実力は一晩で1億ドル稼いだパッキャオ以上――モンスター「井上尚弥」本当の市場価値

執筆者:林壮一 2023年8月27日
エリア: アジア 北米
世界ボクシング評議会(WBC)、世界ボクシング機構(WBO)スーパーバンタム級で新王者となった井上尚弥=7月25日、東京・有明アリーナ (C)時事
あのマイク・タイソンをして「マニー・パッキャオ以上」の逸材と言わしめた井上尚弥。パッキャオといえば、「世紀の一戦」と呼ばれた2015年のメイウェザー戦で約170億円とも言われるファイトマネーを手にした伝説のボクサーである。かたや井上は、7月末に4階級制覇を成し遂げた時のファイトマネーが5億円とされる。“モンスター”が市場価値に見合った正当な収入を得るためには、本格的な米国進出が必要だ。

 

 7月25日、日本ボクシング界期待の星、井上尚弥(30)が、米国のスティーブン・フルトン(29)を8ラウンド1分14秒でノックアウトし、世界タイトル4階級制覇を果たした。これで井上の戦績は25戦全勝22KO。

 プロデビュー以来、井上が獲得したベルトは、日本ライトフライ級、OPBF東洋太平洋ライトフライ級、WBCライトフライ級、WBOスーパーフライ級、バンタム級では主要4団体であるWBA、WBC、IBF、WBOの全て、そして今回のWBC/WBOスーパーバンタム級タイトルと、10本になる。

 井上のプロ4戦目の相手であり、日本ライトフライ級タイトルを懸けて拳を交えた、元WBA/IBF同級チャンピオンの田口良一(36)は、脱帽しながら語る。

「井上尚弥は、まるで漫画ですよ。漫画の世界には、飛び抜けた凄いキャラクターの主人公がいるじゃないですか。井上くんは、もはやフィクションを超えた領域まで達しているんじゃないかな」

 今日までに、日本からは98名の世界チャンピオンが誕生したが、これほど圧倒的な強さを見せた男がいただろうか。井上のリングシューズやガウンの作成を担当するミズノ社の担当者は「自分が生きている間に、こんな選手に出会えた幸せを噛み締めています」と話す。高いKO率が示すように、常に獲物を仕留める井上のスタイルは、海外でも絶賛されている。まさに、所属ジムの大橋秀行会長が名付けた「モンスター」そのものだ。

ボクシング記者が井上尚弥の4階級制覇を見なかった理由

 ボクシング界には〈パウンド・フォー・パウンド〉という言葉がある。最軽量のミニマム級から最重量のヘビー級まで、17階級の世界王者が、もし同じ条件(体重)で戦ったとしたら、誰が一番強いか? という架空の議論だ。モハメド・アリとマイク・タイソンが試合をしたら、どちらが勝ったか――に近い談であり、実際に戦う訳ではないのだから無意味だと主張する声もある。だが、パウンド・フォー・パウンド・ナンバーワンの座を目指している現役選手が多いのも事実だ。

 7月末以降、米国の大手ボクシングメディアが、各々のパウンド・フォー・パウンド・ランキングを発表したが、おしなべて井上尚弥は2位。1位は、井上vs.フルトン戦の5日後にラスベガスで催されたWBA/WBC/IBF/WBO統一ウエルター級タイトルマッチの勝者、テレンス・クロフォード(35)だった。

 筆者は、WBOチャンピオンのクロフォードが、WBA/WBC/IBFの3冠王者だったエロール・スペンス・ジュニア(33)を第9ラウンド2分32秒でKOする様を現地で目にした。試合内容は甲乙付け難いものの、ボクシング市場を鑑みれば、クロフォード支持者が井上のそれを数で上回るのは致し方ないと感じざるを得なかった。

 クロフォードvs.スペンス戦のゴングが鳴る5時間前、メディアルームで顔を合わせた12名の記者に、この日の予想と、WBC/WBOスーパーバンタム級タイトルマッチの印象を訊ねたが、大半のボクシングジャーナリストの答えが「井上の圧勝という結果は知っているが、試合映像はハイライトでしか見ていない」というものであった。驚くことに、実際にTV観戦した数は12人中、僅か3名に過ぎなかった。

 それもそのはず、米国において、井上vs.フルトン戦の前座を含めた番組がESPN+でオンエアーされたのは、7月25日火曜日のニューヨーク時間午前4時30分、ロスアンジェルス時間の午前1時30分である。メインイベンターである井上が画面に登場したのは、アメリカ合衆国東部時間の午前8時、西部時間の午前5時だった。

 WBA/WBC/IBF/WBO統一ウエルター級タイトルマッチを含め、ボクシングの本場、アメリカにおいて、ビッグマッチは土曜日の夜に開催されるのが常だ。ボクシングジャーナリズムに身を置く人間でさえ、目にするのが困難な時間に放送したため、見たくても叶わなかった実情がある。仕事への影響を考慮し、睡眠時間を確保したかったボクシングジャーナリストたちがハイライトしか見ていないのであれば、おのずとパウンド・フォー・パウンド・ランキングの投票にも影響するというものだ。

全世界が注目したクロフォード(右)とスペンスJr.の4冠統一ウエルター級タイトルマッチ (C)Ryan Hafey(Premier Boxing Champions)

井上のファイトマネー5億円ははたして妥当なのか

 井上vs.フルトン戦をオンエアーしたESPN+はスポーツ総合チャンネルで、24時間、MLB(メジャー・リーグ・ベースボール)を始めとした様々な競技を放送している。加入料金は10ドル弱(税抜き。約1400円 ※1ドル=140円で換算、以下同)。一方、クロフォードvs.スペンス戦の放送権を得たSHOWTIMEは、今日、世界中で最もボクシング中継に力を注ぐケーブル局で、1カ月11ドル(1540円)弱でボクシングの他に映画やドラマなども楽しめる。敏腕プロモーターも、マネージャーも、自身が抱えるファイターがSHOWTIMEと契約することを願っている。それが成功の証と呼べるからだ。

 とはいえ、SHOWTIMEの視聴者たちにとって、大規模な世界タイトルマッチは懐が痛む。PPV(ペイ・パー・ビュー)での放送となるため、更に料金を支払わねばならないのだ。今回の4冠統一ウエルター級タイトルマッチの視聴料は、84.99ドル(約1万2000円)だった。

 PPVの売り上げは、ボクサーの収入を大きく左右する。4冠統一ウエルター級タイトルマッチは、少なくとも65万件の購入者がおり、5525万ドル(77億3500万円)以上の収益を上げた。そこからSHOWTIMEの取り分を除いた残りを、2人のチャンピオンが50%ずつ手にした。入場券の売り上げは2100万ドル(29億4000万円)。最低保証された両者のファイトマネーが1000万ドル(14億円)であるため、トータルすると、クロフォードもスペンスも最低2500万ドル(35億円)ずつを稼ぎ出したことになると、元ESPNのボクシング記者であるダン・ラファエルは述べる。

 147パウンド(66.68kg)のウエルター級はボクシング史上、多くの名チャンプを輩出しており、PPVも売れやすい。その反面、現在の井上の階級である122パウンド(55.34kg)は、軽量級に分類され、知名度、注目度でウエルター級や、村田諒太がいたミドル級、あるいはヘビー級に遠く及ばない。

 因みに、井上にタイトルを奪われたフルトンは、2021年1月23日にWBOスーパーバンタム級タイトルを獲得し、10カ月後にWBC同級チャンピオンであるブランドン・フィゲロア(26)との統一戦を迎えた。この時、フィゲロアのファイトマネーが100万ドル(1億4000万円)だったのに対し、フルトンは半分の50万ドル(7000万円)、そしてPPVの売り上げもWBC王者は55%を受け取り、フルトンは45%で契約している。結局、この一戦でのフィゲロアの収益は250万ドル(3億5000万円)、勝ったフルトンは100万ドル(1億4000万円)と水を空けられた。

 2冠チャンプとなり、2022年6月に防衛戦を行った折にも、フルトンのファイトマネーは上がらずだった。PPVの取り分は60%に引き上げられたが、受け取った総額はフィゲロア戦とほぼ同額と伝えられている。

 7月25日に有明アリーナで催されたWBC/WBOスーパーバンタム級タイトルマッチにおける井上とフルトンのファイトマネーの合計額は10億円で、「軽量級史上最大の一戦」と表された。この一戦で2人が受け取った詳細な金額は不明だが、井上とフルトンのファイトマネーに差は無く、共に自己最高額だと報じられている。

 フルトンは2冠王者でありながら、敵地である日本での開催に合意した。それはつまり、不利な条件を呑む代わりにそれなりのファイトマネーを用意しろということだ。直近の2試合の収益から鑑みれば、フルトンは200万ドル(2億8000万円)なら喜んでサインしたであろうが、「井上と同額程度」が事実であるなら、両者が5億円ずつと推定することも可能かもしれない。井上尚弥にとって5億円が自己最高のファイトマネーだとしても、今の「モンスター」なら、優に倍は稼げる。

もはや日本国内に留まるレベルの選手ではない

 フィリピンの英雄、マニー・パッキャオ(44)は、祖国にいてもそれほど稼げないことを見越して、2001年にアメリカに進出した。彼が22歳の頃だ。本場で巻いた初の世界タイトルは、今回井上が獲得した2本と同じ、スーパーバンタム級であった(パッキャオはIBF)。当初、マイク・タイソンや後に戦うこととなるフロイド・メイウェザー・ジュニアの前座を務めたが、チューンナップ戦を挟まず、毎試合、強敵との戦いを選び、全ての対戦相手を踏み台とすることでスーパースターの座を手に入れた。

 パッキャオが後にスーパーウエルター級まで増量したことも自身の価値を上げる材料となったが、オープニングベルから試合終了のゴングが鳴るまで、必ずノックアウトを狙う戦い振りが、彼を時の人とした。このスタイルは、井上尚弥と共通している。2001年6月にアメリカデビューした際、「東洋からやって来た小柄なサウスポー」としか見られなかったパッキャオだが、試合をこなすごとにパウンド・フォー・パウンド上位に名を連ね、2008年には同1位となった。

 パッキャオの最大のライバルは、4度対戦したメキシコのファン・マヌエル・マルケスと言っていい。フィリピン人サウスポーの2勝1敗1分けだが、フェザー級、スーパーフェザー級で1試合ずつ、ウエルター級で2試合対戦した。第1戦はPPV放送無しだったが、ジャッジが三者三様のドローとしたことで、当時、ボクシング中継を代表する局だったHBOが、その後の3試合をPPV放送とし、パッキャオの収入は第2戦で200万ドル(2億8000万円)、第3戦で3000万ドル(42億円)、4戦目で2300万ドル(32億2000万円)とドル箱カードとなった。

 加えてパッキャオは、2015年5月2日のフロイド・メイウェザー・ジュニア戦で、1億2000万ドル(168億円)を稼いでいる。わかりやすい比較対象として、メジャーリーガー大谷翔平の2023年の年間収入が約6500万ドル(91億円)とされる。

 井上尚弥というチャンピオンは、あのマイク・タイソンが「マニー・パッキャオ以上だ」と舌を巻く、日本ボクシング史に一人出るか否かの逸材である。何度か海外でのファイトも経験しているが、もはや日本国内に留まる器ではない。試合日程を米国時間の土曜の夜とし、PPVで放送することが彼には相応しい。

 ESPNではなく、SHOWTIMEに打診しても、パウンド・フォー・パウンド2位が断られる理由などない。世界中の、より多くのボクシングファンが目にすべき男だ。収入面でもパッキャオを超え、世界的な伝説となるはずのチャンピオンである。

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執筆者プロフィール
林壮一(はやしそういち) 1969年生まれ。ジュニアライト級でボクシングのプロテストに合格するも、左肘のケガで挫折。週刊誌記者を経てノンフィクション作家に。1996年に渡米し、アメリカの公立高校で教壇に立つなど教育者としても活動。東京大学大学院情報学環教育部にてジャーナリズムを学び、2014年修了。著書に『マイノリティーの拳』『アメリカ下層教育現場』『アメリカ問題児再生教室』(以上、光文社電子書籍)『神様のリング』『世の中への扉 進め! サムライブルー』、『ほめて伸ばすコーチング』(以上、講談社)など。
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