
「王仏冥合」(おうぶつみょうごう)という4文字に、公明党と支持母体の本質が凝縮されている。1964年11月の公明党の結党宣言に盛り込まれていた言葉である。この言葉の解釈は、その後の国会審議や政府に対する質問主意書などでも様々に取り上げられ、宗教政党の存在が憲法の政教分離原則に反するか否かが長く議論されてきた。まだ公明党が野党の側にあり、いわゆる社公民(社会党・公明党・民社党)で自民党支配に物申すという55年体制下での話だった。
「公明党は創価学会の国教化が目的」といった批判が繰り返されたが、公明党・創価学会側は「全く誤った解釈だ」「王法というのは世の中の様々な現象を指すものであり、それと仏法の精神を合致させるという人間尊重の理念に過ぎない」と抗弁し続けた。
しかし、池田大作氏は1960年に創価学会第3代会長に就任する前から、政治関与に凄まじい執着を見せ、そのために必要な数を集める「広宣流布」に邁進し続けた。池田体制を盤石なものにするための方法が、会員集めの「折伏」と上納金集めの「財務」だった。昨今大きな問題となっている旧統一教会の強引な勧誘や寄付金集めにも負けず劣らずの勢い。宗教団体の常として、積極的に勧誘する相手は病苦や貧困などの悩みを抱える庶民が中心になった。創価学会に特徴的だったのは、入信した人たちの中からそれなりの成功者を選び出し、単位となる地域(ユニット)の責任者に据えたことだ。これが全国的な組織づくりを支え、次第に地方議会から政治への関与を深めていった。公明党が国政の場で中道政党として存在感を示すようになった背景に、「王仏冥合」という接着剤のような魔法の言葉があったのは否定のしようもない。
その公明党が非自民・非共産の細川護熙連立内閣に参画して与党となったのが1993年8月。それまでの野党のうち8党派が束になって政権を担うことになり、羽田孜内閣までの短い期間だったが、公明党・創価学会も政権与党の蜜を味わった。当時の公明党幹部は「国会で政教分離を追及されて厳しい面はあるが、支持者の拡大には効果大。与党になって王仏冥合が分かり易くなった」と小声で語っていた。この党と支持母体の共通体験が、すでに名誉会長に就いていた池田氏の脳裏に強く焼き付き、今日に至る自公連立政権へと大きく舵を切ることになったといえる。
「いつでも足抜けできる」つもりで政権入り
1998年7月。参院選で自民党が惨敗し、橋本龍太郎首相が退陣。後を引き継いだ小渕恵三首相は参議院の自民党過半数割れを補うため、自由党との自自連立に踏み切り、その上で1999年10月に自自公3党連立内閣のスタートに漕ぎつけた。ただし、細川内閣では公明党委員長だった石田幸四郎氏が自ら総務庁長官として入閣したが、小渕内閣では神崎武法代表が閣僚に加わることはなかった。その理由について当時、神崎代表周辺は「何かあったらいつでも足抜けできるように、トップは距離を置いた方がいいんだ」と解説していた。自民党が復調すれば使い捨てにされる日がやってくることも覚悟して、身構えながらルビコン川を渡ったということだった。
だが、あれから24年、自民党と公明党の連携は絶えることなく続いている。

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