中東―危機の震源を読む
中東―危機の震源を読む(57)

「核兵器なき世界」の本当の意味と「日本の役割」

池内恵
執筆者:池内恵 2009年9月号
カテゴリ: 国際
エリア: 中東 北米 日本

 中東の夏は物事が進まない。要人は避暑に出て政務は停滞し、政争も一時休戦となる。ただし政治と社会が弛緩した間隙をついて重大な突発事態が起こるのも中東の夏である。一九九〇年のイラクのクウェート侵攻(湾岸危機)は八月二日に始まり、二〇〇六年のイスラエルとヒズブッラー(ヒズボラ)の軍事衝突は七月十二日から三十四日間続いた。
 このため中東から完全に目を離すことはできないのだが、今年の夏は広島を訪れ、八月六日の平和祈念式典に出席してみた。「核兵器なき世界」をスローガンとした核不拡散体制の再構築が国際政治の主要な関心事となる中で、日本がどのような役割を果たせるか、考えてみたいと思ったからだ。
 いうまでもなく、核不拡散体制の再構築が緊急の課題として浮上したきっかけは、一つは北朝鮮の核兵器・ミサイル開発であり、もう一つはイランの核開発疑惑の深まりによる中東全域への核拡散の危機である。日本は北朝鮮の隣国であって、核拡散によって安全保障を直接に脅かされる当事者である。同時に、唯一原爆を投下された国として、倫理的に独自の立場から国際的な議論を主導する可能性を持つ。これはイランの核問題を中心とした中東の核不拡散に関しても、独自の政治的役割を果たし得るということでもある。
 核不拡散をめぐる国際政治において、従来の日本の立場はどのようなものだったか。核不拡散条約(NPT)と国際原子力機関(IAEA)を柱とした核不拡散体制の枠組みの中で、筆頭の「優等生」であったとはいえる。他方、国際政治とは次元を異にした「反核運動」が、日本国内の核をめぐる議論で支配的だった。広島と長崎の惨禍を伝える運動が、被爆者の経験した筆舌に尽くしがたい苦難の次元においては普遍的であり大きな説得力を持つことは確かである。
 しかし日本の反核運動は国際政治上の有効な資源とはなってこなかった。東西冷戦の中で東側陣営に与する政治・イデオロギー性を色濃く持ったことで普遍性を失ったからだ。
 反核運動が「連帯」を表明してきた「第三世界」では、反核論は米国に対抗する反米主義として受け止められてきた。また、原爆による惨禍を伝えることは、核兵器廃絶の機運をもたらすよりは、むしろ「原爆を投下されないためには、核武装をしなければならない」という教訓として受け止められてきた。さらに、テロリズムを含む武装闘争を正当化する論理にも組み込まれてきた。
 パキスタンは九八年五月二十八日に第一回の核実験を行なったが、その直後にシャリーフ首相(当時)は、経済援助停止を始めとする日本の対抗措置を牽制し、「この問題に対する日本の立場は理解できる。しかし日本が過去に被った惨禍を、われわれは避けなければならない。ヒロシマとナガサキに起こったことは、日本が核兵器を保有していれば起こらなかったはずだ」と述べた。
 アル・カーイダのビン・ラーディンやザワーヒリーの声明では米国へのテロリズムの正当化のために広島と長崎が頻繁に言及される。例えば、ビン・ラーディンはビデオ・インタビューで、テロリズムへの批判に対し、「アメリカこそ核兵器を保有し、極東のナガサキとヒロシマで人民を攻撃したのだ。すでに日本が降伏し、世界大戦が終わりかけていたにもかかわらず、子供も女も老人も一緒にした、人民全体の攻撃に固執したのである」と反論した。
 原爆投下時に「すでに日本が降伏」していたというのは事実に反しているが、これはアメリカが原爆投下を「日本の降伏を促進し、その後に生じたであろうより多くの犠牲を防いだ」と正当化する論法にあらかじめ対抗したものとみられる。
 八月六日の広島平和祈念式典も、かつては中東諸国のメディアで毎年大きく報じられていた。しかし今年の式典は中東諸国のメディアでほとんど報じられることはなかった。イラン内政の動揺や、レバノンの組閣の紛糾、パレスチナの分裂といった注目を集める話題が多くあるのも確かだ。しかしそれ以前に、核兵器が中東諸国にも手の届くものとなり、選択肢の一つとして意識され始めた現在、核兵器を絶対悪とし、それを使用した米国を悪の権化として非難するかつての議論が不適切になったからだろう。

軍事的優位性は譲らない米国

 まさに中東諸国が「ヒロシマ」への非難をもって倫理的優位性を主張する議論を控えるようになったのと同時に、米国からは核軍縮の必要性を唱える議論が主流派のリアリストたちから出てきたのは、偶然ではなく当然の一致といえよう。
 議論の流れを方向づけたのは、ヘンリー・キッシンジャーとジョージ・シュルツ、ウィリアム・ペリーとサム・ナンという冷戦期に核抑止論を展開した著名なリアリストたちが、〇七年と〇八年に米『ウォールストリート・ジャーナル』紙に寄稿した論稿である。そしてオバマが大統領候補として〇八年七月二十四日のベルリン演説で「核のない世界」を目指すと表明し、今年四月五日のプラハ演説で核軍縮を米国が主導すると宣言した。
 日本では、オバマがあたかも絶対平和主義者で「善」であるかのように、またキッシンジャーのようなリアリスト「でさえも」過ちを認め、あたかも反省・改心したかのような論評が多いが、そのような認識では核不拡散をめぐる国際政治で主導権を握ることは不可能だ。
 実際には、次のような状況変化への認識を踏まえて、倫理的優位性と軍事的な実効性の重点の置き方が、諸当事者の間で大きく変化していると見るべきだろう。
 かつては核兵器の保有と非保有によって、国家間に次のような関係が生じていた。核を保有する大国間では相互確証破壊による抑止が成立し、核保有国と非保有国の間では圧倒的な力の格差が生じた。核兵器は大国にとって地位の確保と、小国に対する絶大な威嚇効果があった。ヴェトナム戦争に見られるように、大国は小国を意のままにはできないが、小国は大国に対する脅威とはならなかったのである。
 しかし現在は、核兵器保有によって小国や国に満たないテロ組織が超大国を威嚇することが可能になりかけている。
 ここから、米国のリアリストによる、核兵器に対する倫理的な非難を強調する議論が出てきた。核兵器開発能力が保有国に限定されていた間は、核兵器の倫理的な「悪」としての非難は非保有国が用いるものだった。しかし現在は多くの国が潜在的に核兵器開発能力を有している。ここから、核保有国の側が、軍事的優位性を維持するために、核兵器の非人道性を強調して核不拡散を再強化しようとする動きに転じた。
 オバマのプラハ演説そのものが、新たな状況を反映した戦略的な構造になっている。ここでのオバマのレトリックは他の演説とも共通したものである。米国に向けられてきた批判を一度は受け止めて認めることで、倫理的に不利な状況を回避する。そして問題解決のための責任を強調するところから、いつの間にか主導権を握ってしまう。「核兵器を使用した唯一の核保有国として、米国は行動することへの倫理的な責任を負っている。この試みは単独では功を奏しない。しかし米国はこれを主導し、自ら始めることができるのだ」という論理展開である。「核兵器なき世界をめざす」という宣言はこの文脈でなされる。
 重要なのは、オバマが米国の責任を認めることは、米国の軍事的優位性を譲ることになんら結びつかないことである。「はっきりさせておこう。核兵器が存在する限り、米国は安全で確実で効果的な核兵器を維持して敵を抑止し、同盟国にも防御を保障する」。
 これはまさに、核保有国と非保有国の格差を永続化させる従来の核不拡散体制の理念を再度打ち出したものである。違いがどこにあるかといえば、この格差を維持することが困難であることが明白となり、新たに核保有を行なおうとする国を抑制する新たな体制を構築する必要が出てきたことである。そのために、まず保有国側が核軍縮の努力を示すことによって倫理的優位性を確保する必要が認識された。オバマのプラハ演説は倫理的優位性の確保と、軍事的優位性の確保を両方得ようとする戦略的な言説である。
 日本の主要メディアの議論を見る限り、核不拡散体制の再構築を模索する国際政治の動きは正確に伝えられていない。新たな核保有国が出てくる危険を抑制する方法を議論するよりも、日本が米国の核の傘の下にいることを倫理的に非難する、観念的な議論が未だに支配的である。唯一の被爆国というだけでなく、核不拡散体制の枠組みの中で平和目的に限定した原子力開発を進めてきた日本の経験を肯定的にとらえて日本型モデルを中東諸国への代替案として示すような、前向きの議論が出てくるのはいつのことだろうか。

Ikeuchi Satoshi●1973年、東京生れ。東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻博士課程単位取得退学。日本貿易振興機構アジア経済研究所研究員、国際日本文化研究センター准教授を経て、2008年10月より現職。著書に『現代アラブの社会思想』『書物の運命』『イスラーム世界の論じ方』、本連載をまとめた『中東危機の震源を読む』などがある。

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執筆者プロフィール
池内恵
池内恵 東京大学先端科学技術研究センター准教授。1973年生れ。東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻博士課程単位取得退学。日本貿易振興機構アジア経済研究所研究員、国際日本文化研究センター准教授を経て、2008年10月より現職。著書に『現代アラブの社会思想』(講談社現代新書、2002年大佛次郎論壇賞)、『イスラーム世界の論じ方』(中央公論新社、2009年サントリー学芸賞)、『イスラーム国の衝撃』(文春新書)、本誌連載をまとめた『中東 危機の震源を読む』などがある。個人ブログ「中東・イスラーム学の風姿花伝」(http://ikeuchisatoshi.com/)。
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