ナチス政権下で潜伏ユダヤ人とドイツ市民はなぜ助け合えたのか

司馬遼太郎賞受賞記念対談(前編)

執筆者:岡典子
執筆者:三牧聖子
2024年2月8日
エリア: ヨーロッパ
左から三牧聖子氏、岡典子氏(撮影・菅野健児〔新潮社写真部〕)

 「敵と味方」「加害者と被害者」という立場を超えて、人間同士が助け合う姿を描いた『沈黙の勇者たち ユダヤ人を救ったドイツ市民の戦い』(新潮選書)が、第27回司馬遼太郎賞を受賞した。同書著者の岡典子氏(筑波大学教授)と、三牧聖子氏(同志社大学准教授)による記念対談をお届けする。

イスラエル国連大使が着けた「ダビデの星」

三牧 この度は司馬遼太郎賞受賞、おめでとうございます。岡さんが書かれた『沈黙の勇者たち ユダヤ人を救ったドイツ市民の戦い』は80年前のナチス統治下でのユダヤ人たちの生き延びるための闘いとそれを助けた市井のドイツ人の姿が描かれていますが、その中で黄色い「ダビデの星」の話が出てきますね。

 最近、このシンボルを再び目にすることがありました。去年の10月、イスラエルのギラド・エルダン国連大使が、国連安保理の公開会合での演説中に、スーツの胸に黄色の「ダビデの星」を自ら着けて登場したのです。昨年10月7日にイスラム組織のハマスがイスラエルを越境攻撃し、1200人超を殺害し、200人を超える人質を取りました。

 その後、イスラエルはまずはガザ北部、その後ガザ全域で大々的な軍事作戦を展開し、この対談を行っている今の時点で2万を優に超えるパレスチナ市民が犠牲になり、国連でもイスラエルへの国際的な批判が高まっていました。エルダン大使は、イスラエルの軍事行動の正当性を主張するため、このようなパフォーマンスに及んだのです。

 もともと、19世紀末から20世紀前半のドイツは、ヨーロッパのなかでもっともユダヤ人の同化が進んだ国でした。けれども、ヒトラーが政権を掌握すると状況は一変し、「ダビデの星」はユダヤ人を識別し、貶めるための標識として使われるようになっていきます。

 たとえば、ナチスが政権を掌握してからわずか2ヶ月後の1933年4月1日に、ドイツ各地で大規模なユダヤ人排斥行動が起こりました。ユダヤ人経営の商店や医師、弁護士がボイコットされたのですが、このときユダヤ人所有のあちこちの建物や住居で「ダビデの星」がペンキで落書きされています。

三牧 「ダビデの星」は、本書のなかでも象徴的に描かれています。たとえば、ユダヤ人迫害のさなかにあった1942年、ひとりのユダヤ人女性が胸に黄色い「ダビデの星」を着けて強制労働先の工場に通う場面があります。ここでの「ダビデの星」は、まさに差別や迫害の象徴です。さらに「ダビデの星」は、本書の終わりのほうにも登場します。

 終戦直後のドイツで、生き延びたユダヤ人男性が進駐軍の行進を見物に行くのですが、このとき男性が身に着けていたのも「ダビデの星」でした。ただし、その男性が身に着けていたのは、ナチスに強制された黄色い星ではなく、のちにイスラエル国旗となる白地に青の星であり、彼は自分の意思でそれを身に着けていました。この場面の「ダビデの星」には、生き延びたユダヤ人たちの民族の誇りが表れていると感じました。

 歴史を遡ってみると、ドイツに居住していたユダヤ人たちは、第一次世界大戦終結後の1919年には、すでにドイツ人と同等の市民権・公民権を憲法で保障されるようになっていました。それから十数年後にヒトラーが政権を握ったときには、ユダヤ人とドイツ人の間の結婚が進んでいたこともあり、ユダヤ教徒のユダヤ人はわずか50万人でした。

 当時、ドイツの総人口は6500万人でしたから、ユダヤ人はそのうちの1%にも満たない少数者です。しかも彼らの多くは、ドイツに忠実な愛国者でした。もし、その後12年にも及んだナチスの時代さえなければ、おそらくユダヤ人はドイツ国民として、この国に溶け込んでいったことでしょう。

三牧 イスラエルという国を理解するうえで重要なのは、イスラエル人は、ホロコーストという集合的な「犠牲者としての記憶」を常に確認し、国家的なアイデンティティーとしてきたことです。もっともこの「犠牲者としてのアイデンティティー」は、必ずしも未来の惨劇を防ぐ方向には作用してきませんでした。

 現在のガザ危機でも、すでにイスラエルの軍事行動は、ハマスによって殺されたイスラエル人の10倍、さらには20倍ものパレスチナ市民の命を奪おうとしていますが、イスラエルは自らを加害者として認識してすらいない。ホロコーストという未曾有の虐殺の「犠牲者としてのアイデンティティー」が、自らのパレスチナ人への加害行為を見えなくしてしまうのです。

 しかし、本書に登場するユダヤ人は、「犠牲者」にとどまらない多様な顔を持っています。抵抗のために自ら潜伏ユダヤ人になる道を選んだ人。ドイツ人に助けられるだけでなく、終戦間近には、逆にドイツ人を助ける立場になる人。集団としては命を奪おうとする側/奪おうとされる側という絶対的な非対称性があるドイツ人との関係において、それでも互助的な関係を構築したユダヤ人が少なからずいた。

 本書は、イスラエルのガザ侵攻やロシアのウクライナ侵攻など、国家や集団レベルの対立や戦争が各地で起きている世界にあって、そうした対立を、人間同士のつながりで乗り越えていくための一つの希望を提示していると感じました。

 今日の国際情勢も、非常にセンシティブでむずかしい問題を抱えていますね。私も本書について、ある読者の方から「今のユダヤ人は、ガザで虐殺をしているではないか。それなのに、あなたはそのユダヤ人を犠牲者、被害者として取り上げるのか」と問われたことがあります。

三牧 ガザの惨状を見て、そのような反応をしてしまう人がいるのも理解できなくはないですが、そのような見方は、本書の核心的なメッセージを捉え損ねていますね。

 本書には、潜伏ユダヤ人とドイツ人が極限状態の中でともに過ごすうちに、「ユダヤ人」と「ドイツ人」、「被害者」と「加害者」、「救いを求める弱者」と「救援者」といった二項対立が揺らいでいき、人が人として互いを支え合うことができるという事実が描かれているのですから。

「弱さ」と「強さ」は表裏一体

三牧 岡さんは、もともとは音楽大学の出身なんですね。その後、筑波大学で障害者教育史を研究し、『視覚障害者の自立と音楽 アメリカ盲学校音楽教育成立史』(風間書房)という御著書も出されて、さらに、このようなドイツ史研究もされるようになった。どのような経緯があったのでしょうか。

 私は3歳のときにピアノ、14歳でフルートを始めました。小学校高学年くらいからはずっと音楽漬け、練習漬けの生活を送り、大学でもフルートを専攻しました。でも、大学4年になった頃から、腱鞘炎が徐々に悪化してしまい、長時間の練習に耐えられなくなりました。大学を卒業する頃には、楽器どころか箸や鉛筆をもつのも痛いような状態でした。

 毎日の練習ができなければ、それ以上音楽を続けていくことはできません。色々な思いや迷いもありましたが、29歳のときに、新たな道を求めて筑波大学の大学院に入学し、障害者教育の研究を始めました。障害者教育に関心をもった理由はいくつかありますが、直接のきっかけになったのは、障害のある方との交流だったかもしれません。

 大学卒業後、何年か自宅でピアノやフルートを教える仕事をしていましたが、生徒さんのなかに、私と同年代の視覚障害の女性がいました。それに、母が障害者施設でボランティア活動をしていたこともあって、私も中学生の頃から母と一緒にときどき活動に参加していました。施設のクリスマス会や文化祭では、いつもピアノを弾いたり、フルートを聴いていただいたりしていました。

 そうした経緯もあり、思春期の頃から、私にとって障害のある方々は、人生とは何か、人が生きるために大切なものとは何かを教えてくれる存在だった気がします。大学教員になってからは、主にアメリカをフィールドとして研究を続けてきましたが、障害者の歴史を専門とする者にとって、20世紀前半の欧米諸国を席巻したいわゆる「優生思想」は外すことのできないテーマです。この優生思想について調べていくうちに、ナチスドイツの障害者政策やユダヤ人政策の問題に突き当たり、そこから本書の構想が生まれました。

三牧 ナチスやホロコーストの問題は、倫理的に極めてセンシティブなトピックであり、論じるには高い専門性や知識、そして感受性が求められます。たとえば私のように、ドイツを専門にしていない外部者が論ずるにはハードルが高い印象もあります。他方、普遍的な倫理問題を内包するトピックだからこそ、多くの人々に議論を開いて、ともに考えていくことが大事でもありますね。

 そうですね。ただ私の場合は、日本人だからということもあり、たとえばドイツの研究者などに比べれば、少し距離を置いて客観的に発信することが許される立場なのかなとも感じています。

 ナチス時代のさまざまなテーマのなかで、今回私が潜伏ユダヤ人に着目したのは、人間が極限状態に追い詰められたとき、どのように考え、どう行動するのかを知りたいと考えたからです。とくに、強い立場にある一握りの政治家や著名人ではなく、何の後ろ盾ももたない民衆……社会で弱い立場に置かれた一個人が何を考え、どう振る舞うのかを突き止めたいと思いました。

三牧 本の中では、ユダヤ人を匿うドイツ人の障害者たちも登場しますね。障害者の人たちもナチスドイツの統治下で、ひどい扱いを受けたわけで、彼らにとっては同じく迫害にさらされるユダヤ人を保護することは、ナチスに対する精一杯の抵抗だった。

 ユダヤ人も障害者もナチスドイツでは、「弱者」で「犠牲者」でした。しかし、お互い助け合う中で、誰が「弱者」なのか分からなくなっていきます。そして後世の私たちから見れば、自分も極限的な状況にあって人を救おうとする彼らは、紛れもなく「強い」存在である。「弱さ」と「強さ」の関係の転倒も、本書の魅力です。

 「アンネの日記」や「シンドラーのリスト」など、ナチス統治下のユダヤ人を描いた作品はこれまでにも数多く存在してきましたが、従来のユダヤ人救援の物語では、助ける側の勇気あるドイツ人と、助けられる側の弱々しいユダヤ人という図式が一般的でした。

 確かに、大きな状況としてはそうだったでしょう。けれども、実際の人間同士の関係はもっと複雑で、もっと生々しいものだったと想像します。しかも何年にも及んだ潜伏生活の困難さ、凄絶さから考えても、決してそのような単純な関係性だけで成り立っていたはずはないと思います。

極限状態での人間が見せる多様な姿

三牧 一方、元弁護士のフランツ・カウフマンのように、総勢で四百人あまりの救援者ネットワークを構築したような例もあります。ナチスの狂気ともいえる監視体制下で、このような精緻な組織を作り上げたことにまず驚かされます。

 彼は、自宅を偽造証明書の取引場所に使っていたのですが、最終的にゲシュタポに捕まり、強制収容所で射殺されてしまう。こうした危険を犯しながら、ユダヤ人救出活動に関与し続けた理由として、カウフマンは「彼らを助けたのは彼らがユダヤ人だったからではありません。助けを必要とし、怯えている人間だからなのです」と答えています。

 これは本書に出てくる多くの救援者の心情を代弁するような、印象的な言葉であり、希望を抱かせる話です。人間はユダヤ人だという理由だけで、その人の命を奪う残酷さを備えていますが、その一方で、その人がユダヤ人でも誰でも、救いを求める人がいれば助ける慈悲や博愛の心も持っている。

 美談だけではなく、ナチスに協力するユダヤ人のスパイもいました。自らが逮捕された後、ゲシュタポの指示のもとでユダヤ人同胞の逮捕に協力する「捕まえ屋(グライファー)」です。1940年代前半のドイツには、ベルリンだけで少なくとも30人くらい「捕まえ屋」がいたと考えられています。彼ら「捕まえ屋」は他の潜伏ユダヤ人ユダヤ人をゲシュタポに売ることで、自分や家族の身を守ろうとしました。

 極限状態では、すさまじい足の引っ張り合いも含めて、人間の本当の姿が現れてくる。これは80年前のドイツに限らず、いつの時代にも、あるいは地球上のどの場所でも、人間の営みとして現に存在してきたのだろうし、今もあることなのだと思います。

三牧 本書は「捕まえ屋」を単なる「悪人」として描くことなく、ニュアンスある描き方をしています。実際、目撃した同胞をわざと見逃したり、自分の立場だからこそ得られるゲシュタポの捜査情報をユダヤ人に伝えてやることもあったとのことですね。

 また、救援者となったドイツ人も、必ずしも「聖人」としてのみ描かない。ユダヤ人を助けたら自分が危なくなるのに、人を助けたいという素朴な思いやキリスト的信条から救いの手を差しのべた人もいれば、金銭的な見返りを目当てにユダヤ人を助けた人もいた。

 救う側も、救われる側も、その姿はほんとうに多様です。

三牧 すべてを奪われ、逃げる身となっても、かつて裕福だったときのことを忘れられないユダヤ人もいましたね。偽造した身分証明書の職業が「ホテル客室係」と書かれていることが気に入らず、苦情を訴えにきたユダヤ人の年配女性が印象的でした。

 当時のドイツは階級社会でしたからね。ユダヤ人のなかには、経済的な成功を収め、ナチスが台頭するまでは裕福な生活を送っていた人たちも多かった。今、三牧さんが仰ったユダヤ人年配女性も、社会的地位の高い夫をもち、裕福に暮らしてきた人物でした。

 かつての身分に対するプライドを捨てられなかった彼女にとっては、身分証明書を提供してくれた貧しいドイツ女性への感謝よりも、自分が卑しい身分の者とみなされる屈辱のほうが深刻な問題だったのです。

 このエピソードには、人間のもつある種のリアルな心理が表れていると思います。この夫人に限らず、生き延びたユダヤ人たちのエピソードを丁寧に追っていくと、彼らは必ずしも助けてくれた人全員に感謝しているわけではないことがわかります。なかには、感謝どころか、助けてくれた相手を嫌悪するケースさえあります。

 その理由はさまざまですが、相手のちょっとした態度や発言が不愉快だったり、自分の望み通りの行動をとってくれなかったりすると、感謝よりも不快感が先に立つ。これもまた、人間の自然な姿だと思います。

三牧 目の前に、自分が助けなければ死んでしまう人がいる、そうした心情以上の裏付けがない関係性にあって発揮される善意、そうした見ず知らずの相手の善意を信じて相手の庇護下に飛び込む勇気など、どの話にも心を動かされますが、終戦後、生き残ったユダヤ人がどうしたのかという「アフター・ストーリー」も興味深く拝読しました。

 散々な目にあったドイツにはもう住めないと、戦後はアメリカやイギリスなどに移住した人もいれば、ドイツにそのままとどまった人、新国家建設のためイスラエルへ向かった人もいました。その後の軌跡も様々です。

三牧 陰鬱な体制下にあっても、個々のドイツ人の心までもが体制に支配されてしまったわけではなく、良心を発揮したケースもあったという事実には、人間も捨てたものではないな、再び希望を賭けてみよう、という気持ちにさせられます。こうした歴史的な事実を発掘したのは、ドイツ人なのでしょうか。

 いいえ、ユダヤ人です。終戦後早い時期から、生き延びたユダヤ人たち……中心となったのは、ナチス政権成立後、比較的早い時期に国外に逃れた人々でしたが、彼らが地道に同胞たちの情報を収集し、ドイツ人救援者の存在を記録し続けたのです。本書にも書いた通り、ユダヤ人救援は戦後も長い間、ドイツ国内では口外しにくい、センシティブな問題であり続けてきました。何十年もの時を経て、ようやく研究として日の目を見るようになってきたのです。

 ドイツ国内外に広く「沈黙の勇者」の存在を伝えた最大の功労者は、本書にも登場するインゲ・ドイチュクロンというユダヤ人女性です。青春期をナチスの迫害のもとで過ごした彼女は、戦後ジャーナリストとなり、2022年に99歳で亡くなるまで「沈黙の勇者」たちの存在をドイツ国内外に発信し続けました。

 彼女の戦後の生き方を決定づけたのは、狂気の時代にあっても人間性を失わず、自分たちを救ってくれた幾多のドイツ市民がいたという事実でした。命を救われた者として、自分には、生涯をかけて彼らの功績を伝えていく義務がある。彼女はそう考えたのです。立場を超えて、人間が人間を支え合う姿を追い続けた彼女の仕事は、私が本書を書く上でも大きな道標となりました。

(後編「ガザで繰り返される悲劇をいかに受け止めるか」につづく)

 

※この対談は、岡典子『沈黙の勇者たち ユダヤ人を救ったドイツ市民の戦い』(新潮選書)の司馬遼太郎賞受賞を記念して行われたものです。

カテゴリ: 社会
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執筆者プロフィール
岡典子(おかのりこ) 筑波大学人間系教授。1965年生まれ。桐朋学園大学音楽学部演奏学科卒業。筑波大学大学院一貫制博士課程心身障害学研究科単位修得退学。博士(心身障害学)。福岡教育大学講師、東京学芸大学准教授などを経て、現職。専門は障害者教育史。著書に『視覚障害者の自立と音楽 アメリカ盲学校音楽教育成立史』(風間書房)、『ナチスに抗った障害者 盲人オットー・ヴァイトのユダヤ人救援』(明石書店)。
執筆者プロフィール
三牧聖子(みまきせいこ) 同志社大学大学院グローバル・スタディーズ研究科准教授。国際関係論、外交史、平和研究、アメリカ研究。東京大学教養学部卒、同大大学院総合文化研究科で博士号取得(学術)。日本学術振興会特別研究員、早稲田大学助手、米国ハーバード大学、ジョンズホプキンズ大学研究員、高崎経済大学准教授等を経て2022年より現職。2019年より『朝日新聞』論壇委員も務める。著書に『戦争違法化運動の時代-「危機の20年」のアメリカ国際関係思想』(名古屋大学出版会、2014年、アメリカ学会清水博賞)、『私たちが声を上げるとき アメリカを変えた10の問い』(集英社新書)、『日本は本当に戦争に備えるのですか?:虚構の「有事」と真のリスク』(大月書店)、『Z世代のアメリカ』(NHK出版新書) など、共訳・解説に『リベラリズムー失われた歴史と現在』(ヘレナ・ローゼンブラット著、青土社)。
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