「3.11」から6年半:復興は遥かに遠い古里「浪江町」

寺島英弥
執筆者:寺島英弥 2017年9月17日 無料
エリア: 日本
人けのない浪江町の商店街(8月23日、筆者撮影。以下同)

 

 東日本大震災、東京電力福島第1原子力発電所事故から9月11日で6年半――。

 今年3月末に避難指示を解除された福島県浪江町では、1万8173人の登録住民数のうち、帰還者はわずか286人(7月末現在)。JR浪江駅は再開し、町役場の隣に仮設商業施設も開いたが、商店街で目に入るのは地震直後のまま壊れた建物や解体工事現場、更地、伸び放題の雑草……。家々は動物の侵入などで荒廃し、住民の復興への希望をそぐ。

 家屋を巡る調査で、そうした惨状に日々触れる地元の応急危険度判定士の1人に、隣の南相馬市で再起した企業経営者・八島貞之さん(49)がいる。避難中は「なみえ焼きそば」のイベントを企画し、住民を元気づけようと活動したが、古里の人々はばらばらに遠のいていくばかりだ。

荒らされたままの家々

「見てください、人の不幸につけ込んで」。家主の声が、シャッターを閉めた店内の暗がりに響いた。浪江町の商店街で創業75年の時計・宝飾の店。8月後半、八島さんを含む2人の応急危険度判定士に同行し、立ち会った70代の家主夫婦の案内で店舗の中に入ったときのことだ。「足を切らないようにね。ガラス片が散乱しているから」。懐中電灯で店内を照らすと、こう注意された意味がわかった。商品を陳列していた分厚いガラスケースがめちゃめちゃに割られていたのだ。100万円もする高級腕時計や真珠のネックレスなど、高価な品々ばかり奪われていたという。2011年3月11日の大地震の後、原発事故が起きて町内に避難勧告が出され、夫婦は同居の家族7人で福島県葛尾村、二本松市など5カ所を転々とし、知人のいる伊豆まで避難した。「その間にオートロックの入り口を壊され、泥棒に入られた」。

 頑丈そうな鉄骨造りの建物からは家財道具は運び出され、掃除もされていたが、玄関先の天井には雨漏りが広がり、2階の台所に臭いがこもっていた。「ネズミのふんが山のようにあった。下水から侵入したらしいの。食べ物を残して避難したから、食べ尽くしたのだろう」と、奥さんが説明してくれた。「先が真っ暗だった。どん底の日々を送り、今は郡山市に借家を借りてやっと落ち着いた。息子は関東に仕事を見つけて家族と移り、私たち夫婦だけで帰還は無理。店には何もなく、この年齢で借金など背負えない。隣近所の店も戻らず、もう商売はやれない」と、ため息をつく。

動物が侵入、ネズミのふん尿

「浪江町」のステッカーを貼った軽ワゴン車で判定士の2 人は郊外に移動し、次の調査場所である2階建ての民家の前で降りた。立会人は都合で来ていない。家の外回りを見る限り、古いだけで目立った痛みはなさそうだが、庭に回ると、除染で敷かれた山

くっきり残るイノシシの足跡を示す八島さん

砂の上にくっきりと動物の足跡が続いていた。「イノシシだ。このあたりを歩いているんだ」と八島さんが指で示してくれた。物置の中は荒らされている。ガラス戸も開いたままで、ひと夏中降り続いた雨が吹き込み、障子はぼろぼろ。居間や台所、洗面所に物が散乱していた。動物にやられたらしい。廊下や敷物は一面どす黒く汚れている。「ネズミのふん尿だな。ひどい臭いでしょう」。天井に大きな穴が開き、カビが褐色の大きな楕円を描いていた。「雨水が天井裏の断熱材に染みると、配線に沿って広がり、どんどん家を腐らせる」。八島さんの仲間の判定士は、「ハクビシンの被害もありそうだ」と言う。「やつらは雨といを上って天井に入り込む」。

 軽ワゴン車は中心部に戻り、閉鎖状態の病院の前で止まった。道路を渡って3カ所目となる民家に2人は向かい、立会人の70代の男性と落ち合った。雑草が高々と生い茂っている。玄関は古い冷蔵庫や一輪車、金属製の棚などでバリケードされ、八島さんらはそれらを移動させて家に入った。むっと蒸し暑く、カビ臭い。施錠されていたが、台所、居間、洋間と続く内部は、大小あらゆる家財道具が足の踏み場もなくぶちまけられ、すべての段ボール箱が動物の鋭い爪のひっかき傷、歯のかみ跡でぼろぼろになっていた。3カ所見た中では、一番ひどい状況だった。「勝手口のアルミドアに穴が開けられている。イノシシは薄いアルミも簡単に破る」と、もう1人の判定士が教えてくれた。そこから動物が何匹も侵入し、餌を求めて荒らしたようだ。

 八島さんらは惨状をカメラに収めながら2階も見回り、「やはり動物にがちゃがちゃとかき回されている。ハクビシンですよ。入り込むだけじゃなく、巣にしてたのかな。それにネズミ。ふんがひどい」。

 避難先のいわき市から来た家主に、「荷物を置いて避難した当時のままの状態ですか」と、筆者が尋ねると、「そう。持ち出すどころではなかった。それから関西に避難したので、なかなか様子を見にも来られなかった」と無念そうに語った。

「この先のことは、正直、判断がつかないんです。原発事故の時はもう帰れないと思ったが、3月末に避難指示解除になり、町は『再建に補助金を出すから戻って』と呼び掛けている。上限まで借りて何とかなるものかと希望も湧いたが、現実にこうして家の有り様を見てみると……」

2000軒の家屋調査

 応急災害判定士は、住宅被害認定調査の申請を受けて、災害などで被災した家屋を調べ、損壊状況を判定する。東日本大震災では、東北の被災3県で全半壊が約36万棟に上り、判定士の資格を持つ自治体や民間の建築士らが休みなく歩いた。被災した建物撤去の段階が過ぎた津波被災地とは違い、避難指示解除後間もない福島県の原発事故被災地では、活動が今なお続いている。

動物の侵入で家財が散乱した室内

 八島さんは同県建築士会双葉支部の会員で、浪江町民。家主の申請を受けた町から依頼される、週2回のボランティアだ。彼らの調査の判定を基にして、環境省が家屋を解体する。大震災、原発事故の翌2012年から参加を志願し、これまで同じ双葉郡の楢葉町、富岡町を含めて約2000軒の家屋を調査してきた。

「阪神淡路大震災をきっかけに、自分もどこか被災地のために役立てたらと考えて資格を取ったが、自分の古里で活動するとは思いもしなかった」(八島さん)

 歩いてきた現場は、この町の誰も目にしたことのない風景だった。2012年には、住民たちの避難で置き去りにされた犬や猫が街をうろついていたが、やがてその死骸が多くなり、カラスがおびただしく増えた。2013年には、全く「無音」の異様なゴーストタウンの状況が広がった。イノシシなど野生動物の姿も見かけるようになり、やがて数を増やして家々に侵入するようになった。

「イノシシ、猿、ハクビシン、タヌキ。アライグマも多いと聞く。それらが窓、ドアを破って室内を荒らし、荒廃はどんどん進んだ。震災の影響よりも、直接的には動物の被害が大きいのではないか。ふん尿の汚れと臭い、カビ、雨漏りと腐敗、ばい菌。家屋の外から内部の荒廃は想像できない。これまで見た限り、大半は解体するほかないような惨状だ」

荒れ果てた民家に言葉をなくす

 避難指示解除になって、浪江町には大勢の住民が帰っているのだろう。原発事故は終わって被災地は復興しているのだろう――。

「そう思っている人が多いのではないか。ニュースに映されない、見えない現実があるということを知ってほしい」と、八島さんは語る。避難先から家屋調査に立ち会った末、わが家、わが店に戻りたくてもできないと、帰還を諦めざるを得ない同胞の切ない表情を見る度、八島さんはやり場のない憤りのような思いを募らせる。

500枚の年賀状が100枚に

 浪江町の北隣、南相馬市原町区に八島さんの経営する株式会社「八島総合サービス」がある。建物の管理・清掃をメインの業務に、土木・建築、交通の誘導も請け負う。2016年に発足したばかりだが、それ以前の社名は「八島鉄工所」。もともと浪江町にあり、戦前から農具を作る鍛冶屋だった祖父が、1950年に創業した。戦後、耕耘機などの機械化とともに農業機械販売店への転業を勧められたが、祖父が鍛冶屋への愛着から断った。それが良かったのか、車庫にする鉄骨の納屋造りの注文が相次ぎ、鉄工所の看板を掲げた。八島さんは3代目。「お前は跡取りだから」と祖母に説得されて工業高校に進み、20歳の時、父親の下で家業に就いた。代々の仕事のつながりが深い、地元の建築業者の現場を中心に鉄骨工事を担ってきた。

 八島さんを初めてに取材したのは2013年。自身も原発事故の避難者だった。その時、「町なかにクレーン付きの工場があり、30人の従業員がいた。(6年前の原発事故直後の全町避難で)私は家族と二本松市に避難し、それから何とか仕事を再開しようとしたが、鉄工所の溶接工の職人もばらばらになった」と語っていた。

 当時、奥さんと2人の子どもはいわき市、両親は郡山市で避難生活を送り、八島さんは2011年9月から(浜通り北部の)新地町で被災した東北電力火力発電所の復旧工事に携わり、1年後に南相馬の別の場所で事務所を借りて「八島鉄工所」を再開した。「それまでの間ほど苦しい時期は、人生でなかった」という。当時の取材でこんな話も聴いていた。元の職人たちに声を掛けたが4人しか戻らず、新地町や隣の相馬市などで新たに従業員を雇用した。が、彼らが以前勤めていた会社から「引き抜かれた」「賠償をもらっているのに、よその仕事を荒らしている」と悪い評判を立てられた。誤解を解こうとしても相手から拒まれ、精神的にも追い込まれた。

「暑い中で砂利を運び、テトラポットを造り、慣れない仕事でどろどろになって働いて、もう頑張れないと思った」

 再出発した「八島鉄工所」の仕事を取材したのは、2013 年の暮れ。やはり避難指示が出されていた南相馬市小高区で、セメント工場建設現場の鉄骨工事を請け負っていた。「仕事量は震災前の2割。でも、(小高区は浪江町と隣接し)地元に近い現場だし、浪江の土木業者との仕事で、やりやすいのがいい」と、ヘルメット姿の八島さんは張り切っていた。しかし、「八島鉄工所」規模の業者が参加できる復興関連の建築工事は減り、除染や土木事業、一般住宅などの木造工事に比重は移った。

「もともとは浪江町内のお店、倉庫の建築の仕事が中心だった。ところが、避難指示が解除されても街に事業所は戻らず、自然、仕事は少なくなった。町で目立つのは解体工事ばかりで、浪江に戻っても商売が成り立たない」

 原発事故前、八島さんはお得意さんらに約500枚の年賀状を出していたが、今は100枚に減ってしまった。

「何でもやるしかない」

「八島総合サービス」は南相馬市の津波被災地に近く、家を失った住民たちが集まる住宅地の一角の新しい事務所ビルにある。本業の鉄工所の先行きが厳しい中で、「大手ゼネコンなどが、建物の清掃や管理、メンテナンスをやってくれる業者がいなくて困っている」と聞いたのが、思い切った転業のきっかけだった。原発事故の後、人口7 万のうち約5 万人が一時避難した南相馬市内では、とりわけ子どもと女性の姿が見えなくなり、しばらくはハローワークでも「女性従業員の求人は難しい」と言われた。

八島さんの苦闘は続く

「2013 年暮れから2014 年にかけて募集すると、ようやく40 代の女性が集まるようになった。街でさまざまな商売が再開されるにつれて、原発事故前にサービス業の担い手だった主婦たちが家族と共に戻ってきたからだ。人材確保ができるようになり、本業とは裏腹に、新しい仕事が回転し始めた」

 そして、八島さんはこう続ける。

「鉄工所をやめて清掃業をやるのか、と言う人もいて、初めは抵抗があった。でも、『何でもやるしかない』と従業員と話し合い、周囲から助言をもらって頑張った」

 浪江町のある双葉郡の原発事故前の商圏、営業エリアはほとんど消滅したが、八島さんらは復興関係で進出した企業の新規開拓はもちろん、それまで縁のあった取引先にも売り込みに歩いた。避難指示解除が一足早く2015年9月に行われた楢葉町や、富岡町(今年4月1日に解除)にも出先の事務所を開き、「地元の支援になればと、少しずつ戻り始めた住民の雇用に力を入れた」。もともと建築業者と一緒に仕事をして、建物の現場に強みがあった。

「管理するのは、空調から壁、床まで建物全体。古くなった箇所のリフォーム、クロスの張り替え、部屋の改装、フロアの改造もある。工務店やサッシ業者にも知り合いがおり、やり取りの中で新しい素材や商品の情報をもらい、自分の持つノウハウも含めてお客に提案してきた」

 こつこつと信用を重ねて、仕事量が増えたのが2016 年。「こっちもやってもらえないか」と声が掛かるようになった。

「八島総合サービス」の従業員は現在46 人、うち女性が20人で全員が正社員。清掃、管理を請け負う現場は7 カ所あり、下請けの作業員も含めて計80人で切り盛りする。

「たまに鉄骨工事の声も掛かり、これも新規開拓と土建業の許認可も得たので、その仕事を請け負うこともある。だが、清掃、管理が売り上げの8割を占め、今は本業になった」

 双葉郡内の現場には、いわき市、南相馬市などに避難した従業員に通ってもらっている。楢葉町に家を建てて地元で働いている人もいる。

「鉄工所を再開しようとして同業者のあつれきにぶつかったころは、自分の仕事だけで精いっぱいだった。今は、被災地になった同胞の地域のために人の力を生かしたい、それが一番の仕事だと思える」

「浪江焼麺太国」の太王

「復興なみえ町十日市祭」。原発事故後、浪江町の仮役場や仮設住宅が二本松市に設けられた縁で、JR二本松駅前で毎年11月、町伝統の「十日市祭」が町民の交流行事として催されていた(今年は浪江町で復活)。あちこちから集う人々が楽しみにしたのが、もちもちした太麺が特徴の「なみえ焼きそば」。2013年に初めて取材した際、町商工会青年部が運営する屋台の前に長い列ができた。やはり避難中の浪江小の児童らが手伝いをし、励ましたり笑わせたりしていたのが元青年部長の八島さんだった。ナポレオンの黒い二角帽子、赤いコート、金マントという装いで、「浪江焼麺太国」の太王を名乗った。太国の代表として、原発事故前から仲間と「なみえ焼きそば」で町興しを目指し、各地のイベントに出張。2013年には「避難中の町民を元気づけよう」と出場したご当地グルメの祭典「第8回B-1グランプリ」(愛知県豊川市)で、「浪江焼麺太国(なみえ焼きそば)」が見事優勝した。

「仲間づくりで始めたが、メンバーが郷土愛に目覚めてしまい、原発事故後は『浪江の人たちを元気にして避難生活を乗りこえよう、全国に浪江を発信しよう』と夢中で活動した。週末ごとに県内外の避難先から16 人ほどの有志が集まって全国各地に出掛けた」

 活動は昨年まで続いたが、今年3月31日で浪江町の避難指示が解除されて、それを機に代表を辞めた。「『原発事故前の日常を取り戻すまで頑張りますからね』と以前、地元テレビの取材に答えたことがあった。現実にそうなってはいないが、一応のけじめだった」と八島さん。しかし、活動を喜んでくれた人ばかりではなかったという。

「避難生活が続く人たちは、まだまだ行く末を悩んでいる。新しい生活拠点を作った人も、仮設住宅にとどまった人もいる。私たちの活動がテレビに出る度、いろんな所で不快に思われていた人もいた。『賠償をもらっているんでしょ』『商売がうまくいって余裕があるんでしょ』といったことを、取引先で言われることもあった。自分の会社でも、休日のボランティアなのに、社長が遊んでいるのではと思われたかな。活動の仲間もそうだったのかもしれない」

涙がこぼれた

「なみえ焼きそば」と浪江町の名前、被災地の声を全国に発信した役割は果たしたが、そうした精神的な面だけでなく、遠路の出張活動は家庭的にも負担が重かった。「子どもたちとの時間がなくなった」と、八島さんは寂しさをにじませた。

 前述のように、奥さんと2人の子どもは(義父母の実家がある)いわき市で暮らし、二本松市に避難した両親もいわき市に移って家を借り、八島さんは南相馬市に単身生活が続く。代表を辞めてからは毎週末、常磐道で家族の元に通っている。「娘は来年、東京の大学に進学したいという話になり、なおさら離れていくようで寂しい」。

 2013年12月31日の筆者のブログ『余震の中で新聞を作る108~離れても、浪江を忘れず・その2/焼きそばの意味』に、八島さんから当時聞いた話を筆者はこう記していた。

「今年(2013年)の夏、茨城県の笠間市から浪江町の子どもたちを招待するイベントがあったのだが、小学4年の長男は『行かない』と言った。なぜ?と問うと、『だって、夏休みは、こっち(いわき)の友だちと遊ぶ約束をしているから』と答えた。それを聞いて、ああ、だめだな、と思った。古里につなぎとめたいという大人の気持ちとは別に、この2年半余りの間、子どもには子どもの人間関係ができて、それを守るのに必死なのだな、と」

 娘さんはある時期、父親と話さなくなったといいます。理由を聞くと、太王の姿がテレビでも知られるようになり、「あのお父さん?と、学校で言われるのがいや、と言った」。娘さんは2012年3月、当時の避難先の新地町で小学校を卒業し、その折、6年間の思いを込めた「親への手紙」を書きました。こんな内容だった、と八島さんが話してくれました。

「震災があって、私は浪江を離れて2回も移動したけれど、悪いことばかりじゃなかった。お父さんも頑張った。浪江の友だちは今まで通りだし、学校の絆は強まった。新しい友だちもできた。だから、心配しなくていいよ」

「いいことばかり書いてくれた。こんな(太王の)格好をしていては恥ずかしいのか、と思い、肩身を狭くしていたんだ。そんな手紙をもらって、涙がこぼれた。うれしかった」

「再びまとまれる場所を」

「〈原発事故〉来春再開の小中『通学せず』95%福島・浪江の保護者調査」という記事が『河北新報』に載ったのは、8月23日。町教委が来年4月に再開する小中学校に子どもを通わせるかどうか、避難先の保護者に問うたが、95.2%が「意向なし」と回答した。原発事故前、町内には約1700人の児童生徒がいたが、全国47都道府県に避難し、転校しているのが現実だ。 

「皆さん、頑張っていきましょう」「全国の浪江町民の住む町へ出張販売致します」「つくばで息子達と再開致しました」「浪江町の復興のお役に立てればと思いながら日々頑張っております」――。

 八島さんが工業部会長を務める浪江町商工会のホームページ。「事業再開情報」に会員たちのメッセージが載っている。再開先の住所を見ると、本宮市(福島)、相馬市(福島)、福島市(福島)、つくば市(茨城)、南相馬市(福島)……。それぞれに語りつくせぬ物語があるのだろう。古里に戻ったのは、八島さんの青年部時代の仲間では電気店が1軒だけという。冒頭に紹介したような家屋調査を行うときには、町を回ると、いろんな人と声を掛け合う。

「『今、どこにいるの?』から話が始まるが、避難生活が長くなって、帰りたくても帰れなくなったという状況を異口同音に聞く。このままでは、町民がどんどんばらばらになっていくだけ。どこかに、再びまとまれる場所をつくってほしい」

 原発事故後、八島さんが「なみえ焼きそば」の仲間だった商工会青年部有志と仮役場に馬場有町長を訪ねた時、町再生の危機感からこう提案した。だが、話はまとまらず、町民それぞれの苦難の道が分かれた。

 原発事故からの6年半とは、何だったのか――。

「なみえ焼きそば」の太王になって子どもと交流した八島さん。子どもたちの笑顔が何よりの救いだ(2013年11月23日、二本松市で)
 
この記事は役に立ちましたか?
フォーサイト最新記事のお知らせを受け取れます。
この記事をSNSにシェアする
執筆者プロフィール
寺島英弥 ジャーナリスト。1957年福島県生れ。早稲田大学法学部卒。河北新報元編集委員。河北新報で「こころの伏流水 北の祈り」(新聞協会賞)、「オリザの環」(同)、「時よ語れ 東北の20世紀」などの連載に携わり、2011年から東日本大震災、福島第1原発事故を取材。フルブライト奨学生として2002-03年、米デューク大に留学。主著に『シビック・ジャーナリズムの挑戦 コミュニティとつながる米国の地方紙』(日本評論社)、『海よ里よ、いつの日に還る』(明石書店)『東日本大震災 何も終わらない福島の5年 飯舘・南相馬から』(同)。3.11以降、被災地における「人間」の記録を綴ったブログ「余震の中で新聞を作る」を更新中。
comment:0
icon
  • 記事の閲覧、コメントの投稿には、会員登録が必要になります。
フォーサイトのお申し込み
注目記事ランキング
  • 24時間
  • 1週間
  • f
最新コメント
最新トピック
  • 新着
  • 高評価
  • コメント数順