯舘村」の農家の挑戦

寺島英弥
執筆者:寺島英弥 2017年2月14日
エリア: 日本
水田3枚をつないだ約2ヘクタールの放牧試験地(福島県飯舘村、筆者撮影)

 標高400~600メートルの福島県飯舘村はいま、田んぼの土が凍り付く厳寒の中だ。村の中心部に近い松塚地区の雪原になった水田に、電線を張った牧柵に囲まれた一角がある。「この雪の下に、牧草が育っている」と農家山田猛史さん(68)。広さは約2ヘククタール。東京電力福島第1原発事故後の全村避難指示が3月末に解除となる古里で、常識破りの試験に取り組む。除染後の水田を北海道並みに広い放牧地に変えようという計画だ。

「コメは売れない」

 山田さんは2011年3月の原発事故以前、コメとタバコ、ブロッコリーの栽培と和牛の繁殖を自宅で手掛けていた。地元の行政区長を14年3月まで3期務め、村農業委員でもある。宿命的な冷害常襲の村は畜産を主産業に掲げ、223戸の農家が和牛を飼っていた。その数は村人口の約半分の3000頭といわれたが、原発事故後の全村避難指示により、同県畜産市場で競売に掛けられた。農家の大半は身を切られる思いで牛を手放し村を離れた。が、山田さんは畜産への愛着を捨てず3頭を残し、避難先の同県中島村で牛舎を借りて新たに和牛を買い足し、生業を続けた。14年秋、飯舘村に近い福島市飯野町に牛舎を買って移り、36頭の牛たちと共に帰村を待つ日々だ。
 原発事故で避難することになった時、「それまでは、後継者になって牛舎で一緒に働き始めた三男=豊さん(34)=に経営を譲渡し、農業者年金で暮らすつもりだった。しかし、人生計画が変わった。避難先で毎日こたつに当たっているわけにいかない。どこででもできる牛をやろう、と思った」と言う。豊さんは妻、子どもとの避難先だった福島市で偶然、レストラン雑誌で京都市の大手食肉卸会社「中勢以」の記事を読み、「食肉の面から牛の勉強をしたい」と本社を訪ねて就職することができた。山田さんにも、飯舘村に帰って畜産を復活させることへの新たな希望を与えてくれた。
 松塚地区がある関根松塚行政区(44世帯)には約60ヘクタールの水田が広がる。原発事故直後の11年4月上旬に村が測定した定点の放射線量(松塚神田・地上1メートル)は、8.35マイクロシーベルト毎時と他地区と同様に高レベルだったが、3年後の14年4月初めには未除染ながら1.73同まで減り、村内でも低線量の地域の1つになった。ただ、同行政区が避難中の住民を対象に帰還後に向けた土地利用の意向調査を行ったところ、水田を利用して稲作を再び行うと答えたのは3人だけ。しかも、1枚(30アール)だけを使うという自家米作りの規模だった。花や野菜の栽培などハウスでの園芸農業をしたいという希望者は十数人いた。「水田が除染されたとしても、飯舘産のコメは風評で売れなくなる」という懸念と諦めが住民に広まっていた。 

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執筆者プロフィール
寺島英弥 ジャーナリスト。1957年福島県生れ。早稲田大学法学部卒。河北新報元編集委員。河北新報で「こころの伏流水 北の祈り」(新聞協会賞)、「オリザの環」(同)、「時よ語れ 東北の20世紀」などの連載に携わり、2011年から東日本大震災、福島第1原発事故を取材。フルブライト奨学生として2002-03年、米デューク大に留学。主著に『シビック・ジャーナリズムの挑戦 コミュニティとつながる米国の地方紙』(日本評論社)、『海よ里よ、いつの日に還る』(明石書店)『東日本大震災 何も終わらない福島の5年 飯舘・南相馬から』(同)。3.11以降、被災地における「人間」の記録を綴ったブログ「余震の中で新聞を作る」を更新中。
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