【前回まで】更迭された舩井の後任として、都倉が防衛大臣に任命された。CIAのレビンの要求を呑んだ効果だったが、中国諜報機関の幹部となった旧友の劉唯からも電話が入る。
Episode6 一世一代
突然、未来の世代のためにそのあらゆる富、宮殿、住居、苦しみの成果をなげうち、どこか遠くの新しい祖国であえて不安定な窮乏生活を送ろうとするのである。
モーリス・メーテルリンク『蜜蜂の生活』より
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指定されたホテルの部屋の前に立つと、ドアが開いた。
「ウェイウェイ……」
昔と変わらぬ美しさで、劉唯[リュウ・ウェイ]は微笑んでいた。
「キョーコ、会いたかったわ」
彼女が中国の大物スパイなんてやっぱり嘘……と思いたくなる笑顔だった。
懐かしいムスクの香りがした。学生時代から付けていた香水だった。
「ひどく疲れた顔をしているじゃないの。ちょうど、今、お茶を淹れてたの」
劉はテーブルに用意された茶壷[ちゃふう]から茶杯に香りの良いウーロン茶を注いだ。
ソファに隣り合わせに座って改めて劉を見ると、肉が落ちて、昔より輪郭が鋭い。だが、老けて見えるのではない。より知的なイメージを際立たせていた。
「我らが愛するドライマティーニで、乾杯したかったんだけど、明日の朝早くから用があるとあなたが言ったので、お茶にしたの」
紅色の愛らしい茶杯で乾杯した。
「ずっと日本で暮らしているの?」
2杯目を味わいながら、都倉は尋ねた。
「行ったり来たりよ。今回は、あなたと同じ便に乗っていたの」
悪戯っぽく笑うと浮かぶ劉のえくぼが懐かしかった。だが、要するに、自分は尾行されていたのだと、解釈してしまった。
「別に見張っていたわけじゃないよ。でも、いよいよあなたと会わなければならなかったので、同じ便で遠くから見守ろうと思っただけ」
「北京に留学していた時から、私はマークされてたの?」
「まさか。私があなたをマークしたことなんて、一度もない。レビンから、あることないことを吹き込まれたんでしょ。でもね、私はあなたをスカウトするつもりもなかったし、監視もしていない」
「レビンを知っているの?」
「CIAのカウンターパートだからね。そこそこ優秀だけど、陰険な奴」
彼女は友達同士の会話のように言うが、劉がCIAの中国担当ケースオフィサーの名を知っていることで、むしろ彼女の職業が裏付けられてしまった。
ほんの数時間前に、CIAのエージェントから押しつけられた任務を、すでに彼女が知っている様子に、都倉は戦慄した。……
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