企業責任から逃走する東電

執筆者:塩谷喜雄 2011年4月19日
エリア: 日本

 福島第一原発の事故は、住民への損害賠償が日程に上り、水面下でうごめいていた企業責任をめぐる葛藤が、表面化してきた。日本経団連の米倉弘昌会長は事故から1カ月後の4月11日に記者会見して、東京電力に責任はないとの異様な東電擁護論を展開した。首相肝いりの復興構想会議の設立、原子力損害賠償法(原賠法)に基づく賠償紛争審査会の設置と、震災と事故に伴う巨額の資金問題がようやく表舞台で議論のまな板に載る。リーマンショックで世界の経済をどん底に突き落としたのは、市場の罠に名を借りた一部経営者の「グリード(強欲)」だった。日本でも、企業責任からの逃走を図る経営者の「因業」は、震災と原発事故で疲弊している社会を、さらなる窮地へと追い込む危険性をはらんでいる。

経団連会長の異様な発言が意味するもの

「国が設定する安全基準が甘かったんですよ」「東電が甘いということではない」「東電さんの努力については頭の下がる思い」「おそらく峠は越しつつある」
 米倉会長の発言は、口が滑った放言として聞き流すには、あまりにも深刻で重大な内容を含んでいる。その第1は、住民の健康や、社会の安全に対する企業責任の公然たる放棄である。世間から責められている東電に対して、「そんなにきつく糾弾しなくとも、頑張って事故対応しているのだから、応援しましょうよ」という、「心やさしい応援歌」の体裁を取りながら、企業責任の否定を傲然と主張している。
 財界総本山の会長による暴言を、厳しくとがめるはずのマスメディアから批判の声は聞かれない。報道を放棄して広報に専念しているように見える。ここでは米倉発言について、少々しつこく分析してみたい。まず「国の安全基準が甘かった」発言について。
 多くのシステムや製品には、国の安全基準が設けられている。目的は、公衆の安全と社会的損害の抑制。他に業界団体の自主基準や国際規格などもある。米倉説によると、それらに合格した製品やシステムで事故が起こると、責任は国や業界団体、国際機関などに帰するらしい。
 飛行機の墜落事故も、列車の脱線事故も、自動車による交通事故も、機器やシステムを運用していた事業者やドライバーには何ら責任はなく、どんなに無謀な運転をしても絶対に事故が起きないような安全基準を示さなかった国や機関が全責任を負うべきだ、とでも言うのだろうか。
 人間の作った機器やシステムに、絶対安全なものは存在しない。使ったり、運転したりすれば、何らかのリスクは必ず発生する。ナイフも下駄も原発も、その点では変わりはない。ただ、原発は大量の放射性物質を内部に抱えていて、運転しなくとも厳重なリスク管理が必要になるし、暴走した時の社会的被害は甚大である。そこで国は、行政庁(経済産業省の原子力安全・保安院)と、原子力安全委員会による二重の審査(ダブルチェック)によって、厳密なリスク管理と安全性の担保を、事業者に求めている。
 国が示す安全基準は、リスクを安定的に管理するための最低限の保障である。国が逐一原発の設計図を描いて、それに従えと言っているのではない。発電所も一般の工場と同じで、事業者が設計し、建設し、運用する純然たる民間の施設である。電力会社は自律的に安全管理をし、発電によって利益を得る。国の役割は、安全管理が確実に実行されているかどうかを、監視・指導することだ。事故は一義的に事業者の責任、それも無過失、無限の責任を負うと、原賠法は定めている。

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執筆者プロフィール
塩谷喜雄 科学ジャーナリスト。1946年生れ。東北大学理学部卒業後、71年日本経済新聞社入社。科学技術部次長などを経て、97年より論説委員。コラム「春秋」「中外時評」などを担当した。2010年9月退社。
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