Bookworm (90)

川上弘美『某(ぼう)』

評者:鴻巣友季子(翻訳家)

2020年1月18日
カテゴリ: カルチャー
エリア: アジア

根源的な問いかけで解かれゆく
人間ができていく旅程

かわかみ・ひろみ 1958年、東京都生まれ。96年「蛇を踏む」で芥川賞、2001年『センセイの鞄』で谷崎潤一郎賞、15年『水声』で読売文学賞を受賞。著書多数。

 人が存在するとは、どういうことなのか? 少なくとも、自分が存在すると自覚できるのは、ある程度、記憶にかかっているのではないか? 我思いだす故に、我あり。
 では、記憶が一切なくなり、名前も性別もわからないとしたら、あなたは「私」として生きていけるだろうか?
 「私」とは、個人とは、生きるとは、死ぬとはなにか? 『某』はそんな根源的なことを次々と問いかけてくる小説だ。
 ある日、ある人物が病院にやってくる。仮に「某」と呼ぼう。それ以前の記憶がまるでなく、検査をしても染色体が不安定で、男女の判別がつかないという。「某」は入院して、医師とのセッションを通じて「治療」を受けることなる。最初に擬態したのは、「丹羽ハルカ」という高校2年生の女子だ。感情の起伏があまりないキャラクターだが、日記をつけはじめ、漠然とした好き嫌いは感じるようになる。
 しばらくすると、つぎの人物に移ることを医師に勧められ、こんどは「野田春眠」という高校2年生の男子に「変化」する。まさに一瞬にして、外見も声も男性的に。ハルカと同じ高校に転校し、やたらに女性とセックスをするが、まともな人間関係を築くには至らない。
 「ぼくって、いったい何?」春眠は問う。
 こうして「某」は数か月から十数年のスパンでつぎつぎと別なキャラクターを演じるのだが、ある人物になったとき、自分の分身に出会ってしまう。この人物は日記に「自己愛の次の段階に、進んでみたい」と書く。このあたりからアイデンティティのねじれに拍車がかかり、やがて、「某」は自分と同族の「誰でもない者」たちに出会っていく。
 「某」はある女性になったとき、自分の毎日を「小麦粉の山をのぼっているみたい」な感じだと表現する。小麦粉の山は、のぼるそばから崩れてゆく。彼女は占い師のもとで、「物語にならない物語」を文章にまとめるバイトを始めて……。
 『某』に書かれているのは、からっぽの「原型」から少しずつ人間ができていく旅程なのだと思う。転生するごとに――章が変わるごとに――性欲を知り、恋を知り、他者と暮らし、共感を知り、とうとう他人のために生きる他愛というものを知る。自己愛の次の段階に至ったこの先に「某」が知るものとはなんだろうか?
 きっと読者のなかの「私」もいっぺん壊れるだろう。ラストで、「某」と一緒に見あげる星はにじんで見えるに違いない。

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