危機管理の教育訓練は自衛官・警察官・消防官だけではなく一般官僚にも必要だ[新型コロナワクチンの3回目接種に備えブリーフィングを受ける医療関係者=2021年11月17日](C)EPA=時事
コロナ禍によって日本が突き付けられたのは、細菌・ウイルス・毒素等の生物学的脅威に対する防衛策の不在だ。「ワクチン敗戦」が意識されたことで開発体制強化が進むが、それは実際には、備えるべき政策体系の一部にすぎない。それでは、バイオディフェンスの最も重要な要素とは何であり、脅威が国境を越えて広がる時代に世界はどう備えようとしているのか。(こちらの『特殊災害「CBRN」をすべて経験した日本にリアリズムは根付くか』に続きます)

 

「バイオディフェンス」という言葉をご存じだろうか。

   この単語は、生物学的脅威に対する安全保障概念への理解度を測る、一種のリトマス試験紙である。残念ながら筆者の知る限り、2年半以上続いているCOVID-19(新型コロナウイルス感染症)パンデミックの期間を通じて、「バイオディフェンス」という単語が日本で聞かれることはなかった。

   では、「バイオディフェンス」とは、一体何なのだろうか。

   日本語では「生物防衛」といい、バイオセキュリティ(生物学的脅威からの安全保障)を確保するための防衛策のことを指す。要するに、自然発生的な事案か、人為的な事案かに拘わらず、細菌・ウイルス・毒素等の生物学的脅威から国民を守るため(国民保護)の対応策を指している。その対応策は、生物学的脅威に対するシビリアン(文民)とミリタリー(軍)の危機管理活動の別を問わず、両方を包含する概念である。

   バイオディフェンスを構成する要素は様々あるが、最も重要なのは、以下の2つだ。

1. 有事の事態対処のための組織形態と運用概念

2. 平時からの危機管理医薬品(MCM)の確保

 我が国のCOVID-19事態対処で浮き彫りになったのは、皮肉にも、バイオディフェンスで最も重要なこの2つの点への理解不足・能力不足である。

危機管理には「共通の知的基盤」が不可欠

1. 有事の事態対処のための組織形態と運用概念

 危機管理活動の中心的役割は政府にあり、その政府を構成する官僚にある。しかし、日本の多くの官僚は、危機管理のための教育を全く受けていない中で危機管理活動を行っているのが現実だ。

 先進各国や国際機関では、可能な限り多くの人々を守るために最大の危機管理効果を発揮すべく、体系的な事態対処行動を構築する努力を続けている。危機時の組織設計から職員の教育訓練に至るまで、標準化が図られているのだ。すなわち、「危機管理という営みはどういうものなのか」、「平時の事態準備行動(プリペアドネス)とはどういうものなのか」、「危機時の事態対処行動(レスポンス)とはどういうものなのか」という共通の知的基盤の上に、個別政策が形成される。

 一方、我が国の政府は、その政府を運用する官僚自身に対してそのような教育訓練を課す機会をこれまで設けてこなかった。

 また、「専門家」と称する医療従事者・学者・研究者も、実際には危機管理の基礎教育を受けたことがなく、実務経験もない方々が大半のため、例えば特定のコロナ対策を科学的だから良い、科学的でないから良くないという科学二元論で論じている場面が多々見受けられ、我が国の言論空間はそのような言説に満ちている(もちろん科学が必要な要素もあるが、それは危機管理活動の一要素に過ぎない)。これは、「危機管理活動という営みは、科学ではない。アート(運用術)である」という、危機管理に関するそもそもの基礎知識に欠けていることの証左であり、そのような状況の中で議論が繰り広げられているのが我が国の現実である。

 事態対処行動を標準化する試みが、標準的組織形態としてのインシデント・コマンド・システム(ICS)や、種々の運用概念である。例えば、コロナ対策に従事している官僚に、組織形態である「統制範囲(Span of Control)」や、運用概念としての「状況認識(Situational Awareness)」について、問うてみてほしい。ほぼ通じないのではないだろうか。一方、これらの危機管理上の概念は、日本以外の先進諸国や国際機関では共通言語である。

 組織形態の具現化様式としてのICSについても、「聞いたことがある」という官僚は少数ならずともいるが、事態対処の組織形態として腹落ちしていたり、実際に運用経験のある官僚は極々少数だろう。政治家や自治体職員、学者なども同様の状況だと思われる。

 このような状況は、決して官僚個々人に非があるのではないことは強調しておきたい。そもそもの日本政府のシステムの問題である。従来、日本政府は個々の官僚に充実した教育訓練を提供する体制自体を有していないのだ(自衛官・警察官・消防官は別)。国家的脅威から我々国民を守る戦略を立案し、事態対処を実行するのは、ミリタリー領域では自衛官、シビリアン領域では一般の官僚である。筆者は一国民として、一般の官僚にも危機管理において高い知見や能力を保持し、高い練度を維持していて欲しい。読者諸氏も同じなのではないだろうか。

 国家的な危機管理活動で中心的な役回りを担うのは、日本政府である。しかし、日本政府で官僚として日常業務をこなしているだけでは、危機管理ができるようにはならず、日本国民のために良い仕事ができない。このようなジレンマが、危機管理を志し、国益意識の強い官僚にはある。したがって、そういう官僚は、外国政府や国際機関に赴いて指導を仰ぎ、それを自身の組織に持ち帰って孤軍奮闘する(そのような官僚はごく少数なので、結局組織全体に広がらない)。海外ではなく日本国内であれば、少しでも危機管理と称する実務にあたる官僚や研究者は、すぐにでも自衛隊に指導を仰ぐべきである。自衛隊の教育訓練課程は、一般の官僚と比較して異次元に充実している。なぜなら、本来国を守る人材は、このような体系的な教育訓練を経なければ育成できないからである。

 2011年の東日本大震災と福島原発事故、2020年のCOVID-19パンデミックと来て、次なる国家的危機は台湾有事かもしれない。COVID-19といったバイオディフェンス事案に限らず、台湾有事など、国家的危機として切迫した事態の際に、有限の資源で如何に効率的に事態対処を行うのかを真剣に考える時期に来ているのではないか。そのためには、政治家・官僚・自治体職員に対し、危機管理に関する共通の知的基盤を提供する教育訓練が必要だ。

 災害列島に生き、極東の厳しい安全保障環境に直面している我が国政府は、今年中に行われる戦略3文書(国家安全保障戦略・防衛計画の大綱・中期防衛力整備計画)の改訂や、内閣感染症危機管理庁と日本版CDC(疾病予防管理センター)の創設など、我が国の安全保障・危機管理体制のアップデートに合わせ、政治家・官僚・自治体職員の危機管理トレーニングに多くの予算を投資すべきである。危機管理に関する政治家・官僚・自治体職員の練度の高低は、国民の安全に直結している。

診断薬・治療薬・ワクチンが「三種の神器」

2. 平時からの危機管理医薬品(MCM)の確保

 2つめの点、「危機管理医薬品(MCM: Medical Countermeasures)」とは何か。

 それは、国民を守るため(国民保護のため)の武器のことであり、事態対処のための組織形態と運用概念と並び、バイオディフェンス政策体系の中で核となる政策分野である。

 2018年に米国は、「国家生物防衛戦略(National Biodefense Strategy)」を発表した。本戦略は、米国民を守るために、バイオディフェンス政策体系の中で強化すべき事項として、以下の5項目を挙げている。

① インテリジェンス(Intelligence)

② 予防と抑止(Prevention and Deterrence)―― 特に大量破壊兵器に対して

③ 事態準備(Preparedness)

④ 事態対処(Response)

⑤ 回復(Recovery)

 この5項目のうち、③事態準備(プリペアドネス)と④事態対処(レスポンス)では、その多くをMCMに関する記述が占めており、MCMがバイオディフェンス政策体系において中核的な位置付けを占めていることがわかる。

 MCMには、「三種の神器」がある。診断薬(Dx)・治療薬(Tx)・ワクチン(Vx)の3つ(DTV)だ。MCM政策の要諦は、DTVという三種の神器のポートフォリオ・マネジメントにある。

 MCM政策は、まずは生物学的脅威に対する我が国の脅威認識の明確化、即ち、我が国とってどの生物学的脅威のリスクが高いのかという脅威の同定を行い、その優先順位付けを行うことから始まる。

 次に、政府による脅威認識や優先順付けに基づき、企業が脅威に対抗できるための医薬品(DTV)の研究開発を行う。

 最後に、企業が開発した医薬品を政府が薬事承認し、企業が製造し、政府が買い付けて調達し、備蓄し、危機の際に供給・放出し、投与するためのロジスティクスを整備する必要がある。

 この3段階を合わせて「MCMバリューチェーン」と呼び、各々をMCMバリューチェーンの上流・中流・下流と呼び、区別される。

 政府が政策というツールを用いて提供できる価値は、上流・中流・下流で各々異なる。

 上流では、国家的ニーズを示し、学術機関・企業の研究開発における目標設定をサポートする機能がある。

 中流では、学術機関・企業の開発戦略支援が焦点となる。MCM政策体系の中で、いわゆる「創薬」とは中流のことを指す。

 下流では、政府の企業に対する事業戦略支援・インセンティブ付与が主眼である。

 また、生物学的脅威に対するバイオディフェンスは、一般的に1カ国のみで完結することはなく、MCMの研究開発や調達が複数国にまたがって必要となったりすることが常である。即ち、ある国の政府にとっては、内政上の制度設計のみならず、MCMバリューチェーンに沿った外政上の対応も必要となることを意味する。これは、例えばCOVID-19ワクチンについて、我が国の国内的な対応のみならず、海外から調達したという事実にも見て取れる。

 このように、MCMバリューチェーンには、「上流・中流・下流」と、それぞれに応じた「内政・外政」上の施策が存在する。即ち、MCMバリューチェーンは、3×2=6のコンポーネントで構成されていると考えれば良い。

 まとめると、診断薬(Dx)・治療薬(Tx)・ワクチン(Vx)の三種の神器のそれぞれに対し、MCMバリューチェーンの6つのコンポーネントが存在するため、合計で3×6=18のコンポーネントについて、ポートフォリオを構築する必要があるのである。

 実は、「MCM」という概念には、狭義と広義の意味がある。三種の神器は「狭義」のMCMである。「狭義」の意味である三種の神器を「薬事的(Pharmaceutical)MCM」と呼び、「広義」の意味では「非薬事的(Non-pharmaceutical)MCM」として人工呼吸器・個人防護具・マスクといった医薬品以外も含む。

 しかし、MCMと言えば「狭義」のMCMを指すことが一般的なので、本稿ではMCM=危機管理医薬品として論じている。

図:MCMバリューチェーン

 

「ワクチン研究開発」だけでは必要な政策体系の「1/18」

 日本のMCM政策体系には、相当程度の偏りがある。

 COVID-19パンデミックでは、ワクチン(Vx)が注目を浴びた。我が国は、COVID-19ワクチンの研究・開発・製造能力を発揮できず、「ワクチン敗戦」という印象を国民に与えた。

 その結果、政府は、「ワクチン開発・生産体制強化戦略」(2021年6月1日閣議決定)を発表した。しかし、これはワクチンのみに焦点を当てており、三種の神器の2つが抜け落ちている。診断薬(Dx)と治療薬(Tx)を含む包括的な戦略は、未だ存在しない。

 同ワクチン戦略を受け、翌2022年3月、政府は日本医療研究開発機構(AMED)内に「先進的研究開発戦略センター(SCARDA)」を設立した。略語のSCARDAは、「Strategic Center of Biomedical Advanced Vaccine Research and Development for Preparedness and Response」から来ている。直訳すると、「事態準備と事態対処のための生物医学先進ワクチン研究開発戦略センター」であり、その名の通り、ワクチンの研究開発を目的としていることがわかる。戦略文書自体も、戦略を具現化するために構築された組織も、ワクチンのみを主にその対象としていることが見て取れる。

 SCARDAが創設されたことは、我が国のMCM政策にとって大きな一歩である。しかし、我が国の戦略と組織は、MCM三種の神器のうちワクチンのみ、そしてワクチンに関するMCMバリューチェーンのうちほぼ内政の中流(研究開発)のみに焦点を当てていることがわかる。即ち、MCMバリューチェーンを構成する合計18コンポーネントのうち、1/18しか焦点を当てていないと言える。

 バイオディフェンスの武器たる三種の神器のうち、ワクチンのみに偏ることの意味合いは何だろうか。それは、例えば、陸軍・海軍・空軍という3つの主要軍種のうち、空軍だけに戦略を作ってリソースを注ぎ込み、陸軍と海軍の存在は無視されているのと同じような意味合いがある。これでは脅威に対して総合的に対抗することが難しいことは、自明である。

 今後、我が国国民を総合的に守る能力を涵養するために、ワクチンだけでなく、MCM三種の神器それぞれのMCMバリューチェーンについて体系的に論じた戦略文書が出てくることが望まれる。

「生物防衛版NATO」構築の動きとバイオディフェンスの日米同盟

 日本のMCM政策体系には、偏りがある。しかし、日本を含むG7(主要7カ国)を代表とする国際社会のMCM政策は、より包括的なスコープで捉えている。

 2021年、G7は、MCMに関する「G7 100日計画」というプロジェクトを発表した。2020年に発生したCOVID-19 パンデミックでは、WHO(世界保健機構)の緊急事態宣言から約300日で初めてのワクチンが承認された。しかし、次なる感染症危機が到来した際には、WHOの緊急事態宣言から100日以内に、診断薬(迅速診断キット)を承認し、治療薬の投与開始を行い、ワクチン量産化の準備が完了することを目指そうというのが、「G7 100日計画」である。

 G7 100日計画とは、バイオディフェンスの観点ではどのように解釈したら良いのか。要するにG7 100日計画とは、国民保護政策と経済安全保障政策を合体させたものである。国民保護の観点では、MCMというバイオディフェンス上の武器の開発時間軸を加速化し国民を守ることであり、経済安全保障の観点では、同志国だけで完結するMCMのサプライチェーンを確立することである。

 また、同志国によるMCMの国際共同開発計画であるG7 100日計画は、「集団生物防衛(Collective Biodefense)体制」を構築する一環である。

 集団生物防衛とは、北大西洋条約機構(NATO)に代表されるような軍事分野における集団防衛(Collective Defense)の生物版のことである。

 北大西洋条約の前文は、「締約国は、集団的防衛(Collective Defense)並びに平和及び安全の維持のためにその努力を結集する決意を有する」と述べ、NATOが集団防衛体制を構築すること明らかにしている。

 また、北大西洋条約5条は、「締約国に対する武力攻撃を全締約国に対する攻撃とみなし、集団的自衛権を行使して北大西洋地域の安全を回復し及び維持するために必要と認める行動(兵力の使用を含む)を個別的に及び共同して直ちにとることにより、攻撃を受けた締約国を援助する」と規定している。

 生物学的脅威は、人間の意思に関係なく、容易に国境を越えて拡散する。したがって、アプリオリに世界規模の脅威である。生物学的脅威が世界規模の脅威である以上、1カ国のみでバイオディフェンスを行うことは非現実的である。したがって、意思と能力のある同志国が集い、共同で対処し、相互に援助することが重要となる。このような体制が「集団生物防衛(Collective Biodefense)」である。

 集団生物防衛を目的として構築されたMCMに関する国際的な枠組みは、「G7 100日計画」以外にも存在する。例えば、G7+メキシコで構成される「世界健康安全保障イニシアティブ(GHSI)」や、日米豪印の4カ国で構成される「QUADワクチンパートナーシップ」が挙げられよう。

 しかし、このような共同の事態対処枠組みは、国の数が増えれば増えるほど管理が複雑になり、運営が難しい。最もシンプルかつ有効に機能し得るのは、二国間の枠組みである。日米は、2007年より「日米バイオディフェンスシンポジウム」という枠組みを継続しており、有効に機能している。

 軍事同盟として60年以上に渡って関係を深化させてきた日米同盟は、バイオディフェンスの分野にも波及効果を及ぼし、両国の協調を促しているのである。

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