フランス大統領選「極右」ルペンの実像(3)父を「2度殺した」娘

いよいよ決戦の日が(C)AFP=時事
 

 1986年の国民議会(日本の衆議院にあたる)選挙で、通常の小選挙区2回投票制では大惨敗が予想されたため、社会党政権は得票数がそのまま反映される単純比例代表制にかえた。そのおかげで「国民戦線」(FN)は共産党と同数の35議席を獲得した(定数577)。ジャン=マリー・ルペンも四半世紀ぶりに国会議員に返り咲いた。だが、1年もたたぬうちに“有名税”を払わされることになる。

ダメージにならなかったスキャンダル

 まず、泥沼化していた離婚調停中のジャン=マリーの不用意な発言に憤慨した妻が復讐するため、『プレイボーイ』誌フランス版にヌードを発表した。娘のマリーヌ・ルペンは母のあられもない姿に「地震に遭ったような」衝撃を受け、世間が忘れるまで「北極に行って氷小屋をつくって隠れていたかった」と自伝に書いている。そのとき、彼女は18歳、パリ第二大学法学部の学生だった。北極には行かなかったが、大学を2週間休んだという。

 もっとも、この“事件”は面白がられはしたものの、政治家としての傷にはならなかった。だが、次の“事件”は致命傷になりかねないものであった。

 1987年9月のラジオ番組で、ジャン=マリーはナチスのガス室虐殺を「第2次世界大戦のディテール(細部)だ」と口を滑らした。さらに翌年には、FNを批判したミシェル・デュラフール行革大臣(当時)を「フール・クレマトワール」(遺体焼却炉)と揶揄したのである。そのつどユダヤ人団体やマスコミ・識者から批判の嵐があびせられた。

 ところが、これらの事件も、ルペンにもFNにとってもたいしたダメージにはならず、1988年の大統領選挙では14.39%の票を獲得。再び小選挙区2回投票に戻った次の1993年の選挙では、議席を取ることができなかったものの、地方選挙では議員を輩出し、いくつかの市長も誕生した。そして、2002年の大統領選挙では、ジャン=マリーが決選投票に残ったのだった。

内紛の火種となったマリーヌの登場

 この大統領選挙のテレビの開票速報番組で、マリーヌが新しいFNの顔として初めて華々しく登場した。

 ちなみに、ルペン家にはマリー=カロリーヌ、ヤン、マリーヌの3人の娘がいる。長女マリー=カロリーヌは父の後継者と目されていたが、1998年にナンバー2のブリューノ・メグレが党を割ったとき、メグレの新党に行ってしまった。次女ヤンは政治から距離を置いていた。

 マリーヌは弁護士資格を取ってFNの法務部にいたのだが、自伝によれば、広報部長に「幹部が皆ラジオに出払ってしまったから」と、急にテレビ出演を依頼されたのだという。準備もなしに行ったのが逆に幸いし、老獪な政治家たちにはない新鮮さが受けた。その翌日から、彼女に対するインタビューが殺到した。

今回の選挙戦ではこんな「ルペングッズ」の販売も(筆者提供)

 しかしこれは、FNの新しい内紛の火種となった。当時、ジャン=マリーの側近で京都大学に留学したこともあるブリューノ・ゴルニッシュが、メグレと長女の裏切りの後、後継者として挙げられていた。そこにマリーヌが割り込むことになったのである。

 30年前だったら爆破事件が起きていたかもしれないが、そのようなこともなく、最終的に9年後の2011年1月の党大会で、マリーヌは党首に選出された。

 2012年の大統領選挙では、2002年の父の記録を上回る17.90%を獲得。2014年の欧州議会選挙では24.86%を獲得し、すべての既成政党を抑えてフランス選挙区の第1位となった。そして、今年の大統領選挙に臨んだわけである。

父の「除名」と「否定」

 マリーヌは、後継者争いのときからFNと父の負のイメージの払拭に努め、ついに「父殺し」にまで至った。2015年に、ペタン元帥・ヴィシー政府(第2次世界大戦で、仏首相として対独講和を決め、パリを含むフランス北東部のドイツ占領を許した)を擁護する発言を続けるジャン=マリーを除名したのである(ジャン=マリーは裁判に訴え、一旦勝利したものの2016年に公式決定)。

 さらに、今回の選挙中、2度目の「父殺し」が起きた。

 第1回投票が2週間後に迫った4月9日、マリーヌは戦時中のユダヤ人大量検挙事件について「フランスに責任はない」と発言、父ジャン=マリーと同類の歴史を歪める修正主義、反ユダヤだと一斉に批判された。

 しかし、これまでマリーヌの行ってきた党内改革とイメージチェンジの文脈で見てみると、全く違う意味が浮かび上がってくる。

 批判に対してマリーヌは、「ナチスドイツ占領当時、フランス共和国はロンドンにあり、ヴィシー体制はフランス国ではない。これはド・ゴール、ミッテラン歴代大統領の見解だ」と繰り返し反論した。ヴィシー政権の事件への責任は認めながらも、国家の継続性や正統性の観点から「フランスという国」には責任はない、というのである。

 シラク大統領が認めて以来、「フランス国の責任」は公式見解でありつづけている。だが、それより前は、マリーヌの言う通りであったことも事実である。そもそも、戦時中ロンドンに亡命政府を樹立していたド・ゴールにとっては、ヴィシーではなくロンドンに正統なフランスという国家があったとするのは当然であった。

 ジャン=マリーは、まだ党首だった2010年4月、同じ問題について、「ヴィシー政府には責任はない」と発言している。また1984年に私がインタビューを行った時、「ド・ゴール将軍は、フランス解放の時に9人の共産党員を内閣に入れた。社会主義的政策をとった」などと強く批判していた。

 ヴィシー政権支持と、アルジェリア独立を根に持つ反ド・ゴール主義が、父が生涯を賭けたFN・新右翼のレゾンデートル(存在理由)であった。ロンドンの亡命政府を正統と認めるということは、これを否定する、すなわち「父殺し」ということなのである。

ド・ゴール時代への回帰

 現共和党などフランスの既成右派政党は、ド・ゴール派の流れをくむ。その層を取り込むことは、FNが2回投票制の総選挙や大統領選挙で勝つためには必要不可欠だ。だがそれには、従来の極右支持層を失う危険を伴う。マリーヌはあえてこの両刃の剣をふるったのである。

 なぜそれができたのだろうか?

 まず考えられるのは世代交代である。マリーヌの誕生日は1968年8月5日(48歳)。パリの「5月革命」のあと、ソ連の戦車が侵入して「プラハの春」と言われたチェコの民主化運動を弾圧した頃であった。父がインドシナ・アルジェリア戦争の英雄から温厚な政治家にイメージチェンジした頃に高校生になった。また、アルジェリア独立からでも半世紀以上たっている今日、支持層も変わった。反ユダヤ、反移民は変わらなくとも、ヴィシーやド・ゴールへのこだわりはなくなったとみられる。

 つぎに、欧州統合の発展である。EC(欧州共同体)からEU(欧州連合)に変わり、単一市場やユーロは大企業や金融界を潤す一方で、庶民層には物価高、出稼ぎや工場移転による失業、緊縮財政のための福祉の低下など負担を強いた。2005年の欧州憲法否決はまさにそのあらわれであった。

 国家の存在を基礎とした欧州共同体を推進していたのが、ド・ゴールであった。今日のマリーヌおよびFNの主張は、英国のイギリス独立党(UKIP)のような単純なEU離脱というよりも、マーストリヒト条約以前の欧州共同体、ド・ゴール時代への回帰なのである。

 これには、グローバリゼーションも関係している。

 マリーヌのマニフェストや演説を見ると、移民排斥はともかく、経済社会政策では、公共サービスや社会保障の充実、貧困層への支援……と、トランプというよりもサンダースだ。マリーヌは新自由主義を「ウルトラ・リベラル」と呼び、野蛮なグローバリゼーション、世界の商品化、ファイナンス市場の支配を否定する。。EUはまさにその一派が支配するマシンであり、市場を規制するためにも、産業を育成するためにも、国民生活を保障するためにも、国家の復権が必要なのだというのである。冷戦の中、東西のブロック化に抗したド・ゴールは、グローバリゼーションのアンチテーゼでもあるのだ。

そして結果は

 すでに述べたように、ジャン=マリーはマリーヌとは逆に新自由主義を標榜していた。1980年代は冷戦の最中であり、反共の先兵として、ド・ゴール的な国家主導ではなく、レーガン・サッチャーをモデルとした極端な新自由主義・グローバリゼーションに走った。ところがいまや、鉄のカーテンは消滅し、最大の課題は東西対立ではなく、グローバリゼーションとファイナンス市場の支配の弊害である。ジャン=マリーとそのブレーンは、うまく時代の趨勢をとらえて、政界における地位を確保したが、いままたマリーヌとそのブレーンは、敏感に時代の変化に反応していると言えよう。

ポスターは貼られて2日後には全候補のものがこんな具合に(筆者撮影)

 だからと言って、FN全体が真に変わったのかどうかは、軽々には言えない。

 1984年頃、ポスターやジャン=マリー本人の物腰は柔らかくなったが、FNのデモや集会では、短髪、革ジャンの鋭い目の若者たちの攻撃的熱気が広場に充満し、ただでさえ東洋人の私は、何となく近付きにくかった。今は、中小企業のオッサンや競輪場が似合いそうな中高年が多く混じるようになったが、その雰囲気に変わりはない。あいかわらず、移民やイスラム過激派を非難するとき、最も大きな歓声が湧く。

 マリーヌは「共和国」「国民国家」「国際主義の封建貴族との戦い」などと繰り返し叫んで、まるで、フランス革命後のジャコバン党(急進的革命派、左翼の語源)のような演説をしている。ところが活動家たちは、まるでフランス革命がなかったかのような戦前からの右翼の歴史観をもちつづけている。

「普通の政党」になろうとしている上層部と、「極右」の活動家のあいだには乖離が生まれている。FN・新右翼のお家芸である内部分裂のリスクさえ感じられる。

 ただ、はっきりしているのは、ジャン=マリーは2002年の大統領選で、左派候補の乱立に助けられて決選投票に進んだものの、その得票は17.79%にとどまったが、今回、世論調査でマリーヌはつねに上位2人に入っており、決選投票では、得票率35%以上と出ている、ということだ。

 最終盤にきて、シャンゼリゼの警官銃撃テロという新しい要素が加わり、ますます混沌としてきた第1回目の投票がいよいよ明日(23日)に迫った。果たして決選投票に進むのはマリーヌか、若さの中道左派エマニュエル・マクロンか、元首相の貫録で失地回復している共和党のフランソワ・フィヨンか、ここにきて支持を急伸させている「左翼戦線」ジャン=リュック・メランションか――。(つづく)

 

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