“熱帯への進軍”最前線を歩く(8) 碑文から読み解く中国「西南開発」の歴史と狙い

樋泉克夫
 前方の雲の遥か下を怒江が左から右に流れる(2012年5月、筆者撮影。以下同)
前方の雲の遥か下を怒江が左から右に流れる(2012年5月、筆者撮影。以下同)

 ふたたび現地に話を戻すことにする。

 拉孟を東に向かって坂道を下ると、正面に怒江の赤茶けた濁流がみえる。2本の鉄橋が架かっているが、当時の恵通橋は鋼鉄の橋桁を残すのみ。橋の袂に、ここで激戦があったことを物語るかのようにトーチカが残っていた。

 ここでUターンし、拉孟の激戦跡を巡って龍陵に引き返す。

 龍陵の街の中心部、拉孟に向かって延びるメインストリートに面して『龍陵抗戦記念広場』があり、その一角に『龍陵抗戦記念広場修建碑記』が立っている。

 チッポケな公園にしてはリッパ過ぎるほどの記念碑だが、それを読み進んでいると、共産党政権の龍陵に対する地政学的評価が浮かび上がってきた。

 その『龍陵抗戦記念広場修建碑記』は、

〈龍陵は祖国西南の辺境、怒江と龍川の間に位置し、隣国ミャンマーの果敢県とは川を挟んで互いに望める。歴史古く麗しい辺境の地には漢族、イ族、リス族、タイ族、アチャン族など27万の各民族同胞が暮らす。龍陵は古くから「西南シルクロード」の重要な要衝であり、抗戦時に建設され、県境を貫く滇緬公路(現在の320国道)はミャンマー、タイ、南洋に結ばれる国際通路の要道であり、西南の国防上の要だ〉

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執筆者プロフィール
樋泉克夫
樋泉克夫 愛知大学教授。1947年生れ。香港中文大学新亜研究所、中央大学大学院博士課程を経て、外務省専門調査員として在タイ日本大使館勤務(83―85年、88―92年)。98年から愛知県立大学教授を務め、2011年より現職。『「死体」が語る中国文化』(新潮選書)のほか、華僑・華人論、京劇史に関する著書・論文多数。
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