在米ウクライナ人たちが「プーチン」「トランプ」についてカリフォルニアのデモで語ったこと

執筆者:林壮一 2023年10月1日
エリア: 北米 ヨーロッパ
風光明媚な観光名所、バルボア・パークにはためくウクライナ国旗と星条旗(筆者撮影)
米国西海岸で有数の大都市、サンディエゴ。観光名所にもなっている市内の公園で、毎週土曜日にデモを行うウクライナ人たちがいる。若くして異国に渡って新たな家庭を築き、平和で豊かな生活を享受している彼らが、祖国とロシア、そしてアメリカ合衆国について語ったこととは――。

 移民の国、アメリカ合衆国。17世紀にイギリスを中心としたヨーロッパ西部から、新生活を求めた人々が海を渡った。人数を確定するのは難しいが、最初のウクライナ人グループが当地に降り立ったのは1870年代と伝えられる。そして今日、アメリカには永住権を持たない人も含め、150万を超えるウクライナ人が暮らす。

 筆者の住居があるカリフォルニア州南部、サンディエゴのウクライナ人コミュニティーの数は、およそ1万人。この人たちもまた、チャンスを求めてアメリカに移住した。2022年2月24日のロシアによる祖国への全面侵攻以来、彼らはサンディエゴの観光名所、バルボア・パークに毎週土曜日の15時に集い、平和を訴えている。

 取材に訪れた日の参加者は52名。ウクライナ人、ウクライナ系アメリカ人、その他アメリカ人等だ。

「プーチンは核を用いたテロリストだ!」「ロシアはテロリスト国家」「戦争を止めろ」「大量虐殺を止めろ」「戦争は終わっていない。ウクライナよ、武装せよ!」なるプラカードが並べられ、ウクライナ国歌を斉唱し、ウクライナの伝統的な歌を合唱した。6名が参加者を代表して順番に登壇し、平和への祈りやプーチンに対する抗議、犠牲になった人々への思いをスピーチした後、10メートルはあろうかという巨大なウクライナ国旗を20名弱で持ち、公園内を行進した。

巨大なウクライナ国旗を広げて行進するデモ参加者たち(筆者撮影)

教育や仕事を求めてアメリカへ

 集会が始まる前に、運動のリーダー格である女性、ユリア・プコに話を聞いた。彼女はアメリカの大学で見聞を広げるために祖国を離れた。

「私はハルキウで生まれ育ちました。緑が溢れ、公園と大学の多い街です。1917~34年はウクライナの首都であり、文化の中心でしたが、当地における市民の生活は、それは厳しいものでした。

博士課程で政治学を専攻するプコ。手にしているのは、筆者が日本の支援者から預かったポロシャツ(筆者撮影)

 私の父はエンジニアでしたが、90年代から2000年代初頭にエンジニアの仕事はほとんどなく、収入を補うためにタクシー運転手として働いた時期もあります。3歳の時に両親が離婚し、母と私は小さな2ベッドルームのアパートに住んでいました。母は看護師でしたが、他にもパートタイムの仕事を掛け持ちしていましたね。私たちは主に祖父母が庭園で栽培したものを食べていました。

 それでも両親にとって最も重要なことは、私に良い教育を与えることでした。母の計らいで、私は早い段階で英語を学ぶ機会を得ました。ソ連崩壊直後の社会では外国語を習得している人がほとんどいなかったため、言語が将来への扉を開くと信じていたようです。私は15年前の2008年、アメリカに渡ってカリフォルニア州立大学サンディエゴ校に入学しました。それも母が適切な教育を受けさせてくれたお陰です」

 プコは現在、博士課程で政治学を専攻している。大学院に進学して学びを追求するきっかけとなったのは、2014年以降のロシアによる侵攻だった。

「2014年、私の世界は完全に粉砕されました。ロシアがクリミアを併合し、その後ドネツクとルハンシク地域を侵掠した時に感じた不信感と恐怖を、今でもハッキリと覚えています。21世紀に祖国で戦争が起こるなんて信じられませんでした。ロシアが私の故郷であるハルキウも攻撃するのではないかととても怖くなり、祖母に避難の準備をするよう懇願しました。

 でも彼女は私にこう言いました。『心配しないでいいわ。第2次世界大戦中、私たちはドイツ人とロシア人の進攻から生き残ったの。今回の相手はロシア人だけよ』と。2014年以降、私は祖母と頻繁に国際電話で話し、大戦中の経験について聞きました。けっきょく祖母は、ロシアがハルキウに行った爆撃を見ることなく数年前に亡くなりました。

 祖父母たちが過去にそうしたように、今、ウクライナ人は祖国を守るために戦っています。民主主義、人間の尊厳、そして自分たちの未来を選択する権利を守るためにも戦わねばなりません」

 プコとの会話を終えて、胸に「FUCK YOU PUTIN」と描かれた黒いTシャツを着た男性に声を掛ける。レストランのオペレーションディレクターとして働くリヴィウ出身の34歳で、サンディエゴに住んで8年目だと言った。名前はダン・リ。

「リヴィウは何百年もの歴史ある佇まいが残る、美しい街なんだ。“ウクライナ西部の首都”なんて呼ばれることもある」

 ダンが2歳の時、母が子宮頸癌で亡くなり、宝石修理店を営んでいた父と祖父母に育てられた。その店も数年後に潰れてしまい、父はTVアンテナなどを売る店で働き、苦労して家族を養ったという。

「小さい頃は、宇宙飛行士になりたいと思っていた。大学でコンピューターサイエンスと情報保護を専攻して、修士号まで習得したけど、卒業後は銀行の警備部門とアパレルブランドの小売店で働いていた。アメリカならもっといい仕事があるんじゃないかと思って、可能性を求めて渡ってきたんだ。2015年のことだよ」

好きだったロシアの音楽も映画も、自分の中から消した

 多くの移民がそうであるように、言葉の壁、文化の壁に直面しながらも、ダンはアメリカに根付いた。息子もサンディエゴで誕生し、チェーンレストランで経営戦略を任されるまでになった。

「息子も生まれて、お陰様で仕事にも恵まれている。生まれたばかりの赤ん坊を見る度に幸福を感じるよ。でも、祖国を思うといたたまれない……」

 彼は自身の胸を指しながら、憤懣やるかたないといった表情で言葉を続けた。

「父も祖父母も、ロシア語を話していた。おれ自身も音楽だろうが映画だろうがロシア語で制作されたものを味わいながら成長した。2014年にドンバス戦争が起こるまで、ロシア政府に関する知識は無かった。ただ単に、ロシアによるプロパガンダに支配されていた。だから、どういう思考が正しく、何が間違っているかの検証もしていなかった。中立の立場でいたよ。でも、2022年2月24日にようやく真実が分かった。

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カテゴリ: 政治 社会
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執筆者プロフィール
林壮一(はやしそういち) 1969年生まれ。ジュニアライト級でボクシングのプロテストに合格するも、左肘のケガで挫折。週刊誌記者を経てノンフィクション作家に。1996年に渡米し、アメリカの公立高校で教壇に立つなど教育者としても活動。東京大学大学院情報学環教育部にてジャーナリズムを学び、2014年修了。著書に『マイノリティーの拳』『アメリカ下層教育現場』『アメリカ問題児再生教室』(以上、光文社電子書籍)『神様のリング』『世の中への扉 進め! サムライブルー』、『ほめて伸ばすコーチング』(以上、講談社)など。
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