行き先のない旅
行き先のない旅(28)

「魔の酒」アブサンの復活

大野ゆり子
執筆者:大野ゆり子 2005年9月号
カテゴリ: 国際
エリア: ヨーロッパ

「アブサン」という幻の酒を入手した。ベル・エポックにあまたの芸術家がパリのカフェで愛飲したリキュールは、中毒症状が社会問題になり、九十年前に製造が禁止された。ラテン名をArtemisia absinthiumというニガヨモギなど十数種類の香草をベースにする、澄んだエメラルドグリーンのこのリキュールの色を、詩人は憂いを湛えた女性の瞳になぞらえ、画家は好んで美女とともに描いた。それゆえ「アブサン」は芸術家に霊感を与える「緑の妖精」とも呼ばれる。 ドガ、ロートレック、マネ、ピカソなどがパリのカフェを描いた絵をご覧になったら、是非、絵の中で男女が何を飲んでいるかに注目していただきたい。グラスがエメラルド色に光っていても、乳白色に濁っていても、どちらもアブサンである。口の広いグラスに、角砂糖が載る特別のスプーンを置き、その上から水を注ぐのが正しいアブサンの飲み方で、水を入れたとたんに、澄んでいたはずの緑色は乳白色に濁る。アルコールの濃度が水を入れることで低下し、不安定になった精油部分が膜を作って光を乱反射するためだ。 芸術家とアブサンの出会いを考えると、最も不幸な例がゴッホであろう。ゴッホはゴーギャンとロートレックの手ほどきで、この「緑の妖精」の味を覚えてしまったと言われる。南仏アルルに芸術家の理想郷づくりを目指したゴッホは、方針の違いから激しい口論になって、ゴーギャンにアブサンの瓶を投げつけた。狂気や自殺の原因は他にあるとしても、アブサン中毒がこの天才を苦しめたことは確かであろう。ゴッホの墓があるオーヴェール・シュル・オワーズというパリの北三十五キロの田舎町に、十一年前に「アブサン博物館」ができた。アブサンに関する資料が豊富な場所だが、安らかな眠りにつきたいであろうゴッホを思えば、何とも気の毒な話だ。それほどまでに、「緑の妖精」の魔力は、取り付いた人を放さないのであろうか。

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執筆者プロフィール
大野ゆり子
大野ゆり子 エッセイスト。上智大学卒業。独カールスルーエ大学で修士号取得(美術史、ドイツ現代史)。読売新聞記者、新潮社編集者として「フォーサイト」創刊に立ち会ったのち、指揮者大野和士氏と結婚。クロアチア、イタリア、ドイツ、ベルギー、フランスの各国で生活し、現在、ブリュッセルとバルセロナに拠点を置く。
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