取り残される飯舘村「長泥地区」(上)「同じ村」の中での格差

寺島英弥
執筆者:寺島英弥 2016年12月26日
長泥地区の入り口のバリケードを開ける鴫原区長(10月26日、筆者撮影)

 東京電力福島第1原発事故のため全住民の避難が続く福島県飯舘村で、政府が来年3月末、ほぼ除染が完了するとして避難指示を解除する。いまなお残る放射線への不安など難問山積の中、住民は「帰るか帰らぬか」の選択を迫られている。しかし、古里が村の中でただ1つの帰還困難区域とされ、将来が見えないまま新たな年を迎える人々がいる。浪江町と接する飯舘村長泥(ながどろ)行政区。いまだ除染の計画もなく取り残される山懐の地域を訪ねた。

バリケードが通行制限

「住民が集まっての草刈り作業は今年、4回やった。公民館の周りや、お盆前の墓地も。バリケードの中なのに、帰れる当てもないのになぜ? と言われるが、俺にあるのは先祖や親、長泥のために一生懸命に働いてきた人たちへの感謝、『ありがとう』の気持ちなんだ」
 10月下旬、山林の紅葉が進んだ福島県飯舘村南部、長泥地区。村の中心部から通じる国道399号を途切れさせるように、鉄製のバリケードが地区の入り口に現れた。行政区長の鴫原(しぎはら)良友さん(66)は車を降りて、いつものように鍵を開けながらそう語った。
 長泥地区は、飯舘村にある20行政区の1つ。2011年3月、約30キロ東南の東京電力福島第1原発事故で高濃度の放射性物質が降り、年間50ミリシーベルトを超える放射線量があるとして、翌12年7月、隣接する浪江町や第1原発のある双葉町、大熊町など7市町村にまたがる地域が帰還困難区域に指定された。バリケードは長泥の住民のみに立ち入りを制限しているが、この日は自宅に戻る用事がある鴫原さんに同行させてもらった。
 バリケードの内側は太平洋まで見渡せる峠で「あぶくまロマンチック街道」の石の標識があり、道は桜の並木とアジサイで飾られている。1956年、飯舘村が旧大舘村、旧飯曽村の合併で発足した時、長泥出身の初代村長が各行政区に桜の苗木を配り、長泥の住民はとりわけ大事に桜を育ててきたという。村の春の名所になったが、原発事故による全村民の避難後は花見に訪れる人もない。が、鴫原さんが話すように、桜並木の下はきれいに草刈りがされ、700本ほどあるアジサイとともに、植えた住民の地域への愛情を表している。
「長泥の『いろは坂』」と鴫原さんが呼ぶ絶景の峠は、しかし、いまも高い放射線量を示す。「俺の線量計では、道路上(の空間線量)が3マイクロシーベルト(毎時)くらい、草むらは4~5、斜面は7~8くらい。山林はもっとある」。帰還困難区域の長泥は、原発事故から5年9カ月を過ぎたいまなお、除染計画も解除の見通しもない。除染作業が進み、政府が来年3月末の避難指示解除を決めた村内の他地区から取り残されようとしている。

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執筆者プロフィール
寺島英弥 河北新報編集委員。1957年福島県生れ。早稲田大学法学部卒。東北の人と暮らし、文化、歴史などをテーマに連載や地域キャンペーン企画に長く携わる。「こころの伏流水 北の祈り」(新聞協会賞)、「オリザの環」(同)、「時よ語れ 東北の20世紀」など。フルブライト奨学生として2002-03年、米デューク大に留学。主著に『シビック・ジャーナリズムの挑戦 コミュニティとつながる米国の地方紙』(日本評論社)、『海よ里よ、いつの日に還る』(明石書店)『東日本大震災 何も終わらない福島の5年 飯舘・南相馬から』(同)。3.11以降、被災地における「人間」の記録を綴ったブログ「余震の中で新聞を作る」を更新中。
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