「認知戦不発」の台湾総統選挙から汲むべき逆説的教訓

執筆者:土屋大洋 2024年3月18日
エリア: アジア
投票前夜の民進党集会で頼清徳候補の演説に歓呼する支持者 写真:筆者提供
中国が1月の台湾総統選挙で仕掛けたと見られる認知戦は不発だったと言えそうだ。AI生成の動画などによる工作は認められたが、多くはフェイク性を台湾市民に見抜かれた。ただし、これは脅威が軽微であることを意味しない。洗練された新手法が常に生み出される認知領域での情報戦は、「介入があるということを多くの人が理解している」状況を常に維持し、攻撃を相対化できる「備え」が大きな有効性を持っている。

 台湾社会の分断を深くするための楔(くさび)を打ち込めなかった、これが2024年の台湾総統選挙における認知戦のひとまずの結論ではないだろうか。

 総統選挙を翌日に控えた台北の街を歩いていた時、調査チームのひとりが、道路に面したマンションの高層階を指差した。そこには「票投國衆黨引進習近平」と書かれた横断幕が掲げられていた。それを写真に撮り、地元の人たちに見せても、首を傾げる人が多かった。まず、「國衆黨(国衆党)」という政党は台湾に存在しない。おそらくこれは、選挙が行われる前まで野党第一党だった「国民党」と野党第二党の「民衆党」を合わせた造語なのだろう。そうすると、この横断幕が意味するのは、「国民党と民衆党に票を投じれば、習近平を引き寄せることになる」という意味なのかもしれない。複数の台湾の人に聞くと、「まあ、そう読むことはできなくはない」という反応だった。

「票投國衆黨引進習近平」と書かれた横断幕[台北市内] 写真:筆者提供

 しかし、反中姿勢を鮮明にする与党の民進党が敗北し、親中と言われることの多い国民党が勝利したとして、果たして習近平国家主席が率いる中国共産党が台湾に無血侵攻することはできるだろうか。第二次世界大戦後の日本国民が、連合国総司令部(GHQ)のダグラス・マッカーサー司令官を迎えたように、台湾の人々が中国人民解放軍を迎え入れるとは考えにくい。

 そもそも、民進党が勝利したら即、戦争が始まると考えている台湾の人はほとんどいない。逆に、親中と言われる国民党が勝利しても、台湾が中国に併合されると考えている人もほとんどいない。台湾の大半の人が望んでいるのは現状維持だ。

 その現状を中国は切り崩そうとしている。選挙結果が判明した直後、太平洋島嶼国の一つ、ナウルが台湾と国交を断絶し、中国と国交を結んだことも一例だ。国際社会における台湾の孤独感を深めようとしているのだろう。しかし、実態としては、台湾の人々は世界の多くの国を観光で訪問できるし、留学もできる。

相対化される影響力工作

 2016年の米国大統領選挙におけるロシアの介入は、米国民だけでなく、世界中の政治家や研究者の注目を集めた。ロシアによるウクライナ侵攻の初期に存在感を示した民間軍事会社ワグネルのエフゲニー・プリゴジンは、2016年米国大統領選挙では、インターネット・リサーチ・エージェンシー(IRA)を使って影響力工作を繰り広げた。プリゴジンはウクライナとの戦いにおいてウラジーミル・プーチンと仲違いをしたようだが、2016年の時点では、プーチンの意を汲んでフェイスブックやツイッター(当時)を使って米国政治に介入したのだ。

 2016年大統領選挙は、今から考えれば、無防備だった。ツイッターが米国でサービスを開始したのが2006年7月、同じくフェイスブックの一般開放が2006年9月。2007年にはスマートフォン(スマホ)が登場し、4Gの携帯電話サービスが米国で始まったのが2008年後半である。3Gの携帯電話サービスでは十分に画像や動画を共有することが難しかったが、4Gが出て来たことによって一気にソーシャルメディアが普及していき、2016年には十分に体制が整っていたといえるだろう。人々はスマホを肌身離さず、ベッドの中やトイレの中まで持ち込み、流れてくるメッセージを読み込み、自らも書き込んだ。

 誰もが、おそらくドナルド・トランプ候補でさえも、ヒラリー・クリントン候補が勝利すると考えていた中、番狂わせでトランプ大統領が誕生した。

 その際、最も重要だった点は、第一に、多くの人がインターネットを介した選挙介入に準備ができていなかったこと、そして第二に、選挙介入につけ込まれる社会的・政治的な分断が存在していたことである。

 2018年の米国の中間選挙においてもロシアは介入を試みた。しかし、米国の国家安全保障局(NSA)やサイバー軍(CYBERCOM)が中心となって徹底的な対抗措置が採られた。NSA長官とCYBERCOM司令官を兼任するポール・ナカソネ陸軍大将(当時)は、2020年の大統領選挙防衛が最優先課題だと公言した。

 その2020年大統領選挙においては大きな混乱は生じなかった。一部、イランによると見られる介入が確認されたが、サイバー軍らは効果的に阻止することができた。ところが、再選を果たせなかったトランプ大統領は、2021年1月に支持者をけしかけ、支持者たちは米国議会に乱入し、死者が出る騒乱になってしまった。

 MAGA(Make America Great Again)反乱とも呼ばれた事件の余波はいまだに続いている。そして、今年2024年の大統領選挙はジョー・バイデン大統領とトランプ前大統領によるリマッチ(再戦)の見込みである。

 ここでまたロシアやイラン、あるいはその他の国々は選挙に介入するだろうか。全く何もないということはないだろう。人工知能(AI)を使った動画は数多く出回るだろう。米国では中国発のソーシャルメディアのTikTokを規制する動きがあるが、それでも多くの若者が楽しんでいる。

 しかし、ロシアは2016年と違って余裕がない。ウクライナ侵攻は容易に決着しそうにないが、国のリソースを大胆に導入することはできないだろう。そして、ロシアが介入せずとも、米国政治の分断は明白だ。もはや2016年の選挙の時に言われた「隠れトランプ」はいない。彼らはトランプ支持であることを公言している。それは2020年の選挙の時に多くの人が信じ込んだQアノンの神話が弱まっており、選挙戦を優位に進めるトランプの救世主が米国政府から出てくる必要もないことを意味している。……

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カテゴリ: 政治 軍事・防衛
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執筆者プロフィール
土屋大洋(つちやもとひろ) 慶應義塾常任理事、慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科教授(兼総合政策学部教授) 1970年生まれ。慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科後期博士課程修了。博士(政策・メディア)。第15回中曽根康弘賞優秀賞、第17回情報セキュリティ文化賞を受賞。主な著書に『ハックされる民主主義:デジタル社会の選挙干渉リスク』(共編著:千倉書房)、『サイバーグレートゲーム:政治・経済・技術とデータをめぐる地政学』(千倉書房)、『アメリカ太平洋軍の研究 ― インド・太平洋の安全保障』(編著:千倉書房)、『暴露の世紀 国家を揺るがすサイバーテロリズム』(角川新書)、『サイバーセキュリティと国際政治』(千倉書房)など。2019年4月から日本経済新聞客員論説委員。
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