インテリジェンス・ナウ

ロシアの「次の」情報工作にどう対応する:日本の「防諜」態勢に問題

執筆者:春名幹男 2022年7月7日
エリア: アジア ヨーロッパ
モスクワ・ルビャンカのFSB本部。かつてのKGB本部で、ここから様々な工作指令が出されていた(Evgeniy Vasilev@shutterstock)
シベリア抑留者のスパイ化から始まった、戦後の対日情報工作は、ソ連からロシアへと体制が変わっても一貫して続いている。一方、その表面化も事件化も自らの手でできなかった日本。日露関係が厳しさを増す中で、次なる工作への対策を真剣に考える必要がある。

 ロシア西端の国境に接するウクライナと、ユーラシア大陸の東側に位置する日本。そんな地政学的な相似性を反映して、ウクライナではロシア連邦保安局(FSB)と米中央情報局(CIA)が対立、日本では日米対ロシアの激しい情報戦が闘われてきた。

 戦後日本の情報戦で重要な戦場になったのは、舞鶴と函館の港だった。各地からの帰還者が到着した両港で、連合国軍総司令部(GHQ)参謀第2部(G2)傘下の防諜部隊(CIC)が出迎えたのは、多数の「シベリア抑留帰還者」だ。CICが行ったのは、帰国前にソ連の訓練を受けた「スパイ容疑者」をあぶり出す特殊作戦である。

 1954年、突然米国に亡命することになる元ソ連国家保安委員会(KGB)工作員のユーリー・ラストボロフは、シベリア抑留者の中から日本人スパイを選抜する任務を終えた後、駐日ソ連大使館に赴任し、彼らを使って対日情報工作に従事していた。

 こうした情報戦を日ソ情報戦の第1期とすれば、第2期は東西冷戦が膠着化した1970~80年代となる。この間、ロシアがメディア関係者から政治家まで幅広い情報ネットワークを築いた「レフチェンコ事件」や、ソ連が日本のハイテク技術を入手した「東芝機械事件」が表面化した。

 第1期、第2期のソ連スパイ工作に関する情報は、ほとんどが米国経由で伝えられた。しかしそれ以後、ロシアの対日工作で目立った事件が摘発されることはなく、「日本はスパイ天国」などと防諜態勢の問題点が指摘されてきた。

 今後ロシアは、日本政府の制裁に対抗して、サイバー・スパイ工作などさまざまな工作を展開する可能性がある。日本の対露防諜工作が抱える問題について深層を探った。

「誓約引揚者」が続々帰国

 日本現代史で、最も多数の外国スパイが日本に流入したのは、戦後シベリアに抑留されてスパイとして訓練を受け、ソ連への協力を誓約してた元日本兵が帰国した時期である。

 CICは、帰国船が到着する舞鶴と函館で彼らを面接し、日本警察の支援を得て、ソ連への協力を約束した「誓約引揚者」かどうかを判断するために尋問した。このプロジェクトは「スティッチプロジェクト」と呼ばれた。帰還者は数十万人に上ったという。

 名越健郎拓殖大学特任教授によると、その中から352人がソ連スパイと確認され、うち138人が“自分はソ連に対して忠誠を誓ってきた”と告白。さらに32人は帰国後にソ連から働きかけを受けたと供述したという。彼ら1人1人が、帰国後どのような工作をしたかは分かっていない。

 最も有名な帰還者は、1956年に遅れて帰国した元伊藤忠商事会長の瀬島龍三元大本営参謀だろう。警視庁外事課長の経験もある佐々淳行元内閣安全保障室長は、瀬島氏がソ連大使館のKGB関係者と不審な接触をしたことを突き止めた、と著書『私を通りすぎたスパイたち』(文藝春秋、『亡国スパイ秘録』に改題して文春文庫)に書いている。そして、

「ソ連への協力を約束した大物スリーパー(特命を受けて動くスパイ)」

 と佐々氏は断定しているが、事実なら、ブレーンを務めた中曽根康弘元首相とも近い大物スパイ、ということになる。しかし、警視庁は瀬島氏を捜査対象にすることを認めなかった。瀬島氏は山崎豊子作『不毛地帯』(新潮文庫)のモデルとして注目された。

外務省事務官をスパイに

 東西冷戦時代に表面化したラストボロフ事件とレフチェンコ事件はいずれも、CIA対KGBの在日要員によるカウンターインテリジェンス(防諜)の争いだった。

 ラストボロフは1954年1月、個人的理由から突然姿を消し、米大使館に逃げ込んでCIAに保護され、米国に亡命した。

 CIAの「デブリーフィング」で、彼が使った日本人エージェントのうち半分近くはシベリア抑留者だったと供述したという。

 ラストボロフ事件の表面化後、警視庁は、外務省事務官で欧米局の日暮信則、国際協力局の庄司宏、経済局の高毛礼茂の3人を国家公務員法違反で逮捕した。

 高毛礼は「エコノミスト」というコード名を付けられていた。戦前は「北樺太石油」社員として勤務したことがあったが、同社社長を務めた第3次近衛文麿内閣(1941年7月18日~10月18日)の左近司政三商工相(予備役海軍中将)と接触した際、日米開戦の方針を聞いて、KGBの前身「内務人民委員部(NKVD)」のラヴレンチー・ベリヤに報告したと言われる。先に同様の情報をソ連軍参謀本部情報総局(GRU)にリヒアルト・ゾルゲが伝えており、ソ連は日本の対ソ攻撃はないと判断して、大量の部隊をドイツとの戦闘に向けて、西部戦線に移動させた、という。

 ラストボロフ事件の裁判で有罪判決を言い渡されたのは高毛礼だけで、庄司は無罪となった。日暮は、取調中に東京地検の窓から飛び降り自殺した。

 ラストボロフ事件ではまた、元関東軍航空参謀少佐の志位正二ら元軍人6人が警視庁に自首した。志位らは事件発覚後にKGBから自殺を強要され、警視庁に保護を求めた。

事件化しなかった「レフチェンコ証言」

 スタニスラフ・レフチェンコは、1975年に『ノーボスチ通信』の記者を装って来日。政財界や大手マスコミの大物との接触を幅広く続けた。その後1979年に米国に亡命したレフチェンコは1982年7月、米議会秘密聴聞会で、対日工作の内容と約200人もの日本人政治家やジャーナリストら協力者を、一部実名を挙げて証言。その内容が12月に日本に伝わって公表されると、、日本国内は大騒ぎになった。

 レフチェンコが自分の大きな手柄として挙げたのは、運輸相や労働相を歴任した石田博英氏(コード名「フーバー」)の協力で日ソ友好議員連盟を創設したことだった。こうした議連を基点にすれば、日本におけるプロパガンダ工作はやりやすくなる。

 また著書では、コード名「ナザル」という外務省の暗号担当者から、外交文書に関する情報を得ていた、とも書いている。

 証言を受けて警察も捜査に乗り出したが、レフチェンコ自身の供述以外に確たる証拠はなく、刑事事件にはならなかった。

ハイテク入手機関「ラインX」

 1987年に表面化した、東芝の子会社東芝機械による対共産圏輸出調整委員会(COCOM)規制違反事件は、日米貿易摩擦と絡んで、日米間の重大な問題に発展した。ちょうど米議会で審議中の「包括貿易法」に、東芝製品の輸入禁止条項を加えることが可決された。

 東芝機械のモスクワにおけるダミー商社「和光交易」の社員、熊谷一男氏が駐日米大使館に通報したことに始まり、CIAの調査で事実が判明した。

 和光交易は潜水艦のスクリュー音を静粛化するための高度な工作機械をソ連に違法に輸出していた。当時ロナルド・レーガン米政権は、西側からソ連へのハイテク製品輸出を阻止する工作を進めていたところだった。

 KGBのハイテク技術入手を担当する部門「ラインX」の末端が日本にも置かれていたことが、この事件で明らかになった。この事件も米国経由の情報提供で判明した。

「北方領土」で苦悩したソ連

 北方領土問題は、米国が1972年沖縄を返還して以後日ソ関係が後退し、ソ連は苦しい立場に置かれたようだ。

 1983年当時、中曽根政権がロナルド・レーガン政権を支持して日米関係がいっそう緊密になった際、5月末のソ連共産党政治局会議で、ユーリー・アンドロポフ書記長が「対日関係で何らかの妥協」を図るべきだとして、北方領土の共同開発を提案した。

 この議論では、書記長もアンドレイ・グロムイコ外相も北方領土には「戦略的重要性がない」との基本認識で一致した。このやりとりは、米ウィルソン・センターの「冷戦国際歴史プロジェクト」がモスクワで入手した政治局会議記録に記されていたものだ。

 書記長の発言に対し、外相が「歯舞、国後など」に関するソ連外務省の提案(内容不明)を活用するよう主張したが、ドミトリー・ウスチノフ政治局員(国防相)が「非常に小さい島」の論議に限定すべきだと反論。書記長は共同開発にしか関心がないと強調して、議論は発展しなかった。

 当時ソ連外務省は公式的には「日ソ間にいかなる領土問題も存在しない」との立場を取っていたが、内輪の会議ではこんな話もしていたのだ。

 ソ連の末期、ミハイル・ゴルバチョフ書記長が小沢一郎自民党幹事長との間で進めた1990~1991年の「バックチャンネル外交」では、北方領土返還に関連して、総額260億ドル(当時の為替レートで約3兆5000億円)と具体的な対ソ経済支援額が提示されていた。

 しかし、ゴルバチョフ書記長の政治的立場が揺らぎ始めたこともあって、解決策は具体化しなかった。そしてソ連崩壊後も具体的成果は出せなかったのである。

北方領土交渉の裏で微妙な動き

 その後の北方領土交渉では、なぜか日本側が軟化して、譲歩提案を出している。

 1997年、当時の橋本龍太郎首相が提案した対露関係を中心とする「ユーラシア外交」だ。北方領土問題はユーラシア外交の一環として解決するという新しいアプローチだった。

 この提案とほぼ同じ時期に、いくつかの動きが重なった。

 第1に、KGBの国際部門として独立した対外情報局(SVR)の東京支局長に、大物のボリス・スミルノフ氏(ロシア大使館参事官)が1998年に就任したこと。

 第2に、「ユーラシア外交」の立案にかかわった外務省幹部(故人)に、ロシア在勤中の「ハニートラップ疑惑」が指摘されていたことだ。警視総監経験者(故人)が認識していたが、表面化しなかった。

 第3に、1997年、鈴木宗男衆議院議員が北海道開発庁長官に就任、続けて1998~99年に内閣官房副長官を務めたことだ。

 しかし、鈴木氏は2002年、国会でさまざまな不祥事を追及され、逮捕されることになる。

公安の「報復」か

 実は筆者は、着任後のスミルノフ氏に会う機会があった。公安警察のOB氏(仮名X、故人)から、永田町近くにあった新潟料理店での会食に招かれた。日本対外文化交流協会理事、公安調査庁の元部長に加えて、痩身のスミルノフ氏が部下とともに現れた。

 返礼に、とX氏、スミルノフ氏とその部下の3人を外人記者クラブに招いて食事した。その際ロシアの2人の到着が遅いので廊下に出て待っていると、エレベーターから2人が姿を見せた。警視庁外事課刑事とみられる2人の尾行が付いていた。

 食事を始めると、スミルノフ氏は尾行についてぼやいた。「私たちは外交官として来ているのに、尾行が付くと困る」。そして「鈴木氏には、尾行を付けないようにとお願いした」というのだ。これを受け、公安警察は尾行を取りやめた。

 そもそも公安警察は、スミルノフ氏へのビザ発給に反対し、外務省と対立していた。彼は前記レフチェンコの前任者で、1970年代には『ノーボスチ通信』特派員の肩書きで来日したKGB工作員だった。

 2002年に鈴木氏が逮捕された後、X氏と一緒にスミルノフ氏に会ったが、彼は不機嫌で、

「日本はなぜ鈴木さんのようないい人を逮捕するのですか」

と怒っていた。

 まさに鈴木氏自身は自分の逮捕を「国策捜査」と批判していた。

 鈴木氏逮捕に至る一連の動きは、公安側の「報復」だった可能性がある。

絡み合った疑惑の人的関係

 スミルノフ氏が鈴木氏への“依頼”などをあからさまに語ったことからみて、鈴木氏とは決して裏の関係ではなく、「良きパートナー」といった表の関係であろう。

 SVRは恐らく、CIAなどと同じように、秘密の「エージェント」から、時に情報協力を得る「協力者」、さらに「パートナー」などレベルの違う情報源を抱えているとみられる。

 橋本元首相は1998年の参院選で自民党が負けて首相を辞任、結局「ユーラシア外交」に進展はなかった。

 スミルノフ氏は恐らく、「ユーラシア外交」を日本国内で売り込む工作を進め、日本から援助を引き出したいという狙いがあったのだろう。しかし、成果なく彼は2008年、10年にわたる長い東京勤務を終えて帰国した。

 その機会に、筆者を親切にもスミルノフ氏に紹介してくれたX氏の動機を探った。分かったのは、スミルノフ氏が前回の東京勤務の際に情報源にしていたとみられるジャーナリストとX氏が、高校の同級生だったことだ。このジャーナリストは、スミルノフ氏とより近い関係にあったと聞いた。後任のレフチェンコは彼にコード名を付けている。X氏とスミルノフ氏は1970年代から知己だった可能性がある。

 いずれにしても、「ユーラシア外交」を企画した外務省幹部、X氏、さらに先述の瀬島氏と、ロシアとの疑惑の関係などが解明されないまま、今に至っているのはなぜなのか。恐らく、日本側のカウンターインテリジェンス(防諜)態勢に問題があるからだろう。

「2島返還論」で親露派知識人の「応援団」にテコ入れ工作

 安倍晋三元首相は2012年末に政権に返り咲くと、ウラジーミル・プーチン露大統領との首脳会談を重ねた。2014年のクリミア併合後もかまわず会談を続けた安倍元首相に対して、米国は不快感を示したとも伝えられる。

 しかし、安倍氏が米国側の懸念にまったく配慮しなかったことを、プーチン大統領は高く評価したに違いない。スパイ出身のプーチン大統領は人を取り込むのが得意であり、数々のリップサービスを重ねた可能性がある。

 外務省はそんな安倍元首相の対露外交に冷淡だったが、安倍外交を助けたのは、当時の首相秘書官の出身母体・経済産業省で、対露経済協力を進めて「2島先行返還」を、という外交政策を推進したと伝えられている。

 同時にその裏で、大学教授ら専門家で構成される「応援団」は活発に動き、BS放送などの討論番組で、まるでプーチン大統領が歯舞・色丹の2島を返還するのは確実であるかのような主張を続けた。

 これに関しては、彼ら親露派知識人に対して、ロシア側がブリーフィングしていた可能性がある。間接的に聞いた話だと、ある知日派の元ロシア外務省幹部は、2島返還論を支持するある日本の著名な大学教授の名前を挙げて「KGBに洗脳されている」と言ったという。

 しかし、2019年9月ウラジオストクで開催された「東方経済フォーラム」で、

「ウラジーミル。君と僕は同じ未来を見ている」

 と安倍氏は呼び掛けたが、プーチン氏は翌日、

「ロシアが得るものは何もない」

 と突き放した。

 プーチン氏は返還した北方領土に米軍が配備されない約束を求めたと伝えられる。このように見てくると、最初からロシア側には譲歩の意思はなかったことがわかる。

日本だけがスパイならぬ「ロシア外交官追放」

 日本政府は今年4月、ウクライナ侵攻の対抗策としてロシア「外交官」8人を国外追放した。欧米各国の措置と合わせて、計400~500人が国外追放されたとみられる。

 しかし欧米諸国は、追放したのは外交官ではなく「スパイ」だと明らかにしている。「ロシア・スパイ網の崩壊」と報道した海外メディアもあった。

「日本は、スパイ追放と発表すれば、スパイでない者も混ざっていて間違う可能性があると恐れているからだ」

 と在京国際情報筋は指摘した。

「昔はリヒアルト・ゾルゲの愛人、石井花子さんが多磨墓地に建てたゾルゲの墓を訪れるロシア外交官をKGB要員と判断していた」

 と元警察庁高官も前近代的なスパイ確認の慣例があったことを認めた。やはり、防諜態勢の強化が必要なのだろう。

 

カテゴリ: 政治 社会 軍事・防衛
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執筆者プロフィール
春名幹男 1946年京都市生れ。国際アナリスト、NPO法人インテリジェンス研究所理事。大阪外国語大学(現大阪大学)ドイツ語学科卒。共同通信社に入社し、大阪社会部、本社外信部、ニューヨーク支局、ワシントン支局を経て93年ワシントン支局長。2004年特別編集委員。07年退社。名古屋大学大学院教授、早稲田大学客員教授を歴任。95年ボーン・上田記念国際記者賞、04年日本記者クラブ賞受賞。著書に『核地政学入門』(日刊工業新聞社)、『ヒバクシャ・イン・USA』(岩波新書)、『スクリュー音が消えた』(新潮社)、『秘密のファイル』(新潮文庫)、『米中冷戦と日本』(PHP)、『仮面の日米同盟』(文春新書)などがある。
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