ニューヨーク発:「ヒラリー・クリントン」はなぜ敗れたのか

青木冨貴子
執筆者:青木冨貴子 2016年11月13日 無料
カテゴリ: 国際 政治 社会
11月9日、米大統領選での敗北を認めたヒラリー・クリントン氏(ニューヨーク)(C)AFP=時事

 11月9日朝6時、ニューヨーク。目覚めたら、トランプ勝利の悪夢が現実のものになっていた。まさか、こんな結果を誰が予想しただろう。世論調査も各メディアも僅かな差でクリントンが勝ち、米国史上初の女性大統領が誕生するものと胸を張っていた。
 しかし、政治にまったく経験のない不動産王でテレビ・コメンテーターのドナルド・トランプが米国第45代大統領に選ばれた歴史的な朝になったのである。
 これはニューヨークの岩盤が地殻変動したような事実だった。目の前のニュースに息を飲んだのは、市民ばかりでなく、民主党、共和党の政治家、メディア関係者、世論調査機関など全員である。痛みを伴うほどの衝撃とこみ上げる怒りに震えて号泣する者も出た。この先、米国はどうなるのか。まったく先の見えない不安に襲われる。
 シリアの戦争、ISISとの戦い、ロシアの暗躍、北朝鮮のミサイル攻撃、中国との軋轢はどうなるのだろう。イスラム教徒は入国禁止、移民は閉め出され、メキシコ国境に壁が造られるのか。とんでもない大紛争、核戦争や第3次大戦などが起こるかもしれない。すべて、ヒラリー・クリントンが敗れたからである。ヒラリーは何故、敗北したのか。

信じがたい展開

 昨8日の投票日は、素晴らしい秋晴れに包まれた。夏を思わせる強い日差しのなか、公立学校などに設けられた投票場には長い列が続き、何時間も投票を待つ市民で溢れた。長蛇の列はニューヨーク市ばかりでなく、投票の始まった多くの州で見られた。
 テレビでは夕方6時から大統領選の特別番組が始まり、投票が終わって開票の始まった州から、予想を報じる。投票時間も州によって異なるし、東海岸と西海岸では3時間もの時差があるので、西海岸の投票が終わるときには東部時間の深夜12時になる。
 さらに、米国の大統領選挙では、州ごとの一般投票で大統領選挙人を選び、その選挙人が大統領を選ぶという間接選挙になっている。選挙人の数は州によって大きく異なり、カリフォルニア州では最大の55人を数える。選挙人の数が総計270名を制した方が大統領になるというシステムになっている。
 午後7時2分、開票の始まったインディアナ州(大統領選挙人11名)とケンタッキー州(8名)はトランプが制覇するという予想が出た。8時12分、クリントンがマサチューセッツ州(11名)、ニュージャージー州(14名)、メリーランド州(10名)を制するという見通し。
 ニューヨークでは夜9時に投票が終わった途端、9時7分、クリントンがニューヨーク州(29名)で大きく勝ち、トランプはテキサス州(38名)を取ったという見通しが出る。トランプの予想以上の善戦に驚き、何か様子がおかしいと感じ始める。
 10時28分、トランプがミズーリ州(10名)、続いて10時39分、オハイオ州(18名)を取る。このまま勝ち進むとトランプが大統領選を制するのではないか、という思いが初めて頭をもたげてくる。
 この時刻になると、接戦州であるフロリダ州(29名)、ペンシルベニア州(20名)、ノースカロライナ州(15名)、ミシガン州(16名)各州で、ほんの1パーセントの大激戦が続き、どちらがこれらの州を制するかが選挙の鍵になってきた。
 とくに選挙人の多いフロリダ州は選挙前から話題になっていた。トランプはマイアミに近いパームビーチにスペインふうのマール・アラーゴという別荘をもつため、フロリダが地元だという意識が強い。一方、引退したニューヨーカーが多く住むフロリダは民主党の基盤であり、ヒラリーの票田である。
 10時53分、フロリダはついにトランプに制圧されるという見通しが伝わった。マンハッタン市内にいる友人から電話が入る。民主党選挙本部のジャビッツ・センターに詰める満員の観衆のなかには帰宅する人が出ているという。巨大なコンベンション・センターに詰めたかけた観衆がヒラリー敗北を認め始めたことになる。

声を上げたブルーカラー

 それでもクリントンにはまだ僅差で勝ち残るチャンスはあった。この選挙でトランプが予想以上の力を得たのは、「ラスト・ベルト(錆び付いた地帯)」と呼ばれる中西部のペンシルベニアから北東部にかけての労働者たちの支持だった。ここでは19世紀末から20世紀初頭にかけて、ポーランドなどから入って来た白人労働者が鉄鋼工場などで働き、米国の製造業の原動力となって一時代を築いた。しかし、その工場が80年代に入ってから、ひとつひとつ閉鎖され、職を失った白人労働者は社会保障に頼る以外に生きる道を失ったのである。
 彼らは民主党員であり、4年前にはオバマ支持で結束していた。そのブルーカラーが今回はついに声を上げ、現政府にはもう何も期待できないから、トランプという未知の候補者に賭けてみることにしたのだ。
 この夏、民主党が党大会を開いたのは、ラスト・ベルトに最も近いペンシルベニア州のフィラデルフィアだった。ヒラリーは党大会の翌日、かつて鉄鋼業で栄えたピッツバーグに近いジョンズタウンで遊説し、ペンシルベニアには何回も足を運んでいる。
 もし、ヒラリーがペンシルベニアからミシガン州、ウイスコンシン州などのラスト・ベルトを取れば、状況は一変する。しかし、9日1時42分、1パーセントの差で争っていたペンシルベニア州がトランプの手に落ちると、およそ1時間後にはウイスコンシン州も続き、AP 電がトランプ勝利予想を発表、トランプが勝利宣言したのは未明の3時11分だった。ジャビッツ・センターではボランティアの若い女性が肩を震わせ、涙を流している姿が映る。まさに、この瞬間、歴史がつくられようとしているのを感じる思いだった。

「ヒラリーは信用できない」

「誰か凄い人間が出て来て、この国を半分でもよいから元に戻してもらいたい」
 ラスト・ベルトで使われる石炭を産出するケンタッキー州の小さな町で、白人の女性店主がニューヨーク・タイムズ紙(9/11/2016)にこう訴えていた。炭坑関連の仕事をしていた夫は失業し、2人は貯金を崩して生活しているが、健康保険の支払いにも窮しているというのだ。4年前にはオバマに投票したが、トランプこそ(外国との)貿易取引を破棄して、ビジネスを繁盛させ、オバマの残した混乱をおさめてくれると信じている。
 英雄願望のように聞こえる彼女の訴えは、どうにもならないラスト・ベルトの窮状を伝える。
 この女性店主にとって、誰か凄い人間というのがトランプである。「アメリカを再び偉大な国に」というトランプの標語に彼女は飛びつき、ラスト・ベルトの住民もこれに大喝采した。
 一方、この女性店主は「ヒラリーは信用できない」と断言する。彼女の言葉の裏には、ワシントンへの絶望、東部エスタブリッシュに対する不信と嫌悪が明らかに見える。もとは民主党員でオバマに投票した彼らの追いつめられた窮状と怒りがどれほど強かったか、ヒラリーに伝わっていたのだろうか。

優等生の答弁

 ヒラリーこそ、彼らの怒りの的である東部エスタブリッシュメントである。いくら父親がブルーカラーであったと言っても、彼女自身がウエルズリー大学からエール大学法科大学院に進んだエリートだし、国務長官も務め、政治に関しては40数年間、夫とともに歩んで来たプロのなかのプロである。
 もっとも致命的だったのは、ヒラリーの演説にはこの米国をいったいどういう国にしたいのか、大きな標語が出て来なかったことだった。憂えるこの国にどんな新しいビジョンを描くのか、斬新な言葉も生まれなかった。教育や福祉や女性の社会進出や権利などを主張するのはわかるが、そういう各論ばかりではまるで優等生の答弁のように聞こえてくる。
 国務長官時代にはリビア東部のベンガジの米在外公館がテロリストに襲われ、大使ら4人が殺害される事件が起きた。マイナス要因としてトランプにすっかり利用されてしまったが、国務長官時代に彼女は何を達成したのだろうか。あの頃、次の選挙で傷つくことを恐れて何もしないという不満をワシントンで聞いたことがあった。さらに、個人のメールサーバーを使って仕事のメール交信をしていた疑惑は選挙戦の最後までついてまわった。
 そのうえ、米国初の女性大統領になるという野心が透けて見えるようで、隠しようもなかったではないか。

「多様性」は尊重されるか

 米国に長く住んでいる人間として、オバマの2期8年間の後には、多くの市民が次のサイクルを望んでいたと実感する。ビル・クリントンによる8年、ジョージ・ブッシュによる8年、オバマによる8年の後には、やはり変化を求めたい。ヒラリーではオバマの継承である。基本的に何も変わらない。
 トランプ大統領誕生の背景には、ラスト・ベルトの労働者だけでなく、一般市民も変化を求めていたことが大きく作用した。オバマにはもういい加減、飽き飽きという気分の市民も多かったのである。
 さらに、いちばん気になるのは、白人女性53%がトランプに投票したことである(クリントンは43%)。アメリカ第1を訴え、移民を閉め出すトランプ大統領を生んだ市民は、白人の国を守りたいという彼の本音に共鳴したのである。
 多様性を求め、多くの人種が同じように手を繋いで歩める社会を理想としてきたこの米国がまったく別の方向へ動き出した。この国はこの先もわたしの住める国になるのであろうか。32年を数えるわたしの滞米生活を振り返って、初めて身震いする思いである。

この記事は役に立ちましたか?
フォーサイト最新記事のお知らせを受け取れます。
この記事をSNSにシェアする
執筆者プロフィール
青木冨貴子
青木冨貴子 あおき・ふきこ ジャーナリスト。1948(昭和23)年、東京生まれ。フリージャーナリスト。84年に渡米、「ニューズウィーク日本版」ニューヨーク支局長を3年間務める。著書に『目撃 アメリカ崩壊』『ライカでグッドバイ―カメラマン沢田教一が撃たれた日』『731―石井四郎と細菌戦部隊の闇を暴く』『昭和天皇とワシントンを結んだ男』『GHQと戦った女 沢田美喜』など。 夫は作家のピート・ハミル氏。
comment:7
icon
  • 記事の閲覧、コメントの投稿には、会員登録が必要になります。
フォーサイトのお申し込み
注目記事ランキング
  • 24時間
  • 1週間
  • f
  • 新着
  • 高評価
  • コメント数順