経済の頭で考えたこと
経済の頭で考えたこと(89)

「キャッシュレス社会」実現へ突き進む「インド・モディ政権」の超本気度

田中直毅
バイブラント・グジャラートに参加した世耕経産相(左)と握手するモディ首相 (C)AFP=時事

 1月10日にインドのグジャラート州の州都ガンディナガールで開かれた「バイブラント・グジャラート(グジャラート州活性化)」の開会式でのモディ首相は、彼に寄せられる賛辞に喜色満面であった。彼はグジャラート州の首相を12年間務め、3年前にインドの首相の座に就いた。隔年の「バイブラント・グジャラート」開催は彼の発案によるもので、いわば故郷に錦を飾るという側面もあった。かつての州都アーメダバードから政治都市ガンディナガールまでの車で30分余りの道路脇には象徴的な看板が掲げられていた。モディ首相の写真の隣には「ゴー・デジタル、ゴー・キャッシュレス」(電子空間へ、現金なしの社会へ)の標語があった。ここにこそ、モディ首相しか構想できない、いわば異次元の政治と経済の空間が広がろうとしている。

「電子手帳、サイフ、通信機」

 昨年11月に一夜のうちにインドで流通している紙幣の約86%に相当する1000ルピー(約1700円)、500ルピー(約850円)紙幣の廃貨が決まった。その直後にインド訪問の予定があった私も、ATMに列をなす人々の困惑ぶりを見ることになった。インド社会の内部の「袖の下」文化に立ち向かうため、そしてタックス・コンプライアンス(納税義務の徹底)を期すための、思い切った踏み込みであった。しかしこうした度肝を抜くような案が、モディ首相の創見によるとみる必要はあるまい。たとえばナンダン・ニレカニ氏の主張はこれに近いものだ。
 IT企業インフォシスの創業者群に連なるニレカニ氏は、モディの前任者のマンモハン・シン首相の下で、13億人のインド人の1人ひとりに国民番号を付番する所管の責任者となった。彼の経済活動の本拠であったバンガロール市のあるカルナタカ州では、貧困者に発給される食糧キップが、州の人口の半ば前後の数になってしまう、という状況が発生していた。付番は行政の効率性改善や資源配分の歪みの是正のために不可欠であった。彼の主張に耳を傾けたシン首相が、付番制度の設計責任者に彼を任命した。その職を拝名した直後の彼にインタビューしたとき、彼は次のような構想を示してくれた。
 貧困者に「電子手帳、サイフ、通信機」の機能を一体化した簡単な端末を配る。これにより、たとえば道路の修復作業で1日の稼ぎを得た人は、「電子サイフ」に相当分を入力してもらう。雑貨屋には読み取り機があり、買い物が可能になるし、金融機関代理店を小売店が兼ねていれば、「電子サイフ」でもあり、また「電子預金通帳」でもありうる、というわけだ。インドの津々浦々に金融機関を設置する必要などないし、そのような非効率は誰のためにもならないと、インドの未来像を明確に述べたのだ。

50万円超の現金決済禁止

 日本では郵便局の設置の義務付けという議論が国会で論じられ、それが法案化されるという道筋をたどっていた。ニレカニ構想に日本の国会は明白に劣後していた。そして、ニレカニ氏の描いたインド像は、モディ首相のもとで一挙に展開を始めたのかもしれない。1月10日の「バイブラント・グジャラート」の初日には、シリコンバレーの企業シスコのジョン・チェンバーズ会長が次のように述べた。
「世界のなかでインドが持つほどの望ましい将来像を持つ国はない。モディ首相はこれまで私が会った中でトップ3のリーダーの1人だ」
 同じく米国から参加した化学大手ハンツマン・コーポレーションのピーター・ハンツマンはモディ首相自身がインド最大の米国への輸出者だとして次のように述べた。
「昨年6月、モディ首相は米国を訪問した。我が国のいかに大勢の人々が、モディがそのまま米国に滞在し、指導者として振る舞うことを望んだことか」
 モディ首相は金融面でも第1歩を踏み出した。彼によれば、彼が首相として各国を訪問した時、金融やIT企業のトップ級のインド人(インド生まれの企業人)が、インドのIT技術者の層の厚みと効率性の高い金融市場運営が重なれば、シンガポール、香港、ロンドン、ニューヨークに並ぶ金融市場(INX、India International Exchange)も夢ではないと述べたという。これがすでにGIFTシティとしてガンディナガール市の一区画に登場した。GIFTとはグジャラート・インターナショナル・ファイナンス・テックを指す。ここで扱われる金融商品として株式ディリバティブ、商品ディリバティブ、為替ディリバティブなどの金融派生商品がある。またインデックスという指数取引への誘いもある。資金預かりの口座や債券取引による運用も始まった。トランプ大統領誕生後、相次ぐ「大統領令」で混乱要因の累積のため時代への取組みに集中力を欠く米国と対比すれば、インドの政策対応は相当程度一貫したものと言えよう。
 2月1日にジャイトリー財務相は議会で2時間の財政演説を行った。その中で注目すべきものの1つは、現金による決済への本格的闘争姿勢である。30万ルピー(約51万円)を超える現金決済の禁止が提示された。不明朗な資金を社会から排除する取り組みに揺るぎがないことを示すものである。
 注目すべき第2の点は、農村地域向けの公共事業を25%も引き上げながら、GDP(国内総生産)比の財政赤字は3.5%から3.2%に縮小するという予算案の骨格である。タックス・コンプライアンスの向上が飛躍的に望めることが、その下敷きにある。透明性の高い仕組みは政党への寄付金にも適用される。匿名性が認められる、すなわち現金による政治寄付金の上限は2万ルピー(約3.4万円)から2000ルピー(3400円)にまで引き下げられる。インドの政治文化もまた大きな変容のまっただなかにあるといえよう。

インドの安定性「4つの理由」

 インド社会が一挙にキャッシュレスの透明性の高い社会に変貌する可能性はもう無視できない。それはインドでATM(現金自動支払機)を製造する企業が、本当にお役目御免になるのでは、との危機感を高めていることからもわかろうというものだ。習近平体制の中国やプーチンのロシアでも、腐敗や行政の非効率への取組みが行われているが、インドのそれは手段においても、予想される到達点においても全く異なるものだ。一党独裁の体制でも、また極端な集権体制でも手掛けられないことが、世界最大の民主主義国でなぜ可能になるのか、という歴史的な問いが生まれているといってよい。
 インド外務省でモディ首相のスピーチ・ライターとも言われている企画担当の幹部は、2017年という時点におけるインドの安定性の理由を4点にわたって説明してくれた。トランプ登場との関連では次の3つの特徴が安定性に直結するという。
(1)非同盟のゆえに、トランプ以降のNATO(北大西洋条約機構)や日米安保などの枠組み変容とは無縁。
(2)TPP(環太平洋経済連携協定)の漂流の影響は皆無。
(3)米国市場への輸出依存度は取るに足らないが、インド人技術者に与えられているH-1Bビザの内容変更だけはIT企業の戦略に影響を及ぼす。しかし、IT分野の企業の柔軟性のゆえに長期的には課題克服の道筋が立つ。
 以上の3点を考えれば、インドにとっての米国の「異変」は、とりたてて戦略変更を論ずるほどのものにはならないということになる。
 そして(4)として最も強調すべきは、10年の単位で平均GDP成長率7%程度を予測できる主要国はインドをおいてない、という事実である。モディ首相が掲げたGST(一般消費税)の導入は、2017年4月施行の日程が州単位の政治調整に戸惑って遅延することはあっても、もはや連邦レベルでの間接税体系の実現を疑う見方はない。これは米国の歴史では州際通商法によって連邦政府レベルでの全国統一市場が生まれたのに匹敵する快挙と言える。旧紙幣の廃止は、間違いなく経済混乱に直結したが、モディ首相への期待値は決して後退しているとはいえないのだ。支持率調査でこのことは確かめられていくことだろう。

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執筆者プロフィール
田中直毅 国際公共政策研究センター理事長。1945年生れ。国民経済研究協会主任研究員を経て、84年より本格的に評論活動を始める。専門は国際政治・経済。2007年4月から現職。政府審議会委員を多数歴任。著書に『最後の十年 日本経済の構想』(日本経済新聞社)、『マネーが止まった』(講談社)などがある。
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