医療崩壊 (83)

「超高齢社会の被災者支援」という能登半島地震が突き付けた難題

執筆者:上昌広 2024年2月2日
タグ: 災害
エリア: アジア
能登半島の被災地では高齢化率が50%を超える地区も多い[避難所で要介護者(中央手前)を介助する医療関係者=1月31日午後、石川県輪島市](C)時事
阪神・淡路大震災や東日本大震災の当時と比べ、日本の高齢化率は著しく上昇した。高齢被災者に対する支援は、いわばこの社会が新たに抱えた難題だ。在宅医療、訪問看護、訪問介護といった自宅がベースの高齢者向けサービスは災害時には停止する。そして緊急避難が終わり長い復興期が始まれば、こうした民間頼みのサービスに公的支援は存在しない。医師・看護師の有志が支援のために年休を取るような医療界の硬直した制度運用も被災地の人手不足を深刻にしている。

 能登半島地震が発生してから、1カ月が経過した。240人が亡くなり(2月1日現在)、大勢が避難生活を送っている。

「避難先の高齢者をどう支える」(1月29日読売新聞社説)のように、マスコミは連日、被災者支援のあり方を論じている。このような議論の前提にあるのは、「被災者支援は国の仕事」という考え方だ。

 災害対応で国の果たす役割が大きいことは議論の余地がない。国民の命を守ることは、国の責務だ。ただ、だからと言って、国に依存し、思考停止することは危険だ。それは、我が国が、人類史上初の超高齢社会に突入しているからだ。

 能登半島は、特に高齢化が進んだ地域だ。このような状況での被災者支援の方法は確立していない。そうなれば、試行錯誤を繰り返すしかないが、これこそ国が不得意とする領域だ。本稿では超高齢社会における被災者支援のあり方について論じたい。

阪神・淡路大震災の頃、日本は若い国だった

 被災者の救助・支援を国が中心になって行うようになったのは、そう古い話ではない。戦前まで、災害支援に関する法律は、1899年(明治32年)に制定された罹災救助基金法しか存在せず、国の責務は被災者の経済的支援だけだった。

 この時期、被災者の救助はもっぱら日本赤十字社の仕事だった。現在でも、被災者救助から義援金分配まで日赤が大きな役割を果たすのは、このような歴史的な経緯があるからだ。

 状況が変わったのは、1946年(昭和21年)の南海地震だ。戦後の国民主権意識の高揚もあり、この災害を契機に災害救助法が制定され、被災者の救助・支援が国の責務となった。

 その後、1959年(昭和34年)の伊勢湾台風、1978年(昭和53年)の宮城県沖地震などが起こったものの、昭和の間は、自然災害については比較的落ち着いた状況が続いた。

 平成に入り、状況は変わった。1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災以降、我が国は多くの災害に見舞われた。このような経験を経て、我が国の災害対応は進歩した。被災地では、自衛隊、ボランティア、災害派遣医療チーム(DMAT)が活動し、被災市町村には、平素より交流がある市町村から職員が短期および長期出向するようになっている。

 厚生労働省管轄の国立病院機構が運営するDMATおよび自衛隊の派遣は国が支援主体であり、地方公務員の派遣は地方行政、個人およびNPOは民間レベルでの支援活動だ。被災地支援は官が主導し、足りない部分を民が補完するようになった。

 私が医師になったのは1993年(平成5年)だ。それ以降、3回の震災と関わることになった。最初は阪神・淡路大震災で、実家が被災した。次は東日本大震災。ご縁があって、福島県浜通りの医療支援に関わっている。そして今回だ。医療ガバナンス研究所の医師、看護師たちが能登半島に入り、診療や支援を継続している。

 阪神・淡路大震災の頃、日本は若い国だった。日本全体の高齢化率 は14.6%、神戸市は13.5%だった。日本社会の中核とも言える団塊世代は40代だった。

 当時、私の母は阪神間で、実の母(私にとっては祖母)と暮らしていた。母は50代半ば、「寝ていたら、地面が真下に落ちた。この世の終わりと思った」という。震災当日、母と祖母は地元の避難所で過ごし、祖母は被害が軽微だった末娘(母の妹)が引き取った。母は、京都で大学生活を送っていた弟の所に身を寄せた。

 余談だが、この時、母を支えてくれたのが、旧知の松川るい参議院議員のご両親だった。奈良県在住で、震災の影響は軽微だった。「荷物の保管から、身の回りの世話まで、色々とお世話になった」という。困った時はお互い様というが、実際に救いの手を差し伸べてくれる人は少ない。松川夫妻には、いくら感謝してもしたりない。

 母も松川夫妻も戦前世代だ。戦前、戦後をお互いに助け合いながら生き延びてきたのだろう。震災時の行動は戦前世代の思考法を反映している。母は、松川議員の支援者だ。彼女の選挙区は大阪府で、母には選挙権がないのに、「枯れ木も山の賑わい」と集会に足繁く出かけていく。

 話を戻そう。私が母の行動で興味深く感じているのが、被災した自宅を自分で建て直したことだ。小さな家なのに、「余震が怖い」と鉄筋鉄骨の三階建てとした。費用は数千万円かかったはずだが、銀行から借りて自力で返済した。母は長らく専業主婦だった。1985年(昭和60年)に夫を病気で亡くして以降、働きに出ていた。彼女の収入から考えれば、大きな負担だった。現在、80代の母は、「若かったからなんとかなった」という。

 当時、日本は若かった。若ければ、被災してもなんとかなる。自力で復興するのだ。

被災地高齢者の命を奪う「誤嚥性肺炎」

 では、東日本大震災当時はどうだったろう。阪神・淡路大震災から16年が経っている。この年の日本の高齢化率は23.3%だ。現在のイタリア(24.1%)より若く、独(22.4%)、仏(21.7%)よりやや高いくらいだ。

 実は、当時の被災地の多くも、そんなに高齢化は進んでいなかった。医療ガバナンス研究所が活動の拠点を置いている福島県相馬市の2010年の高齢化率は25.3%だった。福島第一原発が位置した大熊町も21.0%だ。現在の日本の高齢化率(29.1%)よりもはるかに低い。

 福島県浜通りで何が起こったのか。医療ガバナンス研究所は、東日本大震災から13年間、相馬市など福島県浜通りでの活動を継続している。被災地で起こったことのおおよそを理解している。

 東日本大震災直後、相馬市では死亡者数が急増した。2017年10月、相馬中央病院の森田知宏医師を中心とした研究チームは、厚労省が管理する人口動態調査を使って2006年から15年までの相馬市と南相馬市で死亡した住民の死亡原因を調べ、その結果を英国の『疫学・コミュニティヘルス』誌に発表した。

 この研究によれば、2011年3月の死亡率は、震災前の4年間の同月と比較して、男性で2.64倍、女性で2.46倍も上昇していた。この研究では、津波による溺死や地震による圧死など災害による直接死を除外している。東日本大震災直後の1カ月間で、間接的な理由による災害死が激増していたことになる。

 では、どんな理由で亡くなっていたのだろう。それは肺炎だ。震災後1カ月間に相馬市、南相馬市では津波以外の理由で165人が亡くなっていたが、このうち47人は肺炎だった。全体の28%を占め、震災前の16%より高い。

 肺炎で亡くなった47人のうち、19人の詳細な病歴が入手できた。そのうち17人(89%)で誤嚥が関与していると考えられた。森田医師は「東日本大震災で病院のスタッフが不足し、十分なケアが出来なかった可能性があります。口腔ケアを励行し、誤嚥を予防することが重要です」という。

 その後、熊本地震、能登半島地震でも誤嚥性肺炎の増加は確認されている。被災地支援にあたる医師や看護師にとって、誤嚥性肺炎の予防は最も重要なポイントだ。誤嚥性肺炎以外にも、浜通りでは、高血圧・糖尿病の悪化や心筋梗塞・脳卒中の悪化が確認された。

中長期の「復興」に取り組む医師が足りない

 被災地の復興の重要課題の一つに、健康問題と中長期的に向き合うことが挙げられる。このためには、医師を確保しなければならない。浜通りの問題は、医師が不足していることだった。2020年末時点で、相双地区の人口10万人あたりの医師数は143人だ。全国平均(257人)の56%で、発展途上国並みだ。

 この問題を解決するには、現地の医療機関で中長期的に勤務する医師が必要だ。DMATや日赤からの短期派遣では対応できない。医師を集める際に重要なことは、被災地で勤務する「成功モデル」を作ることだ。

 東日本大震災発生当時、私は東京大学医科学研究所で特任教授として、研究室を運営していた。この研究室で学んだ東京大学医学部、医学系大学院の卒業生からは、前出の森田知宏医師以外に、坪倉正治、尾崎章彦、西川佳孝、藤岡将、齋藤宏章、山本佳奈医師らが常勤医として被災地で診療した。坪倉、尾崎、齋藤医師は、現在も浜通りで診療を継続している。

 彼らの経験は学術的にも貴重だ。200報以上の論文を英語で発表し、坪倉、尾崎、西川、森田、齋藤、山本医師は、このような論文により東京大学などから博士号を取得した。

 彼らの活動は世界から注目を集めているようで、2021年3月に米『サイエンス』誌が5ページに亘って特集し、編集部から私に「新たな公衆衛生のあり方で世界中が注目している」と連絡があった。昨年、坪倉医師は北大西洋条約機構(NATO)から招聘され、ルーマニアで講演しているし、坪倉・尾崎医師には米軍からも「定期的に情報交換したい」と連絡があった。

 先輩の活躍は後進にとって刺激となる。東京大学医学部を卒業し、現在、鹿児島県で初期研修中の小坂真琴医師が、今春、福島での勤務を開始する。

 浜通りが抱えたもう一つの問題が要介護者の増加だった。相馬市の場合、2011年に186人だった要介護者(要介護1)は、2014年には242人と1.3倍に増加している。ただ、増加の大部分は軽度の要介護者だった。子どもたちと同居していた高齢者が、子どもたちが避難あるいは移住したため、介護が必要となった。

 相馬市では、このような高齢者を対象に、彼らが集団で生活する「相馬井戸端長屋」という復興住宅を提供した。長屋入居者の健康管理に関わっている前出の齋藤宏章医師(相馬中央病院)によると、長屋では個室に加え、共同風呂、共用の洗濯機が用意され、昼食宅配、保健所の看護師や齋藤医師による定期訪問、近隣の商業施設までバスでの定期的な送迎などの取り組みが行われているという。

 設立から10年が経過し、昨年11月、齋藤医師も加わる研究チームは、その経過をスイスの『公衆衛生フロンティア(Frontiers in Public Health)』誌に発表した。この研究によると、「相馬井戸端長屋」入居者の入居時の平均年齢は76.2歳で、10名が要支援、12名が要介護認定を受けていた。65名のうちの30人が入居を継続し、21人が入居中に亡くなり、14人が長屋から退去していた。平均入居期間は約6年半で、6割に当たる39人が5年以上の入居を継続できていた。

 相馬市では行政が中心となって、独居高齢者や高齢世帯の生活環境を整備し、それが一定の成功を収めた。スイスの学術誌が、この研究を掲載したのは、高齢化が進む欧州の専門家たちが日本での試行錯誤に関心があるからだ。日本の高齢者対策が世界の注目を集めているのが分かる。

民間頼みの医療・看護・介護サービス

 以上、東日本大震災の経験だ。ただ、能登半島では、この方法がどの程度機能するかわからない。それは高齢化の度合いが違うからだ。能登半島の被災地では高齢化率が50%を超える地区も多く、多くの住民が病を抱えると同時に、要介護の状態にある。一部の住民の医療、介護問題を解決すればよかった浜通りとは、状況が異なる。

 震災前、このような地域で重要な役割を果たしてきたのは、在宅医療、訪問看護、訪問介護だ。厚労省は、高齢化に対応すべく、このようなサービスの体制整備を進めてきた。ところが、このような自宅をベースとしたサービスは、災害時には機能しなくなる。家が破壊されれば、避難せざるを得ないし、交通機関が麻痺すればサービスは提供できないからだ。災害時には、彼らをどこかに収容して集中的にケアしなければならない。もちろん、阪神・淡路大震災や東日本大震災でも、このような高齢者はいたが、その数が違う。

 国も、このことは認識していた。2016年4月、「福祉避難所の確保・運営ガイドライン」を発表している。そして、その中には「福祉避難所の指定」という項があり、「市町村は(中略)指定福祉避難所として指定する施設を選定し指定する」(引用は21年5月改訂版より)とある。つまり、認識はしていたものの、実態は民間の事業者への業務委託、要するに丸投げをした。

 行政は要介護者の存在や家族構成を把握し、災害時の対応を準備していただろうか。おそらく、そのような自治体は少数のはずだ。災害が起こり、どこに誰がいるかわからず狼狽えたのではなかろうか。

 一方、介護・福祉施設は慢性的な人手不足だ。災害が起こり、一気に医療や介護が必要な住民が押し寄せても対応できない。また、災害で通常業務ができなくなれば、収入が激減する。国公立組織と違い、倒産する可能性もある。ところが、このような組織に政府が運転資金を提供したという話は聞かない。

 被災地を復興させるためには、多くは民間の組織が提供している医療・看護・介護サービスを、震災前同様に復活させなければならない。

 だが、どうすればいいのか、誰にもわからない。能登半島地震で求められる災害対応は、従来のやり方とは違うからだ。従来の災害支援は、国・都道府県・市町村が連携してやってきた。医師や看護師派遣を担当したのは、日本赤十字社などの認可法人、国立病院機構などの独立行政法人だ。このような組織は、公平性の観点から、特定の民間組織を重点的に支援できない。

若手医師・看護師が復興支援に動けない理由

 この問題を解決するには、現場で試行錯誤を繰り返すしかない。これは若手にとって魅力的な仕事だ。東日本大震災では、東京大学の若手医師たちが、長期間にわたり、被災地の病院で診療し、その結果をまとめて、実績を挙げていった。彼らが浜通りに惹かれたのは、被災地の役に立ちたいという気持ちと、そこで力をつけたいと願ったからだ。

 能登半島でも、同じような活動をしたいと考えている若手医師や看護師はいる。ところが体制整備が追いついていない。福島県立医科大学の山本知佳看護師は、能登半島の福祉避難所で看護業務を担当したが、「年休をとって出向いた」という。「能登半島で働きたい気持ちはあるが、現状では難しい」そうだ。それは、業務の一環として能登半島で活動することが学内のコンセンサスとなっていないからだ。東日本大震災で、全国から支援を受けた福島県立医科大学でも、この有様だ。国の災害対策であるDMATには積極的に協力するが、自分の頭で考えて動くことができない。

 山本さんは、神戸大学を卒業後、神戸市立医療センター中央市民病院に勤務。「被災地を支援したい」と、2017年に南相馬市立総合病院に移った。福島赤十字病院を経て、現在は福島県立医科大学の坪倉研究室で勤務している。災害看護の専門家だ。

 山本さんは研究職だ。病院看護師と異なり融通が効く。実地調査を含めて、能登で働けば、被災地の住民の役に立つはずだ。なぜ、彼女のような人材が活用できないのだろうか。

 医療界には、この手の話が山ほどある。前出の小坂医師も能登での長期間にわたる診療を希望している。その際の問題は、「内科専門医の資格取得が遅れること」(小坂医師)らしい。内科専門医の資格認定は、一般社団法人日本専門医機構が定めている。彼らが能登半島での勤務を「地域医療研修」に認定すればいいだけだ。

 大学病院の若手医師の多くは任期付き雇用だ。福島県立医大の場合、厚労省、復興庁、環境省、日本医療研究開発機構(AMED)などの研究費から給与が支払われていることが多い。能登半島での勤務・研究を希望しても、「研究のミッションと違うので、後日、問題となるのが面倒」と尻込みすることが多い。大学や役所から目をつけられ、契約が更新されないことを恐れるのだろう。これは研究費の運用の問題だ。研究費を管理している役所の大臣が方針を明示すればいい。このあたり、大臣がやる気になればすぐにでもできる。研究費の目的外使用と怒る国民などいないはずだ。

 以上が、私が考える能登半島復興の問題点だ。復興には中長期的に現地で働く人材が必要だ。どうやって、体制を整備するか、当事者目線での議論を進め、試行錯誤を繰り返す必要がある。

カテゴリ: 医療・サイエンス
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執筆者プロフィール
上昌広(かみまさひろ) 特定非営利活動法人「医療ガバナンス研究所」理事長。 1968年生まれ、兵庫県出身。東京大学医学部医学科を卒業し、同大学大学院医学系研究科修了。東京都立駒込病院血液内科医員、虎の門病院血液科医員、国立がんセンター中央病院薬物療法部医員として造血器悪性腫瘍の臨床研究に従事し、2016年3月まで東京大学医科学研究所特任教授を務める。内科医(専門は血液・腫瘍内科学)。2005年10月より東京大学医科学研究所先端医療社会コミュニケーションシステムを主宰し、医療ガバナンスを研究している。医療関係者など約5万人が購読するメールマガジン「MRIC(医療ガバナンス学会)」の編集長も務め、積極的な情報発信を行っている。『復興は現場から動き出す 』(東洋経済新報社)、『日本の医療 崩壊を招いた構造と再生への提言 』(蕗書房 )、『日本の医療格差は9倍 医師不足の真実』(光文社新書)、『医療詐欺 「先端医療」と「新薬」は、まず疑うのが正しい』(講談社+α新書)、『病院は東京から破綻する 医師が「ゼロ」になる日 』(朝日新聞出版)など著書多数。
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