インテリジェンス・ナウ

日本国内でも米中スパイ戦争:冷戦時代より激しいせめぎ合い

執筆者:春名幹男 2023年10月26日
エリア: アジア 北米
中国とのスパイ戦争で先頭に立つ、ウィリアム・バーンズCIA長官(CIA公式HPより)
2010年代以降、一時は壊滅的な状態に追い込まれた対中情報ネットワークをようやく再建し始めた米国は現在、世界各地で中国と熾烈なスパイ戦争を展開している。8月には東京を舞台にしたCIAの中国人工作員のリクルートが中国国家安全部によって発表されるなど、日本国内でも激しいせめぎ合いが起こっている。

 米中のスパイ戦争は、2013年に習近平中国国家主席が就任後、さらに激化、冷戦期の米ソ情報戦争を上回る規模で拡大している。

 どれほどの戦いに発展しているのか、その一端を数字で例示しておきたい。2010年代以降の度重なるサイバースパイ工作で、中国は米国人口(約3億3500万人)の約半数もの個人情報を蓄積している。

 カウンターインテリジェンス(防諜)の任務を担う連邦捜査局(FBI)のクリストファー・レイ長官によると、米国内では「捜査中の中国絡みのインテリジェンス事件は数千件」に達している。

 中国は多数の米中央情報局(CIA)秘密工作員の個人情報も入手している。CIAの秘密工作に詳しい米ジャーナリスト、ザック・ドーフマン氏によると、工作員が海外に出張し、アフリカや欧州の空港を出た瞬間に、尾行が付くケースが相次いで起きている。

 中国は「一帯一路」のプロジェクトとは別に、パキスタン、ケニア、キューバなどに「情報基地」を建設しており、中国情報機関のプレゼンスが世界的規模で拡大している。

 これに対抗して米国内では、FBIは全米56カ所のフィールドオフィス(地区署)に、主として対中防諜やサイバー攻撃などを追及する捜査本部を置き、警戒を強化している。

 日本も米中スパイ戦争の余波から免れることはできない。CIAと中国情報機関「国家安全部(MSS)」のスパイ同士のせめぎ合いが日本国内で起きていることが中国の報道で明らかになった。

 総体的には、中国側が攻め、対応が遅れた米国が反撃する形だが、現状を探った。

在京米大使館を舞台に中国人リクルート

 MSSが今年8月21日、「CIAのスパイ工作を暴いた」として発表した事件の現場は東京だった。『人民日報』系の『環球時報』英語版によると、CIAにリクルートされたのは中国政府の官僚「ハオ」容疑者(39)=音訳、姓のみ公表=という人物だ。

 ハオは日本留学中に、米国ビザを申請するため在京米大使館を訪れた際、CIA工作員とみられる「テッド」と知り合い、その後夕食をおごられたりして緊密な関係になった。

 テッドは東京勤務の任期終了前に自分の同僚「リ・ジュン」(音訳)をハオに紹介。リはハオの留学終了前に、自分がCIA工作員であることを明らかにし、ハオに「帰国後は中国政府の重要な部門で働くよう」要請、ハオは同意した。ハオはスパイとして、合意文書に署名し、訓練も受けたという。

 ある日本政府職員から筆者が聞いたCIAのリクルート手法とほぼ同じだ。その日本人は署名を拒んで、事なきを得たと聞いた。

 ハオは帰国後、CIAの要請通り中国政府で働き始め、その後もCIA工作員との接触を続けた。CIAから金の支払いを受けるのと引き換えに、大量の中国政府の機微情報を提供し続けてきたという。

旧ソ連に代わり中国人が対象に

 CIA東京支局は東アジアの拠点で、欧州のドイツ・ベルリン支局、中米のメキシコ市支局と並ぶ規模となっている。関係筋によると、キャリア工作員や分析官ら100人強のスタッフで構成し、外交官、軍人、民間人に偽装している。在京米大使館所属の要員が最も少なく、米空軍横田基地所属が最も多い。機密度が最も高い民間人偽装は「約1ダース」ともいわれる。

 国務省とCIAの取り決めで、日本政治は専ら国務省が担当し、CIAは中国や南北朝鮮など東アジア地域をカバーする、という形で担当を一応分けている。

 冷戦時代の日本では、1954年の「ユーリー・ラストボロフ事件」や1979年に起きた「スタニスラフ・レフチェンコ事件」では、旧ソ連国家保安委員会(KGB)エージェントの米国亡命をCIA防諜工作員が支援したことが知られている。

 MSSの発表が正しければ、ハオの事件は、CIAの主たる工作対象が旧ソ連から中国に入れ替わったとも言える。

 MSSは「ハオ拘束」発表の10日前に、中国の軍需産業グループの社員「ゼン」(52)が留学で派遣されたイタリアでCIAローマ支局の工作員「セス」にリクルートされた事件を公表したばかり。

 習政権は2014年に「反スパイ法」を施行。今年7月1日にはスパイの定義を大幅に拡大した改正反スパイ法を施行、中国各地でSNSなどを使って反スパイのキャンペーンを展開している。多くの大学には外国スパイを摘発するコースが設置された。ハオやゼンの事件はそんなキャンペーンに利用されたとみられる。

中国・イラン協力でCIA情報網壊滅

 米国の中国インテリジェンス対策が遅れたのは、2001年9月の米中枢同時多発テロを受けて、「対テロ戦争」を最優先し、中露に対する警戒態勢が後退したことが悪影響を及ぼした。特に米国は中国の軍事的・経済的脅威を認識するのが遅れた。

 2010年ごろには、中国政府内に張り巡らせていた情報ネットワークに異変が顕在化し始めた。CIAと複数の情報協力者との連絡が突然絶たれる事件が続出したのである。米外交誌『フォーリン・ポリシー』によると、中国当局に拘束され、処刑されたCIA協力者の数は2010年末から約2年間で約30人に上ったという。

 CIAの在中情報網を中国側が摘発したのは明らかで、米国側は衝撃を受けた。

 調査の結果、CIAのキャリア工作員(ケース・オフィサー)と情報協力者(エージェント)が連絡用に使うオンラインのシステムに欠陥が発見された。その欠陥が情報網が破綻した原因とされている。

 イラン国内で使われていたそのシステムをイラン側が突き止め、イランはその欠陥を中国側に教えたとみられている。

習主席周辺にCIAの情報源か

 情報網壊滅の衝撃から10年以上経った今年2月、中国の「スパイ気球」が突然、米国上空で発見される問題が発覚した。米国は気球を撃墜し、アントニー・ブリンケン米国務長官は計画されていた訪中を延期、米中関係は悪化した。しかし、長官は6月に訪中、対話の継続で合意した。

 そして7月20日、ウィリアム・バーンズCIA長官が米国アスペンで開かれた安全保障フォーラムに出席した際、米『公共放送ラジオ(NPR)』とのインタビューで、在中CIA情報網に関して質問に答えた。

「われわれは前進した。他の方法で得られる情報を補完する強力な人的情報能力を確保するため近年、大変な努力をしてきた」

 内外の一部のメディアは、長官がCIAの中国情報網を「再建」したと発言したかのような報道をしたが、抽象的に「前進した」と言っただけだ。

 ただ『ニューヨーク・タイムズ』が興味深い指摘をしている。気球の件で、習主席は気球が米上空に到達するまで人民解放軍(PLA)から何も知らされていなかった。「それより前に気球が予定の航路から外れていたことを報告しなかった問題で主席は将官らを叱責した」というのだ。

 米政府筋はこの情報をどのようにして入手したか明らかにしていないが、習国家主席に非常に近い立場にある高官から情報を得たに違いない。この報道からみて、CIAの情報網が少なくとも一部再建されたのは確実なようだ。

米国民の半分の個人情報が盗まれた

 米国は、中国のサイバースパイによって、技術情報や軍事情報、人事情報などを盗まれてきた。その中で、「米情報コミュニティ」にとって最も痛かったのは、2015年に報道された米連邦政府人事管理局(OPM)のデータベースから2210万人の現職・元職の連邦職員情報が盗まれた事件だったに違いない。

 OPM情報は「個人情報」と「セキュリティ・クリアランス(機密情報取り扱い資格)」の2つのデータベースが攻撃を受けた。後者には情報機関職員の重要な機密情報が含まれている。当時のジェームズ・コミーFBI長官は「宝のコレクション」が盗まれたと発言した。

 それとは別に、2017年に米国の3大信用調査会社の1つ「エクイファクス社」から、実に米国民約1億4500万人の個人情報や企業情報が盗まれている。この事件では、アトランタの連邦大陪審は、中国人民解放軍「第54研究所」に所属する中国人ハッカー4人を起訴している。

 これら2つの事件の被害者数を合算すると、米国民計1億6710万人の個人情報を中国に握られたことになる。冒頭で記したように、その数は単純計算で米国人口の約半分になるのだ。

OPMの事件後、異常な出来事が増加

 問題は、それほどの数の米国民の個人情報を中国に握られた、ということにとどまらない。同時に、政府職員の配偶者、健康状態、住居、指紋、金銭データ、精神衛生、過去の性関係、外国居住の親類の情報などを得て、秘密工作で脅しに利用することもあり得る。

 事実、OPMの事件後、インテリジェンス・コミュニティ内で被害調査を行ったところ、異常な事件が増加していることが分かった、とドーフマン氏は『フォーリン・ポリシー』で指摘している。冒頭で指摘した、CIA工作員がアフリカなどに出張した際、空港を出てすぐに尾行されるようなケースだけではない。

 米情報機関に勤務する中国系米国人翻訳官に対して、中国情報機関がリクルートしようとする事件も探知されている。外国で米政府職員の配偶者に中国やロシアの工作員が接触するケースもあった。

 また中国は、スパイ工作に利用するため、米国の他のデータベース、例えば旅客機の飛行リストや旅客リスト、身体的情報も集め、クロスチェックを行って、CIA秘密工作員らの動向をフォローしていると言われる。

 米秘密工作員らの個人情報処理はこのように徹底していて、中国情報機関は情報を入手次第、逐次厖大なデータベースに付け足し、次の工作に備える、というシステムを構築しているに違いない。

警視庁公安部に監視要請も

 先述した、在京米大使館を訪れた中国人をリクルートしたCIA工作員のフルネームなど個人情報も既に中国国家安全部が把握しているとみられる。

 今後米中のスパイ戦争が激化すれば、東京を舞台にして、中国政府高官が米国に亡命するといった事件が起きる可能性も十分あり得る。

 そうした事件を防ごうとする中国国家安全部の防諜担当工作員とCIA工作員のせめぎ合いが多発することになれば、米中は双方とも担当の人員を増強する可能性もある。

 場合によっては、CIAが警視庁公安部外事2課に対して、監視要請をする場合もあるかもしれない。過去には、CIAは事案に応じて、警視庁や公安調査庁、自衛隊に調査依頼をしてきた。そうしたケースが増えることも想定される。

 問題は、日本における中国スパイの態勢が明らかになっていないことだろう。日米双方とも対中カウンターインテリジェンスの強化を迫られるのではないか。

キューバに情報基地設置で米国を刺激

 最後に、中国が世界各地で軍事情報を収集し、プロパガンダ工作を展開する情報基地の建設を拡大していることを指摘しておきたい。

 習国家主席は2015年、人民解放軍改革の1策として、情報戦争の能力強化を目的とする「戦略支援部隊(SSF)」を設置すると明らかにした。これを受けて、中国は世界各国に次々とSSFを配置してきた。

 SSFには、宇宙、サイバー空間、通信、心理戦略を展開する任務が課せられている。

 これまでに設置したのはアルゼンチン、パキスタン、ケニア、ナミビアの4カ国。それに加えて5つめの基地をキューバにも設置したと米メディアは伝えている。

 米南部フロリダ半島に近いキューバはジョン・F・ケネディ政権下で、旧ソ連が米本土を射程内とする核ミサイルを配備して、「キューバ危機」の恐怖を招いた。

 米民主主義防衛財団のクレイグ・シングルトン上級研究員が『ニューヨーク・タイムズ』への寄稿記事で明らかにしたところによると、キューバの基地には通信傍受設備が設置されたようだ。米偵察衛星の機能を妨害するオペレーションを行う可能性もある。

 また、この基地は「認知戦」の機能を持つとみられる。認知戦では、誤った情報を米国に向けて発信し、世論を混乱させる狙いもあるだろう。

 これまでの米国の対応は遅れており、中国の情報戦略拡大の動きにもっと早く手を打つべきだとシングルトン氏は指摘している。

カテゴリ: 政治 軍事・防衛
フォーサイト最新記事のお知らせを受け取れます。
執筆者プロフィール
春名幹男(はるなみきお) 1946年京都市生れ。国際アナリスト、NPO法人インテリジェンス研究所理事。大阪外国語大学(現大阪大学)ドイツ語学科卒。共同通信社に入社し、大阪社会部、本社外信部、ニューヨーク支局、ワシントン支局を経て93年ワシントン支局長。2004年特別編集委員。07年退社。名古屋大学大学院教授、早稲田大学客員教授を歴任。95年ボーン・上田記念国際記者賞、04年日本記者クラブ賞受賞。著書に『核地政学入門』(日刊工業新聞社)、『ヒバクシャ・イン・USA』(岩波新書)、『スクリュー音が消えた』(新潮社)、『秘密のファイル』(新潮文庫)、『米中冷戦と日本』(PHP)、『仮面の日米同盟』(文春新書)などがある。
  • 24時間
  • 1週間
  • f
back to top