論壇の時代に端緒を開いた志垣民郎

執筆者:大山貴稔 2024年3月10日
タグ: 日本
社会秩序流動化の時代だった戦後占領期から1960年代、進歩的文化人の勢いに抗するべく知識人層への働きかけが模索された[アイゼンハワー来日に反対するデモ隊に囲まれたハガチ-大統領秘書を乗せ、脱出する海兵隊のヘリコプター=1960年6月10日、東京都・羽田空港](C)時事通信フォト

移り変わってきた「平和国家」像

 日本政府は長らく「平和国家」を標榜してきた。日本国憲法の前文及び第9条に記された原理を根幹として、社会一般にも「平和主義」なる観念が根づいていることを前提としてきたのである。ただし、1990年代に入ってからは「平和国家」ないし「平和主義」の変化が看取されるようになっている。自衛隊の海外派遣や集団的自衛権の行使容認をはじめとして、かつて忌避された事柄にいくつかの政策転換が起きたことが表徴とされたのである。

 とはいっても、政策転換だけをみて「平和国家/平和主義」の変化とみなすのは一面的な見方に過ぎない。「平和国家/平和主義」が広く浸透したナショナル・アイデンティティないし社会規範であったなら、人々の意識にまで及んだ変化もあわせて捉える必要があろう。このような観点から、内閣総理大臣の施政方針演説や、各種機関が実施した世論調査軍事活動を取り巻く国際規範などに焦点を当て、「平和国家/平和主義」観の実態とそれを下支えした時代背景を読み解こうとする研究も積み重ねられている。

 これらの研究に取り組まれてもなお、社会一般に根差した意識が移り変わるメカニズムは不明瞭である。冷戦の終焉や国際テロリズムの勃興などに象徴されるような、国際的な構造変動が引き金となって「平和国家/平和主義」の在り様が変化したという鳥瞰図は得られたものの、日本国内でいかなる連鎖反応が生じて社会意識が変容したのかを捉えた虫瞰図は得られていない。この点に踏み込んで検討するための手がかりとして、本連載では内閣官房内閣調査室(1986年より内閣官房内閣情報調査室)に光を当て、このアクターの働きかけを契機とした社会意識の変容を視野に入れることにしたい。

アクターとしての内調

 内閣官房内閣調査室(以下、内閣調査室)というと、重要政策にかかわる調査・分析を行って内閣に報告する情報機関として知られている。だが、近年になって内閣調査室の活動が単なる情報収集に止まらなかったことが露わになりつつある。軍事的なものを忌避する社会意識に抗うための足場となり、その変転を目指して積極的な働きかけを重ねてきた様態が浮かび上がってきたのである。この連載で明らかにしたいのは、内閣調査室による働きかけが「平和国家/平和主義」の変化を考える上で無視しえない意味合いを持ったことである。このことについて1950年代から90年代に行われた働きかけを見渡しながら考察する。

 その作業に先立って、社会意識なるものをもう少し明晰にしておきたい。社会一般に見られる政治的見解のことを現代では「世論(よろん)」と呼んでいるものの、ここには「輿論(よろん)」と「世論(せろん)」という異なる意味合いを帯びた二つの古語が入り混じっている。輿論(よろん)はpublic opinionの訳語に充てられた言葉であり、積極的に喚起して政治的に代表されるべき公的意見を意味していた。他方で、世論(せろん)はpopular sentimentsの訳語に充てられた言葉であり、惑わされるべきでない騒々しい民衆感情とされていた。輿論/世論を形成する社会的土壌をめぐっても、活字メディアを主として理性的討議を目指した読書人的公共性と、電子メディアが主となり情緒的参加を前景化させたラジオ人的公共性という、メディア論的な相違があると佐藤卓己は喝破している。

 内閣調査室が重ねてきた働きかけを振り返ってみると、主要メディアの移り変わりに応じて輿論/世論の双方に目配りしてきた様子が窺えよう。内閣調査室が向き合ってきた時代状況の推移を大掴みに整理すると、①総合雑誌を中心に論壇が活況を呈した1950年代から60年代、②総合雑誌の勢いに陰りが生じて戦後世代が台頭し始めた1970年代から80年代、③湾岸戦争の生中継を筆頭にテレビ報道が勢いを増した1990年代、と分けることができるだろう。ここからは上記の時代区分に即して、内閣調査室が行った働きかけとその余波について順を追って確認していこう。

官房調査室時代に蒔かれた種

 第二次世界大戦後の占領期から1960年代に至るまでは、日本の社会秩序が特に流動化した時代であった。それもあって、この時期には日本の共産主義化を阻止すべく、アメリカの政府系機関や民間財団が日本への文化的関与を深めていた。このときに手がかりとされたのが日本の人文社会科学である。日本のアメリカ研究やアジア研究中国研究などに資金援助を行うことで、輿論を率いる知識人層に親米反共の足場を築こうとされていた。アメリカの対日文化戦略の展開を受け、日本国内からも財界を中心とした保守層が呼応したことで、日米関係民間会議(下田会議)の開設に繋がる動きも生まれていた。

 このような国外からの働きかけと並行して、日本国内でも進歩的文化人の勢いに抗するべく知識人層への働きかけが模索された。その中核を担ったのが、内閣調査室の前身組織にあたる内閣総理大臣官房調査室(以下、官房調査室)である。この組織は日本の主権回復を前にして1952年に総理府に新設されたものであり、1957年には内閣官房及び総理府の組織改編で内閣調査室へと姿を変えることになる。官房調査室はわずか5名で発足した小規模かつ短命の組織であったものの、アメリカのCIA(Central Intelligence Agency)と「蜜月関係」を築きながら、進歩派が隆盛を極める日本の輿論に一石を投じる準備を行っていた。

 この取り組みを推し進めた人物として、官房調査室で文化担当を務めた志垣民郎が知られている。志垣が手がけた事業の一つとして、進歩的文化人に対する言論攻勢があげられる。志垣は内外文化研究所編『学者先生戦前戦後言質集』(全貌社、1954年)を編纂し、そこで31名の進歩的な学者を俎上に載せ、戦前から戦後にかけて軍国主義から民主主義及び平和へと礼讃の対象をすり替えた時局迎合的な無節操さを批判していた。大家然とした学者の人間的な弱みを突いた同書は反響を呼び、時の吉田茂内閣総理大臣が閣議で言及したり、中央公論社の粕谷一希が同社社長の嶋中鵬二や近しい学者に薦めたりしたようである。

 こうした言論攻勢と合わせて、志垣は反共知識人との友好関係の構築も行っていた。後に重要な意味を帯びてくるのが、東京大学法学部を中心とした学生研究団体土曜会への支援である。同会は1950年に発足した組織であり……

戦後日本の基層をなす「平和国家/平和主義」の精神は、冷戦終焉など国際的な構造変動に応じて幾度か大きな転機を経験している。その変化を実現したのは社会一般の意識だが、他方でその意識は、輿論(public opinion)と世論(popular sentiments)の絶えざる双方向的作用の中で醸成された。いま政治的に代表されるべき公的意見としての輿論の形成史に着目する時、そこには時代ごとのメディア空間に働きかけた内閣官房内閣調査室(略称「内調」、1986年より内閣官房内閣情報調査室)の存在が浮かび上がる。①総合雑誌を中心に論壇が活況を呈した1950年代から60年代、②総合雑誌の勢いに陰りが生じて戦後世代が台頭し始めた1970年代から80年代、③湾岸戦争の生中継を筆頭にテレビ報道が勢いを増した1990年代に区分けして、アクターとしての「内調」の戦後史に連続企画で光を当てる。
カテゴリ: 社会
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執筆者プロフィール
大山貴稔(おおやまたかとし) 九州工業大学教養教育院人文社会系准教授、国際日本文化研究センター共同研究員 1990年長崎県生まれ。筑波大学社会・国際学群国際総合学類卒業。筑波大学大学院人文社会科学研究科国際公共政策専攻博士後期課程単位取得退学。東京福祉大学国際交流センター特任助教などを経て現職。日本の対外政策についての研究を専門とする。
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