西銘順治:「イモハダシ論」での敗北から「県民党」での勝利へ

執筆者:野添文彬 2022年6月26日
タグ: 日本 アメリカ
那覇市長就任時の西銘順治(沖縄県公文書館所蔵)
保守陣営で頭角を現した西銘順治は初の行政主席公選に挑むも、「イモ・ハダシ論」が批判を受けて屋良朝苗に敗北する。その後、国政へ転身した西銘だったが、急転直下、沖縄知事選に挑戦することとなった。

 

分かれた協力路線と闘争路線

 1959年11月に琉球政府行政主席に就任した大田政作は、沖縄に対する日米協力方式を掲げ、米軍当局と協調するとともに、日本政府からの援助も取り付けていく。こうした方針は、沖縄住民の支持を得て、60年11月の第5回立法院選では、沖縄自民党が22議席を獲得して圧勝する(社大党5、人民党1、無所属1)。

 その背景にあったのは、沖縄をめぐる情勢の変化である。

 軍用地問題解決後、米国政府は沖縄統治政策を見直し、沖縄の経済成長を促進する。さらに62年3月にはジョン・F・ケネディ大統領が新たな沖縄政策を発表し、沖縄住民の福祉向上のための日米協力を打ち出した。

カテゴリ: 政治
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執筆者プロフィール
野添文彬(のぞえふみあき) 沖縄国際大学法学部 地域行政学科准教授。1984年生まれ。一橋大学経済学部卒業後、同大学大学院法学研究科博士課程修了。博士(法学)。専門は国際政治学、日本外交史、沖縄基地問題。主な著書に『沖縄返還後の日米安保: 米軍基地をめぐる相克』(吉川弘文館/2016年)、『沖縄米軍基地全史』(吉川弘文館/2020年)がある。
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