東日本大震災から4年:遺族が問い続ける「企業の責任」

寺島英弥
執筆者:寺島英弥 2015年3月5日
カテゴリ: 社会
エリア: 日本

 東日本大震災の被災地は、間もなく5度目の3月11日を迎える。宮城、岩手両県の沿岸では、あの日壊滅した町々の再建に向けた大規模なかさ上げ(土盛り)工事が進められ、被災者が仮設住宅から高台の造成地へ移り住む動きも、ようやく本格化し始める。まだ見渡す限り土色の風景の中で3月21日、宮城県女川町はJR線と駅舎の復旧・再開を機に「まちびらき」を行い、「復興」を宣言する。しかし、その歩みは津波の記憶をも赤土の下に埋めていく。女川町でわが子を津波に奪われ、この4年間、「なぜ、死なねばならなかったか?」と問い続けてきた声がある。「語り部」ともなった夫婦の声を紹介する。

 

鎮魂の花壇

 宮城県石巻市と境を接する女川町には、2011年3月11日午後2時46分ごろの大地震に続いて同3時20分過ぎ、津波が湾口防波堤を破壊して到達した。リアス式海岸で奥が狭まる女川湾を進んだ津波は高さを増し、最高20メートル前後に達したという。建物や住宅約6500棟が被災し、その3分の2が全壊。827人(うち行方不明者254人)が犠牲になった。

 女川町の中心部では現在、被災した建物が撤去されて、膨大な量と面積のかさ上げ工事が進む。再建されたJR女川駅の周辺の区域は、町の新しい地盤となる高さ10メートル近い盛り土の上にある。津波を生き延び、いまも唯一目に付く建物が、中心部にそびえる堀切山の上にある女川町地域医療センター(旧町立病院・海抜16メートル)。堀切山には、地域医療センターの広々とした駐車場に通じる車道のほか、南北から徒歩でじかに登れる鉄製の避難階段がある。町の中心部で唯一の高台である堀切山と旧町立病院は、震災前から町の指定避難所で、津波のあった当日は、入院患者や職員、駆け上ってきた町民ら653人が病院内で命を救われた。それでも津波は病院1階の天井近く、高さ約2メートルに達した。

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執筆者プロフィール
寺島英弥
寺島英弥 河北新報編集委員。1957年福島県生れ。早稲田大学法学部卒。東北の人と暮らし、文化、歴史などをテーマに連載や地域キャンペーン企画に長く携わる。「こころの伏流水 北の祈り」(新聞協会賞)、「オリザの環」(同)、「時よ語れ 東北の20世紀」など。フルブライト奨学生として2002-03年、米デューク大に留学。主著に『シビック・ジャーナリズムの挑戦 コミュニティとつながる米国の地方紙』(日本評論社)、『海よ里よ、いつの日に還る』(明石書店)。3.11以降、被災地における「人間」の記録を綴ったブログ「余震の中で新聞を作る」を更新中。
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