ロシアの反体制指導者、アレクセイ・ナワリヌイ氏が2月16日に北極圏の刑務所で急死した後、ユリア夫人(47)は「夫の遺志を継ぐ」と反プーチン運動の先頭に立つ意向を表明した。
「普通の主婦」を標榜していたユリア氏は次第に夫の活動を支援するようになり、「ロシア野党のファーストレディー」と呼ばれた。しかし、亡命生活での活動は容易ではなく、5選を決めた鉄壁のプーチン体制は揺るぎそうもない。
とはいえ、男性活動家が次々投獄される中、今後は女性が反プーチン運動の中核を担う可能性がある。人口比で男性より圧倒的に多いロシアの女性が、独裁体制に風穴を開けられるかが注目点だ。
「普通の主婦」が大統領に
普通の主婦が夫の弔い合戦に勝利して政権を奪取した例は、1980年代のフィリピンでフェルディナンド・マルコス大統領の独裁体制を倒したコラソン・アキノ元大統領が知られる。
1983年8月、野党指導者だったベニグノ・アキノ元上院議員が帰国直後、マニラ国際空港の滑走路で軍幹部に銃殺されると、コラソン氏は亡命先の米ボストンから5人の子供を連れて帰国した。
当時、時事通信のバンコク特派員だった筆者はマニラで取材したが、帰国直後に自宅で深夜の記者会見に臨んだ夫人は「棺の中の夫は微笑んでいた」と述べ、涙を見せず、静かな闘志を燃やした。夫人は頭部の銃弾痕が残る遺体を一般公開した。10日後の葬儀には推定200万人が葬列を見送り、社会に反マルコス機運が充満した。その翌日、ソ連軍戦闘機がサハリン領空を侵犯した大韓航空機を撃墜、269人が死亡する事件が発生し、メディアの関心はソ連に移った。
夫人は86年2月の大統領選に出馬。マルコス大統領との一騎打ちとなったが、政権の得票不正操作が判明し、数百万の民衆が決起。軍指導部も寝返って野党に加担し、マルコス大統領は米ハワイへ亡命、コラソン氏が大統領に就任した。その背後でレーガン米政権が動き、無血革命をアレンジした。
日本人が好む浪花節的な政権奪取劇は、「ピープル・パワー革命」と大々的に報道され、コラソン氏は86年、米誌「タイム」の「パーソン・オブ・ザ・イヤー」に選ばれた。
カリスマと魅力を持つ人物
ウラジーミル・プーチン大統領のスピーチ・ライターから反体制派に転じたアッバス・ガリャモフ氏はブログで、ユリア・ナワリナヤ氏について、「政治家の妻から政治家になり、カリスマと魅力を持ち、夫にとって代わり得る人物」とし、反マルコス運動の先頭に立ったコラソン氏に似ていると指摘した。
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