クオ・ヴァディス きみはどこへいくのか?
クオ・ヴァディス きみはどこへいくのか?

江戸の人よ、さらば 読者よ、さらば

徳岡孝夫
執筆者:徳岡孝夫 2010年4月号
カテゴリ: 文化・歴史

 歌舞伎座が、あと一カ月ほどで「楽」になる。去年ほぼ一年を病床で過した私には、入院前の玉三郎と菊之助の「二人道成寺」が別れの舞台だった。三年がかりで改築される新・歌舞伎座が再び幕を上げるとき、私はもう生きていないのではないか。 老優の中には私と似た思いを抱く人がいるらしい。ここ二年ほどの歌舞伎座の舞台には、常にはない気迫のこもった演技があった。その一つ、三津五郎の「将軍江戸を去る」(一昨年四月)に私は感動した。 十五代将軍徳川慶喜が上野寛永寺の一室で書見している。微風が来て明かりを吹き消すが、端座したまま動かない。ホトトギスの啼く音がする。それは内外から日本を襲う大動乱の中に浮かぶ静寂の一刻である。 黒船来航によって、日本は国際社会に引きずり出された。内には複雑な将軍継嗣問題があって、英明な慶喜は隠居から復帰して将軍の位に就いた。就いたのはいいが、大政奉還を受けた京都の朝廷は東征の軍を発し先鋒は江戸に迫っている。将軍の決断は恭順と江戸の無血開城だが、徹底抗戦を主張する彰義隊がいる。慶喜は水戸に退隠して事態を救おうと決心する。 場面は変わって舞台中央に千住の大橋があり、橋の先は舞台の奥へ延びている。暁天だが、将軍様が通られる、水戸へ落ちていかれると聞いた武士や町人が道端に平伏している。揚げ幕から慶喜が花道を出てくる。黒木綿の質素な着物に小倉の袴。土の上に正座した江戸市民が、口々に叫ぶ。「何某様に仕官しております何某でございます。上様、一日も早い江戸への御帰還を」「浅草の何某町で商いをさせていただいている何某でござります。どうか……」武家も町人も、ここを先途とおらび叫ぶ。血を吐くような誠心の声。無言で歩を進める慶喜の下駄が、大橋の端にかかる。山岡鉄舟(橋之助)が叫ぶ。

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執筆者プロフィール
徳岡孝夫
徳岡孝夫 1930年大阪府生れ。京都大学文学部卒。毎日新聞社に入り、大阪本社社会部、サンデー毎日、英文毎日記者を務める。ベトナム戦争中には東南アジア特派員。1985年、学芸部編集委員を最後に退社、フリーに。主著に『五衰の人―三島由紀夫私記―』(第10回新潮学芸賞受賞)、『妻の肖像』『「民主主義」を疑え!』。訳書に、A・トフラー『第三の波』、D・キーン『日本文学史』など。86年に菊池寛賞受賞。
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