インテリジェンス・ナウ

「スパイ気球」に画期的な情報収集能力:習近平主席肝いりのプロジェクトで開発

執筆者:春名幹男 2023年2月17日
エリア: アジア 北米
米サウスカロライナ州沖で回収された、中国のスパイ気球の残骸[米海軍提供](C)AFP=時事
米軍が撃墜した中国「スパイ気球」は、軍現代化の一環として習近平主席が力を入れるプロジェクトだとされる。高高度空域をめぐる情報戦が激化し、2001年の米中軍用機接触事件のような偶発的衝突が発生する恐れもある。

 

 どんなインテリジェンス工作でも、「情報源(ソース)」と「方法(メソッド)」の露見を避けるのが鉄則だ。

 では、1月28日から8日間も米国の領空を侵犯し、2月4日に米空軍戦闘機に撃墜された中国の偵察気球はどうだったか。地上から肉眼で目撃されるほど大型の気球は、秘密工作の「メソッド」とはなり得ないだろう。米メディアでは「ドローンや偵察衛星の時代に気球が役に立つのか」と揶揄され、撃墜されると「中国のぶざまな象徴」と論評された。

 しかし、そんな認識はもはや通用しない。中国の気球は知らぬ間に画期的な情報収集能力を持つ「飛行船」に発展していたのだ。この飛行船は通常の戦闘機では到達できない高高度も飛行できる。

 2月7日付『ワシントン・ポスト』(電子版)の特ダネ報道が、小規模なスプートニク・ショック(1957年)のような驚きをもたらした。スプートニクとは、旧ソ連が打ち上げた世界初の人工衛星だ。中国の偵察気球は「大規模な偵察プロジェクト」として、すでに世界40カ国で展開している実態が表面化したというのだ。

 実は習近平国家主席の肝いりで2015年に創設された中国軍「戦略支援部隊」が、軍事的には過去の遺物とされていた気球にハイテク技術を装備して、巧みに利用したものだ。数年間で少なくとも4回、米国のレーダー網をかわし、情報収集していた。

 米軍は事件の発覚後、レーダーの感度を強化したことから、正体不明の飛行物体が次々探知可能となったようだ。10日にアラスカ上空、11日にカナダ上空、12日に五大湖の1つヒューロン湖上空で、発見した飛行物体を米軍機が撃墜した。

これを契機に長距離・高高度に展開する高性能の気球開発競争が米中間で激化するのは必至。次に気球が日本に飛来して、「撃墜」の是非をめぐり東アジア情勢が大きく揺らぐ恐れもある。

対米強硬派の陰謀説も

 今回、問題の気球を米国民が初めて見つけたのは、2月1日、米北西部モンタナ州上空にさしかかった時だ。大陸間弾道ミサイル(ICBM)基地に近い同州ビリングズの一般市民が見つけた。家からライフルを持ち出し、発射しようとして止められた者もいたという。

 ここに至るまで、気球は1月28日にアリューシャン列島の防空識別圏に入り、アラスカを横断して30日に一時カナダ領空を侵犯、31日に米アイダホ州上空に入った。ホワイトハウスによると、この時点でジョー・バイデン米大統領は初めて気球について説明を受け、撃墜を指示したが、ロイド・オースティン国防長官らが「破片の落下で市民に危害の恐れ」と指摘し、断念したという。

 2月1日、国務省のアントニー・ブリンケン長官とウェンディ・シャーマン副長官が駐米中国大使館の幹部と意見交換したが、結論は出なかった。

 全米には翌2日に『NBCニュース』が報道。パトリック・ライダー米国防総省報道官が「商業機のずっと上を飛行していて、地上の人々には軍事的・物理的脅威にはならなかった」と述べた。

 3日、中国外務省は「飛行船は気象観測気球で、予定のコースから逸れて米国(領空)に誤って入り、遺憾だ」との声明を発表、中国の気球と認めた。この時点では米中間に対立はなかった。中国側が「米国の気球は昨年から10回以上も中国領空を侵犯している」(13日、中国外務省)などと応酬するのは、後のことだ。

 他方、ブリンケン米国務長官は訪中への出発予定の数時間前、中国外交トップの王毅共産党政治局員(前外相)に電話して「偵察気球が(訪中の目的を)損ねた」と訪中延期を告げた。気球はカンザス、ミズーリ両州をへて、4日サウスカロライナ州の大西洋岸に出たところで、米空軍のF22戦闘機が赤外線誘導サイドワインダーAIM9Xミサイルを発射し、撃墜した。

 気球の米国横断後になってバイデン大統領が撃墜指令を出したことに対して、野党共和党から「機密施設を見せてしまった」などと非難が集中した。

 またCIA(米中央情報局)情報に詳しい『ワシントン・ポスト』のコラムニスト、デービッド・イグナシアス氏は気球の米領空侵犯を「ミステリー」だとして、「インテリジェンス分析官らは、中国軍あるいは指導部の強硬派がブリンケン訪中を意図的に妨害しようとしたとみている」との陰謀説を紹介した。

気球は安く、徘徊して詳細情報を得る

 しかし、2月7日付『ワシントン・ポスト』のスクープ報道で状況は一変した。

 実は米インテリジェンス機関は、中国軍の偵察気球に関する情報を蓄積していたというのだ。ドナルド・トランプ前政権の時代から、ハワイ、フロリダ、テキサス、グアムと4回にわたって、気球の飛来が探知されていた。

 このうち、昨年6月にハワイ沖で墜落した中国気球からは、残骸を分析して貴重な情報を得ていた。さらに4日に撃墜された気球に対しては、U2偵察機を接近させ、気球の外部に装備した機器をつぶさに点検した。

 U2の調査の結果では、電気光学センサーあるいはデジタルカメラを搭載し、解像度によっては高度に詳細な画像を捉えていることが分かった。また無線信号や人工衛星への伝送能力を持つ気球もあった。

 また、偵察気球にはMASINT(計測・特性情報)を測定する能力を持つ計器を搭載しているものもあった。MASINTには、レーダー情報や電磁波信号に関する情報も含まれる。中国軍事情報機関は、目的によって搭載する機器を取り替えている可能性がある。

 通常、気球より人工衛星の方が多くの情報を収集することができる。しかし、気球にはいくつか有利な特性がある。人工衛星は周回ごとに、特定の目標をわずか数分間しか写真撮影ができない。だが気球の場合は遠隔操縦ができるうえ、必要に応じて高度を変えられ、場合によっては何時間も上空を徘徊して詳細かつ鮮明な画像を得ることが可能だ。高高度で風を受けて、動きが一定しないため、追跡するのは難しい。さらに気球の表面が金属ではないためレーダーで探知するのが難しいといった特性もある。しかもコストが安く、撃墜されても代替機の調達がしやすい。

 サウスカロライナ州沿岸で撃墜した気球の残骸はバージニア州クアンティコにある連邦捜査局(FBI)の研究所に運ばれ検査中で、さらに詳しい性能が判明する可能性がある。

中国軍「戦略支援部隊」が運用

 中国は5大陸の約40カ国を対象に、気球を使った情報活動をしており、既に大量の情報を入手したとみられる。だが、その具体的な被害実態は知られていない。

 ただ最も大きい被害を受けていると想定されるのは台湾で、最も警戒しているのも台湾に違いない。

『ニューヨーク・タイムズ』は台北発で、気球を使った情報工作の実行機関は、習主席が軍の現代化の一環として設置した「戦略支援部隊」だと報じている。

「インテリジェンス能力拡大」を掲げて、2015年に発足した戦略支援部隊は、電子偵察やサイバー工作、偵察衛星の管理、深海艇の運用も担当しているという。

 気球は「偵察用飛行船」として、「電子スパイシステム」の一部とされている。中国共産党中央軍事委員会機関紙『解放軍報』は2018年、前年に生きたカメを乗せた気球を高度1万9200メートルまで飛行させたとの記事を掲載したという。

 台湾の専門家によると、気球はレーダー波を反射しないために撃墜が難しく、「だから米国はベストの戦闘機F22を使って、ベストのミサイルを発射した」と指摘されている。

 中国は「インテリジェンス・監視システムの核」として260個以上の人工衛星を維持しているが、それに優れた特性を持つ気球もあわせて利用する戦略とみられる。

世界初、高度2万メートルで気球飛行

「戦略支援部隊」が運用するまったく新しい「偵察気球」の研究開発を担った中心的な科学者は、北京航空航天大学の武哲教授だ。武教授はこれまで、戦闘機の設計、ステルス素材の開発などに携わり、中国軍から勲章を授与された。

 中国軍の戦略担当官らは、ほとんどの戦闘機などが到達できない高高度2万~10万メートルの成層圏での大国間の対立が激しくなるとにらんで、必要な新素材や技術の開発を推進。武教授には、この空域帯での情報収集活動を可能とする偵察気球の開発を依頼したとみられる。

『ニューヨーク・タイムズ』によると、2019年7月に武教授は長さ約90メートル、重さ数トンの気球を、世界で初めて、高高度2万メートルの成層圏に打ち上げることに成功した。航空力学的にコントロールされた形でこの高度での飛行船の飛行はそれまで例がないという。

 武教授の研究開発には、いくつかの中国企業も参画したという。その中に、後述する米商務省の輸出管理措置の対象となった企業も含まれるようだ。

 今後、米国もこれに対抗し、高高度の空域をめぐる軍拡競争が起きる可能性がある。

米大統領選を前に強硬策も

 米国は中国の偵察気球開発を抑止するため、まず輸出管理に手を付けた。米商務省は2月10日、気球製造に関わったとみられる中国の航空技術企業5社と研究所1カ所への技術輸出を制限する措置を発表した。

 2月6日には、シャーマン国務副長官が米国の同盟国・友好国計約40カ国の150人の駐米外交官を集めて、偵察気球を使った中国の情報活動について説明した。米国は今後、対中制裁措置をめぐっても、関係諸国に協力を求める可能性がある。

 同時に、米軍側も偵察機による南シナ海での情報収集活動を継続し、監視を強化する中国側との間で、偶発的衝突の可能性が高まる可能性が懸念される。

 2001年4月、米国家安全保障局(NSA)が運用する情報収集機EP3が、南シナ海で中国の迎撃戦闘機J8と空中接触。J8は墜落、EP3が海南島に不時着し、機内の情報を中国側に取られる事件があった。この時は双方が自制し偶発的事態には発展しなかった。

 しかし、来年の米大統領選挙を前にして、米側も強硬策を強める可能性がある。偶発的な危機回避のためには、予定されていた米中外相会談を可能な限り早く、仕切り直して実現する方法を探る必要があるだろう。

 

カテゴリ: 政治 軍事・防衛
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執筆者プロフィール
春名幹男(はるなみきお) 1946年京都市生れ。国際アナリスト、NPO法人インテリジェンス研究所理事。大阪外国語大学(現大阪大学)ドイツ語学科卒。共同通信社に入社し、大阪社会部、本社外信部、ニューヨーク支局、ワシントン支局を経て93年ワシントン支局長。2004年特別編集委員。07年退社。名古屋大学大学院教授、早稲田大学客員教授を歴任。95年ボーン・上田記念国際記者賞、04年日本記者クラブ賞受賞。著書に『核地政学入門』(日刊工業新聞社)、『ヒバクシャ・イン・USA』(岩波新書)、『スクリュー音が消えた』(新潮社)、『秘密のファイル』(新潮文庫)、『米中冷戦と日本』(PHP)、『仮面の日米同盟』(文春新書)などがある。
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