逆張りの思考

トム・ハンクスはお目が高い

執筆者:成毛眞 2016年12月8日
タグ: 日本

『フィラデルフィア』や『フォレスト・ガンプ/一期一会』で知られるアカデミー俳優、トム・ハンクスが都内の蕎麦屋で“自撮り”した写真をSNSにアップしていた。『ハドソン川の奇跡』のプロモーションのために来日した折にその蕎麦屋を訪れたらしいのだが、とても楽しんでいる様子が伝わってくる。
 その写真には、おそらくはただ居合わせただけの、しかし幸せそうに酔っ払っている日本のオジサンたちが写っていて、やはり蕎麦屋はいいなと思った。これがラーメン店なら、また違った趣になっただろう。懐石料理の店なら、笑顔のオジサンたちが写り込むこともなかったはずだ。だからこそ蕎麦屋は、具体的に言えば、神田まつや本店なのだが、いいなと思ったのだ。ハンクス氏がどうしてここを知ったのかは分からないが、お目が高いと言わざるを得ない。
 神田まつや本店は原則として予約を取らない。だからいい。それを不便だと思う客はやってこないからだ。空いていたら入ろうという程度の、意気込みすぎない客しかやってこない。
 時間帯は夕方4時頃が最高だ。まだ日は傾いていなくて、多くの人は仕事をしているであろう時間帯に「どうしようかな」と悩んだそぶりをしながら、しかし、あらかじめ心に決めていたとおりにビールを注文する。そのときの解放感と言ったらない。そこにいるのは解放感に充ち満ちた人たちばかりなので、店内で背徳感を共有できるのもよい。ハンクス氏の写真に写っていたオジサンたちも、その喜びを隠し切れていないように見えた。
 言うまでもないが、出てくるものはすべて旨い。蕎麦は旨いし、焼き鳥は尋常ならざる旨さだし、かまぼこもかまぼこらしからぬ旨さである。こういったものを食べながら、明るいうちに酒を飲むのだから、控えめに申し上げても最高だ。
 これと似たような、しかし同じではない感覚は街中、とりわけ住宅街によくある中華料理店でも味わえる。
 昼食と夕食の間の時間を休まずに、通しで営業をしている店は蕎麦屋と中華料理店に多いが、中華の場合は、ホテルで腕を磨いた職人的料理人がいる店がよい。いまどきの言葉を使えば「普通に旨い」、激辛でもなければ妙に健康食的でもない、日本人向けにほどよく旨い中華料理にありつけるからだ。こういった店は、蕎麦屋と並んで明るいうちのアルコールととても相性がいい。我が家の近所にもそういった名店があるので、機会があればハンクス氏をご招待したいと思う。
 ただ、蕎麦屋と中華料理店の間には、決定的な違いがある。
 まず、店員との距離感である。どちらも入り込んではこないが、蕎麦屋の方が適切な距離を保てているように感じる。まさにつかず離れずで、こちらが楽しく酔うのを見守っているかのようである。街場の中華料理店には、職人的料理人はいるが、まだまだ職人的接客係が不足している。

カテゴリ: 社会 カルチャー
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執筆者プロフィール
成毛眞(なるけまこと) 中央大学卒業後、自動車部品メーカー、株式会社アスキーなどを経て、1986年、マイクロソフト株式会社に入社。1991年、同社代表取締役社長に就任。2000年に退社後、投資コンサルティング会社「インスパイア」を設立。2011年、書評サイト「HONZ」を開設。元早稲田大学ビジネススクール客員教授。著書に『面白い本』(岩波新書)、『ビジネスマンへの歌舞伎案内』(NHK出版)、『これが「買い」だ 私のキュレーション術』(新潮社)、『amazon 世界最先端の戦略がわかる』(ダイヤモンド社)、『金のなる人 お金をどんどん働かせ資産を増やす生き方』(ポプラ社)など多数。(写真©岡倉禎志)。
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