国際人のための日本古代史 (34)

なぜ百人一首には「駄歌」が多いのか

執筆者:関裕二 2013年1月8日
タグ: 日本

 正月といえば、小倉百人一首(以下、百人一首)を思い浮かべる。かつてのように、一般の家庭で百人一首を楽しむ機会は減ったが、初春の風物誌として、競技カルタの様子が、テレビで流される。一見、雅なイメージの百人一首だが、実は大きな謎を秘めている。

 

歌聖・藤原定家が編んだのに……

 百人一首は、藤原定家による私撰和歌集で、嘉禎元年(1235)ごろ成立した。鎌倉幕府が勢いを得る一方で、朝廷の権威が凋落していく時期だ。

 百人一首は、天智天皇から後鳥羽院の子・順徳院にいたる百人の歌を一首ずつ集めたものだ。蓮生入道(れんしょうにゅうどう、宇都宮頼綱。もと鎌倉幕府の御家人)の依頼を受けた藤原定家が、嵯峨・小倉山の山荘(京都市右京区)の襖障子に色紙形を書いて並べたものだ。カルタ遊びとなって普及したのは、江戸時代のことだ。

カテゴリ: カルチャー
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執筆者プロフィール
関裕二(せきゆうじ) 1959年千葉県生れ。仏教美術に魅せられ日本古代史を研究。武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー。著書に『藤原氏の正体』『蘇我氏の正体』『物部氏の正体』、『「死の国」熊野と巡礼の道 古代史謎解き紀行』『「始まりの国」淡路と「陰の王国」大阪 古代史謎解き紀行』『「大乱の都」京都争奪 古代史謎解き紀行』『神武天皇 vs. 卑弥呼 ヤマト建国を推理する』など多数。最新刊は『古代史の正体 縄文から平安まで』。
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