為替市場には荒ぶる神々が棲まう。火砕流のような円売りの奔流が巻き起こり、ドル・円相場が大荒れとなっている。日本の財務省は大量の円買い・ドル売り介入で円安の加速をひとまず食い止めた。攻防戦を左右するのは何なのだろうか。
日本が祝日の4月29日の午後1時すぎ、アジア市場の外国為替市場で、政府・日銀は円買い・ドル売り介入に踏み切った。この日の午前、円相場は1ドル=160円台に突入し、1990年4月以来34年ぶりの安値をつけからだ。円売りを仕掛ける海外のファンド勢が狙ったのは、日本企業や投資家などが狼狽気味に円売りに殺到する事態だ。
円が90年4月につけた160円ラインを突破すれば、後は85年9月のプラザ合意の際の240円まで一瀉千里である。そんな解説が木霊した。円安の背景には日米の金利差がある。植田和男総裁の率いる日銀は3月にマイナス金利解除に踏み切ったが、追加利上げには慎重。そんななか、日本が単独で為替介入しても焼け石に水といった解説も横行した。
円安の主因は米国の高金利に
確かに今回の円安加速の引き金を引いたのは日銀だった。4月25~26日の日銀金融政策決定会合。為替市場が催促したのは、日銀による円安の牽制である。具体的には、月間6兆円規模で実施している長期国債の買い入れを減額し、長期金利の上昇を容認する姿勢を示すことだった。ところが決定会合はお愛想なしで、金融政策は据え置かれた。
4月26日午後3時半からの植田総裁の記者会見でも、円安を牽制するそぶりを見せなかった。かくて金融政策の据え置き発表前の正午に、1ドル=155円台で推移していた円相場は、日本が夜を迎えた26日の米国市場では一気に158円台に下落した。政府・日銀は動けないとみて、円に対する売り安心感が広がったのだ。その雰囲気は週をまたいで4月29日にも継続する。
「通貨危機」、「ジンバブ円」。SNSにはそんな言葉が溢れた。「通貨危機」とは円安に歯止めが利かなくなり、輸入物価が高騰し景気が失速する事態。一方、長期金利の高騰から財政が破綻するといった極論である。「ジンバブ円」は桁違いのハイパーインフレに見舞われ、通貨が紙屑となったアフリカのジンバブエ共和国と円を引っかけた言い回しだ。
こういう時に日本のメディアは極論をたしなめるどころか、円安を日本経済の構造的な弱さに結びつける構造論を展開する。今回の円安進行の原因は主として米国の高金利にあるのに、おかしいじゃないか。そうSNSで発信してきたものの、衆寡敵せず。「円安終末論」のレトリックが横行するなか、目を引いたのは高名な脳科学者のこんな発信である。
「円安を『通貨危機』と心配したり、『ジンバブ円』と笑いにするのはいいけど、すでに指摘されているように、今は国境を超えていろいろな工作ができる時代だから、あまりネットのトレンドで自分の認知や判断が左右されない方がいい」(4月27日午前9時32分のX投稿)
茂木健一郎氏といえば説明は不要だろう。円安の流れが円安を正当化する論理と心理を生み、その群集心理がさらに円安を加速させる。「人々の主観に基づく意思決定が、現実のマーケットを変化させ、その変化した現実が人々の主観を変えていく」。国際的な投資家のジョージ・ソロスはそんな投資の姿を「再帰性(reflexivity)」と名付けた。
批判的合理主義の哲学者、カール・ポパーに学んだソロス。彼の「再帰性」理論は、実際の金融市場は常に歪みを持ち、人々の主観と金融市場がその歪みを増幅し合うことを示している。カントが「物自体(Ding an sich)」など認識し得ないと喝破したように、人々の主観を離れた透明で客観的なマーケットなど存在しない。
市場に精通すると称する解説者たちは、円安のバンドワゴン(楽隊車)に乗り、それを加速させる言説を繰り返す。そのさなかにあって、エコノミストでもアナリストでもない脳科学者が冷静なひと言を発したのである。
「トリプル安」がゴールのファンド勢
「国境を超えていろいろな工作ができる時代」は、政治の世界の世論工作にとどまらない。経済や金融の世界、マーケットでこそ、「再帰性」を増幅させることによって、大きな利益を得ようとする取引が横行する時代でもある。米国の通貨先物市場での投機筋の円売りの建玉(未決済残高)をみれば、その規模はハッキリする。……
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