毎日新聞×読売新聞「戦争記者」対談
8月ジャーナリズムと戦後80年【後編】
目の前で話している相手に、来年はもう取材できないかもしれない
ジャーナリズムとアカデミズムの違い
――戦後補償問題を追及する栗原さんに対して、前田さんは旧日本軍の高級参謀の人生を辿るなど、少し異なるアプローチで戦争報道をしています。
前田 旧軍の参謀といえば非常に悪いイメージで語られることが多いと思いますが、「本当にそれだけでいいのか」という疑問が出発点にあります。 私たちの世代は、基本的に戦前を全否定する教育を受けてきました。でも「戦前=悪」という単純な構図だけで当時を語ることは果たして正しいのか。
例えば絶対悪のように語られる陸軍の参謀だった辻政信も、戦後初めて出た選挙でトップ当選しているわけです。大衆に支持されていないとトップ当選なんてできません。絶対悪と言われている人間がなぜ選挙で当選できるのか? そういう疑問があった。戦争に負けた後、「あの戦争の原因は参謀たちだ」と言われていた。そんな人間が戦後社会を生きていくことができたのだろうか。そう思って調べると、有名企業に入ったり、政治家になったりして、意外なほど社会から必要とされて生きているんですね。
現代に生きる私たちは当事者にはなり得ません。いくら取材しようが、どこまで行っても傍観者でしかない。だったら自分にできることは、第三者の立場から正しいと思われている通説を検証することではないかと考えました。
――前田さんは参謀たちの書き残した一次資料なども駆使して、彼らの実像に迫っています。そうしたアプローチは、アカデミズムにおける歴史研究とはどう違うのでしょうか。
前田 参謀に限らず、戦場で戦った当事者の多くは亡くなって、遺族でさえ80代以上になっていたりします。遺族も知っている話と知らない話があるので、遺族が知っているのは、家庭での姿です。それが、軍隊や職場での姿と違うことは当然あり得ます。そういう意味では、証言に頼る取材にはどうしても限界が出てきます。
私が取材対象者の日記などを探すのはそのためです。当事者が書き残したものを読んで、そこに遺族の証言を重ねていく。とはいえ、存命の当事者に会う部分に関しては、記者という立場だと研究者の方よりやりやすいかもしれません。
アカデミズムとの違いでいうと、私が当事者の日記を読む時は、書かれた内容が正しいかどうか、どうやって歴史の中にピースとしてはめ込もうかということより、書いた本人の主観を重視しています。本人がその時に何を思ったのかを知りたい。たとえ思い込みだろうが何だろうが、本人がそう思っていたという事実が大事ではないかという気持ちでやっています。もちろん、実証的に事実関係を調べることはやります。でも、書かれていたことが間違っていたら、なぜそれを間違って書いたのかということを考えるようにしています。
栗原 当事者が加速度的に減って行く中、ジャーナリズムとしてはオーラル・ヒストリーが最優先だと思います。大和の水上特攻もシベリア抑留も、とにかく実際に体験した人に直接会って話を聴く。残された資料を検証することは10年後や20年後でもおそらくできるけど、目の前にいるおじいさん、おばあさんの話を聴くことは10年後にはもうできない。できる時にやっておかなければ、という意識がすごく強いですね。
自分自身の記者人生を考えても、先輩のキャリアを見れば現場にいられる残り時間は分かってきます。僕は入社20年目くらいからそのことに自覚的になりました。まずはとにかく当事者の話を聞こうと。
特攻隊の話はまさにそうです。僕が特攻隊の生き残りに取材して本を出したのが2015年。あれから10年経った現在、航空特攻で出撃して生きて戻った当事者を探すのはかなり難しいと思います。もはやどんなにがんばっても10人も見つからないでしょう。
前田 10人は難しいでしょうね。
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