帰省したら親と考えたい「終活孝行」のススメ

執筆者:井出悦郎 2023年8月10日
カテゴリ: 社会
エリア: アジア
お寺の掲示板大賞2018でバズった標語「おまえも死ぬぞ」。普段忘れがちな「誰もが死ぬ」という真理を多くの人が再認識した(願蓮寺〔岐阜県〕 撮影者:中田絢子 @10com_nj 出所:仏教伝道協会)

 介護や相続、親の看取りといった問題に悩む人は少なくない。ただ、まずは「どのように生きて、死にたいか」という根幹を一緒に考えることこそが、親も子も不幸にならない「終活」の第一歩だと『これからの供養のかたち』著者の井出悦郎氏は提案する。

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 お盆の季節です。久しぶりに実家に帰ってみたら、親が急に老いた気がする。そんなことを感じた経験はありませんか?

 成人した親子が生活空間をともにしない現代において、親の老いに子どもがどのように向き合うかという課題は年々大きくなっています。

 介護、相続、供養(葬儀・お墓)、実家の片づけなど、子どもが対応しなければならないテーマは多岐にわたります。生前に生活空間をともにしていれば、親の意向を頻繁に確認しやすいですが、離れて暮らしていればそうもいきません。仮に確認したとしても、人の心は移ろいやすく、聞くたびに親の回答が違うということも珍しくはないでしょう。

 親が元気なうちに様々な意思確認を明確にできていないと、いざ親の介護やその死に直面した際、手がかりに欠けた子どもは戸惑い、多大なストレスにさいなまれます。満足のいく介護を受けさせられない後ろめたさが残ったり、時には悪質な葬儀社に引っかかって法外な料金を請求されたり、情報不足によって相続が難航して子どもが鬱状態に陥ったりすることはよくある話です。

 終活は親に閉じたテーマではなく、親と子をまたいだ世代を超えたテーマであることを、現代人は広く認識する必要があると言えます。

まだまだ「終活」には早い?

 2023年1月に日本総合研究所が、厚生労働省の補助を受け、東京都稲城市と神奈川県横須賀市の50歳以上85歳未満の7000人を対象に調査を行い、およそ2500人から回答を得たアンケートがあります。(出所:NHK「『もっと早く始めておけばよかった』80代 1人で始めた『終活』」)

 「自分の病気や要介護、死亡時に、周囲の人が手続きできるよう備えたいか」という質問では「そう思う」、「ややそう思う」という終活に対して前向きな回答が、9割以上になりました。しかし、その後の質問の「備える場合に難しい点はなにか?」という具体的な回答に移ると、44.1%という半数に近い人が「もう少し先でいいと思う」と答えています。つまり、「終活には前向き」だけれども、「もう少し先でいい」という人が大多数です。

 世の中の終活に関する様々なアンケート結果の傾向を見ても、「終活は大切だと思う人」が8割以上を占めるものの、「実際に終活している人」は2割程度という結果が出ています。

 終活は「もう少し先でいい」と多くの人が考えるのは、人間の本性に由来します。誰もが自分の命はずっと続くと思いこんで、日々生きています。高齢者であってもこの根拠不明な大前提を信じており、終活が進まないという根深い現実を生み出しています。

 しかし、死は突然やってきます。老いや死に向き合う知恵も心構えもできていない子どもは、突然やってくる近親者の「死」という現実を十分に受け止めることができず、低下した判断力もあいまって前述のような猛烈なストレスが襲ってきます。

 親も子も不幸にならないような終活をどのように進めればよいのでしょうか。

「終活孝行」をしてみよう

 ここで自己紹介をします。私は全国の寺院を経営支援する一般社団法人お寺の未来の代表を務めています。『まいてら』(mytera.jp)という寺院紹介のポータルサイトも運営しており、生活者と寺院のご縁つなぎを促進し、生活者における死生観と死後の安心の醸成を、寺院と協働してサポートしています。

 今までの活動を通じて、私は終活を進める時の重要なポイントは、「死を想起」することだと考えています。仏教ではお釈迦様が生老病死という四つの苦しみを説かれました。生きることそのものが苦しみであり、老いや病気も苦しみです。そして、一切皆苦(=思い通りにならない)の世の中を生きてきた最期には、死に臨む苦しみがあります。老いや病気は個人差があるため苦しみの程度もバラつきがあるでしょうが、誰もが免れることができない死に臨んでいく苦しみを推し量ることは想像するに余りあります。死んだ後に生き返った人は誰もいないので、死の苦しみを生きながらにして理解することは不可能ですが、人生で培ってきたありとあらゆるものを手放していかなければならない心の境地はいかばかりでしょうか。

 仏教だけでなく、西洋でも古代ローマ時代から「メメント・モリ(死を想え)」という金言が語り継がれています。一般的には「自分がいつか必ず死ぬことを忘れずに、今という瞬間を大切に生きる」という趣旨で解釈されます。2005年の米スタンフォード大学の卒業式におけるスティーブ・ジョブズのスピーチは、メメント・モリの解釈を代表するものと言えるでしょう。

 「自分はまもなく死ぬという認識が、重大な決断を下すときに一番役立つのです。なぜなら、永遠の希望やプライド、失敗する不安……これらはほとんどすべて、死の前には何の意味もなさなくなるからです。本当に大切なことしか残らない。自分は死ぬのだと思い出すことが、敗北する不安にとらわれない最良の方法です」(出所:日本経済新聞2011年10月9日)

 寿命が延び、死に場所が自宅から病院に移り、現代社会は日常生活において死に触れる機会が極端に減っています。それは死について考える機会を強制的にでも作り出さないと、死に臨む心構えや準備がまったく整わず、死にゆく本人や遺された近親者にとっても望ましくない最期を迎えることにつながります。

 だからこそ、望ましくない最期を避ける「終活」のために、親の行動を待つのではなく、親が死について考える機会を子どもから積極的に提供する「終活孝行」が大切です。あなたも、あなたの親もいつかは必ず死ぬという真理。この真理を親に理解してもらう積極的な行動こそ、現代における親孝行と言えます。近年は新型コロナウイルス感染症の大流行によって誰もが死を身近に感じたはずであり、その記憶が残っているうちに終活孝行を始めるのはとても良いタイミングだと思われます。

 「終活孝行」とは具体的に、介護、葬儀、お墓、財産のことなどを、一つひとつ親の考えを聞きながら一緒に考えてあげることです。書籍・雑誌・インターネット等の情報収集をしてあげたり、時にはセミナーに一緒に出て専門家の話を一緒に聞くのもよいでしょう。そして、エンディングノートを書き上げる人は極めて少数なので、一緒に考えた内容をエンディングノートとしてまとめることをサポートするのも素晴らしい終活孝行と言えるでしょう。

 とは言っても、アクティブシニアも多い親世代に対して、終活孝行をスムーズに始めるきっかけは難しいものです。全ての状況に万能な方法はありませんが、親とコミュニケーションする際に「死を想起」する話題を時々してみるライトな方法から始めるのが良いと思います。例えば、最近身近で亡くなった知人がいればその話題をしてみる、タイミングが合えば一緒にお墓参りに行ってみる、自分のルーツ(先祖)について親にたずねてみる、親戚の法事がいつあるか聞いてみる等、ご自身や家族の境遇において話題にできることを探してみることをお勧めします。

 そして、何より大切なのは親との関係性です。いくら親子と言えども他人ですから、日頃から会ったり、コミュニケーションをしていないのに、いきなり死に関する話題を持ち掛ければ、親の気持ちが硬化しかねません。心を開いてもらうには、関係性を高める日常の頻度高いコミュニケーションが大切です。終活孝行は、親子の信頼関係の上に成り立つと言えます。

「死」を想起するための「供養」という営み

 それでは「死を想起」する最適な方法はなんでしょうか。私は「供養」を提案します。なぜかと言うと、死についてストレートに頭の中だけで考えたとしてもリアリティと手がかりに欠け、答えの見えない悶々とした堂々巡りになりますが、「供養」は身体行為が伴う営みでリアリティがあるからです。

 例えばお寺での法事であれば、本堂という空間(視覚)、線香(嗅覚)、焼香(触覚)、木魚やお鈴の音(聴覚)等、五感が感応します。五感を開きながら、法事という場に身を置き、故人となった大切な家族に手を合わせることを通じて、死というものについて考えをめぐらす時間になるでしょう。法事というかしこまった形ではなくても、故人を大切に想う気持ちが根底にあることが何よりも重要であり、お墓参りに行くことや、故人の仏壇に手を合わせること、そして故人との思い出の場所を訪ねることも立派な供養です。

 死について学ぶ最良の教材は、他者(三人称)の死です。一人称(自分)の死を考えるには、三人称(身近な人)の死が最大の手がかりです。古来、私たち日本人は故人を忘れない供養という営みを通じて、自らの死、そして人生を見つめ直す機会としてきました。自分にとって大切な存在である先祖や家族を供養することで、「自分もいつか死ぬ」という真理を自らの死生観に強く植え付けてきたことが、日本の供養文化の果たした役割と言えます。

 しかし、現代社会では日常生活における供養という営みの存在感が希薄化しつつあります。家族形態の単身化が進み、生活空間からは仏壇がなくなり、葬儀も家族葬など小規模化することで、街の風景に葬儀会場への順路を知らせる立て看板を見ることも珍しくなりました。

 比較的身近だと思っていた知人の死も、既に葬儀が終わったことを事後に知らされたり、事前に知ったとしても厳に家族のみということで参列を断られたりするケースも増えてきました。簡素化が進む死の取り扱いを見ると、はたして人生をその人なりに生き切った尊厳に見合っているのか疑問に思わざるを得ない昨今です。

 他者の死に対する向き合い方は、自分の死への向き合い方の写し鏡です。三世代同居を通じて老いや死への向き合い方が家族の中で自然と引き継がれることが現代では難しい中、死の作法を能動的に学ぶ機会を作っていかない限り、死に臨む準備や心構えが醸成されることは困難です。

 一方、枝葉というべき終活に関する情報が過度に流布するのも現代の特徴です。枝葉末節の情報に翻弄されないためにも自らの死生観というどっしりとした幹を確立していくことが重要であり、その幹を養う最良の方法こそ、私たち日本人が長年培ってきた供養という営みであると考えます。

 また、供養と聞くと、生きている自分たちにどんな意義・効用があるのか分からないと思う方も多くいらっしゃるでしょう。供養は決して死者のためだけではなく、むしろ生きている人たちの幸せにつながるものです。本来の供養とは、死者とのつながりを縁として、自らの生き方を振り返って見つめ直し、自らを超えた命への感謝が育まれ、結果として幸せを感じやすい心に成長していく営みです。

 供養を大切にする終活孝行は、親にルーツ(先祖)や自身の死後について自然と思いを馳せさせるとともに、自身の歩み・生き方の振り返りを促し、老い・病気とも向き合いながら、残された人生の日々をどのように有意義に過ごしていくかを見つめなおす好機となります。

これからの供養のかたちを考える

 筆者は本年6月に『これからの供養のかたち』(祥伝社新書)を上梓しました。

 

 加速度的な現代社会の変化とともに、供養の形は変わっていったとしても、大切な人を供養したいという気持ちは残り続けます。伝統的な供養の形が大きく変容し、供養の自由化が進む中、私たち生活者が迷うことなく「しっかり供養できた」という安心感を得るために大切な要諦を本書ではまとめました。特に、これからの時代はそれぞれのライフスタイルに合った形で供養をデザインしていく必要があるため、その際の大切なポイントを、供養の専門家である超宗派の僧侶の知恵を借り、エッセンスを凝縮しました。

●あなたにとってご先祖はどのような存在で、今後もどのようにつながっていきたいですか?

●あなたは家族など親しい人をどう送り、供養したいですか?

●あなたは死後にどう送られ、供養されたいですか? そして、どのような先祖として記憶されていきたいですか?

 こういった問いに対して、ご自身の考え方を浮き彫りにし、ご自身に合ったこれからの供養のかたちをデザインしていくことが重要です。

 そろそろお盆です。先祖や亡くなった人とのつながりを縁として、供養について考えることで、その先にある「どのような死を迎えたいか」というテーマを、家族間・親子間で話す絶好の時期です。親子の信頼関係を大切にしながら、まずは小さな一歩から終活孝行をぜひ始めてみてください。

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執筆者プロフィール
井出悦郎(いでえつろう) 一般社団法人 お寺の未来 代表理事。1979年生まれ。東京大学文学部卒業。東京三菱銀行(現・三菱UFJ銀行)、グリー、ICMGを経て、2012年に一般社団法人 お寺の未来を設立。寺院や宗派を対象とした豊富なコンサルティング実績を持ち、寺院紹介ポータルサイト「まいてら」(https://mytera.jp/)を運営。複数の企業で経営顧問も務め、経営論理と現場の人間心理に基づく俯瞰的かつ長期的な視座からの助言に定評がある。著書に『これからの供養のかたち』(祥伝社新書)。
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