活字の向こうに人がいる

2023年 私の読書

執筆者:斎藤真理子 2023年12月30日
カテゴリ: カルチャー
 

 活字の向こうに人がいる。誰かの手や誰かの顔がある。そのことを強く意識する1年だった。

 『カデギ――物流倉庫でミックスコーヒーをがぶ飲みしながら働いた話』(イ・ジョンチョル著、印イェニ訳、ころから、2023年)は韓国発のグラフィック・ノベル。著者の6年にわたる実体験をもとにしている。「カデギ」とは荷役作業、つまり大量の荷物をトラックから下ろしてコンベアに流す手作業を呼ぶ言葉だそうだ。「地獄のバイト」といわれる重労働で、1日働いて逃げ出す人も少なくない。

 奨学金を返しながら漫画を描きたいとこの仕事を始めた著者は、現実の厳しさを知り、宅配に頼っていた自分の生活を振り返る。「僕が注文した商品を待っている間、現場は悲鳴を上げていたんだ」……。

 宅配現場での働き方、特に手作業のあり方は国によって違い、日本と韓国ではすべてが同じではない。でも、過当競争の結果、働き手に強い負荷がかかっているのは同じだ。「ただ宅配の仕事をしている人が好きで漫画に描いた」という著者は、穏やかな線で人の手と顔を可視化し、リアリティあるせりふで人の尊厳を訴えている。

イ・ジョンチョル(印イェニ訳)『カデギ 物流倉庫でミックスコーヒーをがぶ飲みしながら働いた話』(ころから、2023年)

 最近韓国ドラマを見はじめた人にも往年のファンにもお勧めなのが、伊東順子の『続・韓国カルチャー――描かれた「歴史」と社会の変化』(集英社新書、2023年)。話題になった『マイ・ディア・ミスター〜私のおじさん~』『私たちのブルース』『シスターズ』『D.P.―脱走兵追跡官―』などの背景を、韓国社会の隅々までを知る著者がじっくり教えてくれる。

 朝鮮戦争とその置き土産である徴兵制、そして韓国の教育事情やキリスト教事情など、本書を読むと、登場人物一人ひとりへの理解度がまるで違ってくるだろう。

 読みどころの一つは、韓国人がしばしば口にする「大人の責任」という言葉だ。自分たちも決して大人になりきれてはいない、でも、現実に大人になってしまったのなら、子供たちや若い世代への責任を果たさなくてはならない。そんな態度が韓国カルチャーの担い手には共通に見られるようだ。

 いつも思うが、韓国ドラマを見ていると日本の課題が浮き彫りになってくる。この本はそこもきちんと押さえてくれる。

 表紙に使われた手の画像が目に焼きつく『破果』(ク・ビョンモ著 小山内園子訳 岩波書店、2022年)は、いつ映画になってもおかしくない韓国ノワール小説だ。

 ベテラン殺し屋が最後の仕事に挑む物語、ただしその殺し屋が女性で65歳……となると、まさに韓国の「今」が満載という感じ。高齢女性につきまとういくつもの固定観念を小気味よく覆して疾走する、「狙いすました」という表現がぴったりの作品だ。

 45年も殺し屋稼業を続けてきた主人公「爪角」(チョガク)は強烈なキャラクターだが、顔よりも手の印象が鮮明だ。「無用」(ムヨン)と名づけた愛犬の頭を撫で、徘徊する高齢者に桃を差し出し、シアン化合物を塗った匕首(あいくち)やコルト45口径を持って仕事に取りかかる。

 貧しい家に生まれ、運命に揉まれてきた彼女の人生には、激動につぐ激動だった韓国の現代史がしっかりと刻印されている。そして今、爪角はこの社会の誰に何を託そうとしているか? ラストシーンでも爪角の手は最も雄弁に語り、濃厚な余韻が心に残る。

ク・ビョンモ(小山内園子訳)『破果』(岩波書店、2022年)

 『ちょっと踊ったりすぐにかけだす』(古賀及子著、素粒社、2023年)は本当に面白かった。「デイリーポータルZ」の編集部員・ライターの著者が書いた大人気のウェブ日記を書籍化したもので、親1人、子供2人(中学生と小学生)の、発見でいっぱいの日常を記録している。

 コロナ禍の時期を含む日記だが、古賀さん一家は全然いらいらしてないように見える。いや、いらいらしたはずと思うが、それが極上の天然素材フィルターで濾されているみたいなのだ(ちょっと苦しい比喩だが美味しい絹ごし豆腐みたいな)。

 学校がお休みになり、親も自宅作業の生活を「今日も人々は自宅でそれぞれの仕事をする」「午後もそれぞれが適宜作業にあたる」と記録し、「兄妹は外出自粛の在宅生活でいがみ合うことも多かったが、同じものを観て聴いて、共通の言葉を日々獲得している。『このあいだのアレ』で笑ったり、うなずき合ったりする。良し悪しではなく、単純に、一緒に過ごした思い出が作られていっているということだと思う」と振り返る。

 この、若い宇宙人みたいな観察眼と老練な調教師みたいな距離感が合わせ技になった様子が、何だかもう大変に心強い。1冊まるごと不思議な危機管理能力に満ちており、この人は人類の知恵を深いところで伝承している方なのでは、と想像してしまった。

古賀及子 『ちょっと踊ったりすぐにかけだす』(素粒社、2023年)

 人類は戦争をやめることができず、また別の戦争を始めた。そういう2023年になってしまった。

 俳句を詠む人は世界じゅうにいて、ウクライナにもいる。戦争が日常になる経験を俳句とインタビューで綴った『俳句が伝える戦時下のウクライナ――ウクライナの市民、7人へのインタビュー』(馬場朝子編訳、現代書館、2023年)は、少しずつしか読めなかったが、今年読むべき本だった。

 「屋根なき家 今朝までは誰かの家庭」

 「戦争の空 ほのかに赤き樹冠」

 「犬の沈黙 朝に煙の低くあり」という句を詠んだキーウ在住のアナスターシャ・クブコさんは、「煙は、いまのウクライナにとっては季語のようなものです」と語った。

 同じ編訳者による『俳句が伝える戦時下のロシア――ロシアの市民、8人へのインタビュー』も刊行されている。併せて読んでほしい。

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執筆者プロフィール
斎藤真理子(さいとうまりこ) 1960年新潟市生まれ。翻訳者、ライター。著書に『韓国文学の中心にあるもの』(イースト・プレス)、『本の栞にぶら下がる』(岩波書店)。訳書にパク・ミンギュ『カステラ』(ヒョン・ジェフンとの共訳、クレイン)、チョ・セヒ『こびとが打ち上げた小さなボール』(河出書房新社)、ハン・ガン『ギリシャ語の時間』(晶文社)、チョン・セラン『フィフティ・ピープル』(亜紀書房)、チョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』(筑摩書房)、パク・ソルメ『未来散歩練習』(白水社)などがある。共編著に『韓国文学を旅する60章』(波田野節子・きむ ふなとの共編著、明石書店)。2015年、『カステラ』で第一回日本翻訳大賞受賞。2020年、『ヒョンナムオッパへ』(チョ・ナムジュ他、白水社)で韓国文学翻訳大賞(韓国文学翻訳院主宰)受賞。
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