小説・めぐみ園の夏

小説・めぐみ園の夏(1)

高杉良
執筆者:高杉良 2016年2月27日
エリア: 日本
GHQ占領下の当時、世の中は騒然としていたが……(C)時事

 

第1章 サレジオ学園で


   1


「天国のような所ですよぅ。サレジオ学園に入れてもらえると亮ちゃんは幸せになれますからねぇ。伯母ちゃんも園長先生に一所懸命お願いしますからねぇ」
「………」
「お返事は?」
「うん」
「はい、でしょう」
 亮平(りょうへい)は訝しげな眼を伯母に注いだ。幸せになれる筈など無いと思ったからだ。家族がばらばらになってしまう。
 杉田亮平は幼少期からずっとこの伯母が好きになれなかった。敬虔なカトリック教徒と聞いていたが、反感、不信感さえ覚えていた。
 この日、昭和25年5月中旬の、日曜日の昼下がり。国鉄中央線武蔵小金井駅付近のバス停の前だ。五月晴で、抜けるような澄み切った青空とは逆に、亮平の気持は重く沈んでいた。
 伯母は手下げカバンと日傘を持っていた。グレーのスーツにハイヒール。黄色い花柄のネッカチーフも粋な感じだ。おしゃれだった。
 杉田亮平は昭和14年1月25日生れで11歳。小学校6年生になって間もなかった。身長は157センチだから背は高いほうだ。童顔に似合わず、好奇心が強く悪ガキだが、野球少年なので友達は多かった。
 亮平の母方の伯母、横内早苗(よこうちさなえ)は母の百子(ももこ)より一回り年長で51歳だ。柔和な面立ちで得している。未亡人で母との年齢差故か、千葉県市川の杉田家に泊りがけでしばしば現れる。
 言葉遣いは丁寧だが、百子にはいつも命令口調だった。
「こうなさい」「ああしなさい」「いけません」
 亮平は2歳上の姉、弘子(ひろこ)と4歳下の弟、修二(しゅうじ)、9歳下の妹、百枝(ももえ)の4人兄弟だ。
 早苗は亮平たちには百子を通して間接話法で叱ったり注意する。
 やっと折り返しの木炭バスが停車場に着いた。日曜日にしては乗客が多かったが、座れた。周辺は野原や田畑が広がっていた。
 サレジオ学園ではグランドで野球に興じる子供たちの姿に亮平は心を奪われた。
 市川でも野球以外に楽しみがなかったせいだろう。しかも手狭まなグランドしか確保できず三角ベースのことが多かった。
 亮平がここで生活するのも悪くないと思わぬでもなかったのはグランドが広々としていたからだ。
 女子生徒の姿が無かった。サレジオ学園は孤児院だが、収容の対象は男子に限られているのだろうか。だとすれば、姉と妹とは離れ離れになってしまう。
 市川の杉田家は崩壊していた。父の三郎が自宅と愛人宅を行ったり来たりしていたからだ。
 野球観戦に夢中の亮平は早苗に肩を叩かれた。早苗は学園の事務所で女性事務員としばし話し込んでから、ネット裏に戻ってきたのだ。
「園長先生がお話を聞いてくれますからねぇ。さぁ行きましょう」
 語尾を引っ張った声は早苗ならではだ。意識的にそうしているのは、相手に優しく聞こえると思っているからだろう。
 事務所の一室で中年の白人の男性と対面した。詰め襟の黒ずくめの服装は、神父であることを示していたが、早苗に「神父様の園長先生にご挨拶なさい」と命じられて、亮平は直立不動の姿勢で「はい」と良い返事をした。
「こんにちは。杉田亮平です。よろしくお願いします」
「良い子ですね」
 園長は亮平のいがぐり頭を撫でてくれた。
「わたしも君のような子供に来てもらえると嬉しいのですが、君の両親は元気で生きている。学園の規定では、孤児に限られているのです」
「そこをなんとかしていただけないでしょうかぁ。この子は学校の成績も優秀ですしぃ、性格も素直なんですの。特別扱いしていただけませんでしょうかぁ」
 園長は大きく首を左右に振った。
「残念ながらあり得ません。ですからお手紙でもお断りしたのです」
 亮平は園長の流暢な日本語にびっくりしたが、手紙の話は初耳だった。いわば門前払いなのに、早苗がなぜわざわざ自分を連れて押しかけてきたのか不可解だ。
「園長さまがこの子と面会してくださればぁ、万一ということもあり得ると期待しておりました」
 園長は早苗を無視して、椅子から腰を上げて、亮平に身を寄せた。
「せっかくですから、園内を見て行くとよろしい。誰かに案内させましょう」
「僕、野球が見たいので、いいです」
 むろん亮平はサレジオ学園がどんな施設なのか知る由もなかった。「天国のような所」と伯母は強調していたが、入園できないのだから、見学する意味はない。
 亮平が強制的に連れて行かれたのはサレジオ学園が学校法人になって間もない頃だ。学費と生活費を支払えば入園可能だったのだろうか。孤児同様の扱いにして入園させろは虫が良すぎる。
 グランドでは野球が続いていた。ユニホーム姿は1人もいなかったが、丸首シャツや半ズボンの少年たちの姿が亮平の目には清々しく映った。
 亮平の身なりは、黒っぽい3つボタンの上着とズボンは野球のユニホーム。編み上げの靴がそぐわなかった。それにブルーの野球帽をかぶっていた。
 野球帽は父親三郎の手製である。縫い目に乱れが無く、「亮ちゃんのお家にはミシンがあるのね」と近所の小母さんが仰天したほど見事な出来映えだ。貧しくてミシンなどある筈がなかった。
 学園からの帰り、電車が新宿駅に着いた時、早苗は唐突に「亮ちゃん、降りますよぅ」と亮平の左手を引っ張った。
「山手線に乗り換えて、目黒の伯父さまのお家へご挨拶に行きましょう」
 父方の伯父の杉田保(たもつ)は開業医だった。三郎の兄は2人で、潔(きよし)と保、妹は久美子(くみこ)だ。
 亮平と早苗は新宿駅のホームで立ち話になった。
「伯父さまにお父さんとお母さんのことをお知らせしておきましょう。今、気がついたのよぅ」
「僕1人で先に帰りたい。キップをください」
「いけません。伯父さまには大変お世話になっているのですから。ご挨拶ぐらいしなければねぇ」
「僕やっぱり先に帰りたい」
「聞き分けのないことを言ってぇ。亮ちゃんはいつからそんなに悪い子になったのぅ」
 早苗は険しい顔になった。切れ長なので嫌な目だ。
 力ずくで亮平を引っ張って行くことは無理と気づいたらしい。
 早苗は作り笑いを浮かべて、急に優しい声になった。
「実はねぇ、伯父さまにはお手紙で連絡してあるの。首を長くして、亮ちゃんが来るのを待っていると思うわ。顔だけでも見せてあげましょう。夕食をご馳走になるのもなんですから、帰りに伯母ちゃんと何か美味しい物でも食べましょう」
 亮平は嫌な予感がした。サレジオ学園に連れて行かれたことも腑に落ちない。
 両親の仲が切迫しているのは身に滲みて分かっていた。しかし伯父を巻き込むのは子供心にも理解できなかった。
「お願いですから伯母ちゃんの言うことを聞いてねぇ。亮ちゃんの好きなご本をお土産に買ってあげましょう」
「うん」
 亮平は心ならずも返事をしてしまった。伯母はなにか魂胆があるに決まっている。単身、伯父宅に乗り込むのも厭わない人だが、僕が一緒のほうが都合がよいのだろうと亮平は思った。

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執筆者プロフィール
高杉良
高杉良 1939(昭和14)年、東京生まれ。科学専門紙記者、編集長を経て1975年『虚構の城』で作家デビュー。以来、経済界全般にわたって材を得、綿密な取材によって徹底したリアリティにこだわった問題作、話題作を次々に発表している。主な作品に『小説 日本興業銀行』『労働貴族』『広報室沈黙す』『燃ゆるとき』『濁流』『金融腐蝕列島』『不撓不屈』『虚像』『第四権力』『小説ヤマト運輸』などがある。
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