選挙を「限られた人だけのためのイベント」にしないために――「NO選挙, NO LIFE」な私が「候補者全員取材」をする理由

執筆者:畠山理仁 2024年3月16日
カテゴリ: 政治
エリア: アジア
2016年東京都知事選のポスター掲示場。この全候補者21人にも畠山氏は密着取材した(筆者提供)

 選挙ライターの畠山理仁氏は「全候補者に取材する」ことに25年以上こだわってきた。活動レポート『黙殺~報じられない“無頼系独立候補”たちの戦い~』は第15回開高健ノンフィクション賞を受賞し、ドキュメンタリー映画『NO 選挙, NO LIFE』の“主役”にもなった。その愚直な手法は時に滑稽にすら映るが、何より自由を実感でき、民主主義社会に暮らす私たち「すべての人にメリットがある」と強調する。

選挙取材には「ハズレ」がない

 私は選挙取材を四半世紀続けてきたライターだ。その私が選挙を取材するときに決めていることがある。それは「全候補者に接触するまでは記事を書かない」ということだ。私はこのルールを公平な選挙取材には必要なことだと考えてきたが、世間の受け取り方はまったく違っていた。

 「全員に会うのは大変じゃないですか」

 「どうしてそんな無駄なことをするのですか」

 「当選する可能性が低い人を取材する意味はなんですか」

 私の取材方法はかなり特殊なため、同業者からも珍しがられている。そのため私の選挙取材に対する密着取材も何件か引き受けてきた。ついには昨年末、『NO 選挙, NO LIFE』という映画にまでなった。

 私が全員取材を続ける最大の理由は「すべての候補者が面白い」からだ。私は選挙以外のテーマも取材しているが、選挙取材には「ハズレ」がないと言い切れる。どこの現場に行っても新たな発見がある。「こんな人がいたのか!」という素晴らしい出会いがある。

 選挙に出る人はみんな自由に活動し、いきいきとしている。私より年長の人も若々しい。そうした候補者を見ていると「私自身ももっと自由に生きていいのだ」と励まされる。だから私は選挙取材に飽きることがない。

 私は選挙が大好きだ。しかし、そうでない人にも「候補者全員接触」を強くオススメしたい。投票先を決める前に全候補者を見ることは、すべての人にメリットがあるからだ。

選挙は「返品できない高い買い物」

 選挙は「返品ができない買い物」だ。しかも、かなりの高額商品である。

 今、私たち日本人は、収入の中から46.8%もの税金や社会保障費を納めている。国政選挙には毎回600億円を超える税金が経費としてかかっている。そのうえ、日本共産党をのぞく9つの国政政党には、年間315億円の政党交付金が支払われている。政党交付金だけで国民一人あたり250円の負担だ。つまり、私たちは普段から「民主主義のコスト」を負担し続けている。

 それなのに、今の日本では半数近い有権者が貴重な一票を捨てている。もったいない。

 納税の義務がある日本では、政治に不満を持つ人も税金を納めなければならない。収入を過少申告して脱税が判明すれば、多額の追徴金が課せられる。

 ただし、例外的に優遇されているのが政治家だ。政治家は裏金を作っていたことがバレても、あとから政治資金収支報告書を訂正すれば許される。日付も金額も「不明」でいい。政治資金は非課税だから、多額の資金を無税で移動したり相続できたりする。

 もしこれが「不公平」だと思うなら、選挙に行って意思表示をしたほうがいい。選挙に行かなければ、あなたの意見は政治に届かない。選挙に行くことをやめた先に待っているのは「誰かが決めたことの責任を自分も引き受けなければならない世界」だ。

 多くの人はあまり意識していないが、選挙で政治家選びに失敗すれば、任期中に政治家を取り替えることは難しい。

 たしかに制度としては、都道府県知事、市町村長、地方議会、地方議員に対する解職請求制度が存在する。しかし、国会議員にはリコール制度自体が存在しない。また、実際の解職請求には大変な手続きが必要だ。まずは1〜2カ月の間に「選挙人名簿登録者数の3分の1以上の署名」などの条件をクリアしなければならない。署名を集めた後には、住民投票で有効投票総数の過半数の賛成を得る必要がある。

 すべてがお膳立てされた通常の選挙にも行かない人たちが多いことを考えると、解職請求のハードルは高い。解職が成立すれば政治家は失職するが、その後には新たな政治家を選ぶ必要がある。しかも、次の選挙に「いい候補者」が出てくる保証はどこにもない。だから選挙の機会を大切にして、政治家を慎重に選ぶことが大切なのだ。

「多様な社会に対応できない」政治家は、選挙に行かない有権者が生み出している

 私は選挙取材の現場で、選挙に行く人、行かない人、いろんな人たちから話を聞いてきた。候補者に限定しても、軽く2000人以上は会っている。しかし、多くの人に会って話をすればするほど「選挙が大好きな自分の常識は世間の非常識」だと思い知らされる。それくらい世の中には多様な人たちが生きている。

 今、選挙に興味を持つ一般の人は驚くほど少ない。選挙に関する知識の量も乏しい。それどころか、「民主主義の基本」を理解していない人が世の中にはたくさんいる。そのため選挙は「限られた人たち」しか参加しないイベントになっている。

 政治家が「確実に選挙に参加する人たちの方」を向いてしまう状況は、選挙に行かない有権者が作り出していると言ってもいい。そもそも自分たちの要望を政治家に届ける人が限られているのだから、政治家が多様な社会の要求に応えられないのは当然だ。日本では、政治家と有権者のコミュニケーションが圧倒的に不足している。問い合わせの窓口すら公開していない政治家が上位当選してしまうような世界なのだ。

 一度は考えてみてほしい。あなたが車や家などの高額商品を買う時、どうするだろうか。車であれば、まずはカタログを見るだろう。家であれば、モデルルームを見たり内見をしたりするはずだ。実際に自分が所有した時のことを考え、実物を見たり触ったりしながら、その先の生活を想像するのではないだろうか。高額な買い物になればなるほど、現物を見ないで決断することは難しいはずだ。

 それなのに、政治の場合はこの常識が全く適用されない。多くの人が投票所前に設置されたポスターや、全戸配布される選挙公報などの限られた情報をもとに「見たこともない候補者」「会ったこともない候補者」に投票していることを私は知っている。

 選挙の取材をしていると、「選挙に興味がない」「選挙に行かない」という人にも遭遇する。「行かない理由」を聞いてみると、多くの場合、こんな答えが返ってくる。

 「自分には一票しかない。行っても行かなくても変わらないと思うから行かない」

 「入れたいと思う人がいないから投票には行かない」

 本当にもったいない。選挙で投票に行かず、自分の意見表明の機会を捨てることは「多額のお金の使い道を白紙委任すること」にほかならない。

 もちろん、選挙に行くのも行かないのも有権者の自由だ。しかし、その前に知っておいて損はないことがある。それは「あなたの一票」が持つ意味だ。

 私たちが納めた税金の使い道は、選挙で選ばれた政治家たちが決めていく。そう考えたとき、あなたが投じる「一票の価値」をお金に換算したことがあるだろうか。

 一票の価値を計算する方法はいろいろあるが、わかりやすいものを一つ提示したい。「一票の価値=国の予算×国会議員の任期÷有権者数」というものだ。これを直近に行われた国政選挙(2022年7月の参議院議員選挙)に当てはめると次のようになる。

 「国の予算(107兆円)×任期(6年)÷有権者数(1億501万9203人)=611万3168円」

 つまり、あなたが投じる一票は「611万3168円」の行方を決める意思表示だ。

 この計算式は、あなたが住む自治体の選挙でも使える。東京都知事選挙であれば「東京都の予算(8兆4530億円)×知事の任期(4年)÷有権者数(1152万4583人)=293万3902円」。市区町村で行われる選挙の場合、あなたの一票の価値はおおむね200万円程度だと考えていい。そんななか、実際の政治家を見ずに投票先を決める人は、よほど余裕のある人だと私は思っている。

全候補者を見れば政治に詳しくなれる

 私が全員取材を続ける理由は他にもある。全候補者を比較検討すれば、「明らかな失敗」の確率を減らせるからだ。

 選挙には「当選できるのは選挙に立候補した人だけ」というルールがある。どんなに優秀な人がいても、立候補しなければ当選できない。候補者が定数に満たなければ選挙は行われず、無投票で当選者が決まってしまうこともある。当選した人が「不適格」だと思っても、あとの祭りだ。だからこそ、立候補した人のなかに「当選させるべきではない人」がいるかもしれないという疑いの目ですべての候補者を見る必要がある。

 今、選挙の際に候補者が提出するポスターや選挙公報を鵜呑みにしてしまう有権者は多い。

 そもそも選挙公報は「候補者が提出した原稿をそのまま掲載」したものだ。政策の実現可能性や事実関係を選挙管理委員会がチェックして保障しているわけではない。基本的には「候補者の言いっ放し」で、荒唐無稽な主張もそのまま掲載される。

 ポスターも、候補者が見せたいものしか掲載されていない。なにしろポスターで使われる顔写真には「何カ月以内に撮影した写真を使わなければならない」という規定がない。顔写真を載せなければならないという規定もない。取材現場でポスターのイメージを頼りに候補者を探しても、まったく見つけられない経験を私は何度もしている。ひどいときには、他人の顔写真をポスターに使って立候補する人までいる。ポスターや選挙公報が候補者の本質を伝えているとは限らないのだ。有権者が選挙への関心を失えば失うほど、政治家の劣化は進んでいく仕組みになっている。

 私たちが選挙で選ぶ政治家は、この先4〜6年の任期中、私たちの代わりに政治のことを専門に担当してくれる人だ。私たちの代表ではあるが「君主」ではない。注文は大いにつけるべきだし、30秒でもいいから一度は実物を見たほうがいい。一瞬でも生身の候補者をみれば、生活者としての勘が働くからだ。

 「この人になら任せられる」「困ったときに相談できる『かかりつけの政治家』として頼れる」。すべての候補者を比較検討したうえで投票先を決めれば、大きな失敗から距離を置くことができる。

選挙は「政策オリンピック」である

 私が候補者全員を取材する理由には積極的なものもある。それは選挙が「政策の見本市」だからだ。投票率が50%前後の現代において、毎日政治のことを考えている人もそれほど多くない。だから日本の有権者は選挙のたびに自信がなさそうな顔で私に言う。

 「私は政治に詳しくないから……」

 バカを言ってはいけない。その態度が訳知り顔で中身は空っぽの政治家を生むことになる。この世に生きる人は、政治に無関心でいることはできても、政治と無関係でいることはできない。全員が政治的決定の影響を受けている。そんな世の中を生き抜いている人は、誰もが「政治のプロ」であり「社会の主人公」だ。もっと胸を張り、自信を持って政治を語っていい。

 幸いなことに、今は年収が10億円の人も、収入がゼロの人も、誰もが「同じ一票」を持っている普通選挙の時代だ。とても公平な制度であると同時に、非常に恐ろしい可能性を秘めた制度でもある。だからこそ、世の中を変えたい人も、変えたくない人も、自分の望む世の中を目指して「一票」を行使するしかない。自分の仲間を一人でも多く作った勢力が政治の主導権を握るのが民主主義だ。まだまだ誤解している人も多いが、選挙は競馬や競輪のように「誰が勝つか」を当てるゲームではない。「誰に政治を担当してほしいか」を一人ひとりが考えて、自分にしかできない決定をするものだ。

 一方で、「日々の暮らしに忙しいから政治のことはわからない」という声が多いのも理解できる。だからこそ、もっと選挙の機会を有効活用してほしい。選挙に立候補する人は、あなたよりも長い時間をかけて政治のことを考えている人が圧倒的に多いからだ。

 選挙に立候補する人は、その地域がどんな課題を抱えているのかを探り、問題解決のためのアイデアを常に考えている。他の地域の政策や事例についても勉強を重ねている。日々の生活に追われる私たちの代わりに政策に磨きをかけている。私たちは政治への監視をサボりがちだが、選挙のときにすべての候補者の主張をくまなく見れば、一気に政治に詳しくなれる。サボっていても、候補者の頑張りを見ればすぐに追いつける。

 4年に1度行われる選挙は、「政策の見本市」「政策オリンピック」だと考えてほしい。「にわかファン」でも、すべての候補者を見れば目が肥えるし、高いレベルで政策を考えることができる。政治を楽しみ、大いに盛り上がることができる。

 多様な候補者たちは私たちの写し鏡だ。だからこそ、一人ひとりの候補者を大事にしてほしい。無名の候補者を軽んじる社会は、無名の有権者である自分自身も軽んじられる社会を容認するのと同じだ。あなたの人生に意味があるように、他人の人生にも意味がある。世の中に無視されていい人などいない。そのことを強く意識してほしい。

 もし、自分好みの政策が見つかれば、「応援したい」と思える候補者に伝えればいい。そうすれば、候補者がどんどん自分好みの候補者に成長していく可能性がある。「入れたい人がいない」という状況は自分で変えられる。自分好みの政策を打ち出してくれる政治家がいなければ、自分で立候補すればいい。これが民主主義の作り方だ。

世の中に「無駄な立候補」はない

 選挙の際に行われる報道は、ほとんどが「主要な候補」についてのものだ。「主要候補」と「その他の候補」の基準はメディアが独自に決めている。しかし、報道に無視されがちな候補者の立候補を「無駄だ」と切り捨てることはできない。報道が「その他の候補」として切り捨てた候補者の政策が、当選した候補者によって実現した例はたくさんあるからだ。

 たとえば2000年の長野県知事選挙には、「30人学級の実現」を訴えて立候補した草間重男候補がいた。草間氏は落選したが、その後、長野県では少人数学級実現に向けた動きが進み、2009年度には全県下で少人数学級が可能な体制が実現した。

 2021年3月の千葉県知事選挙には、「生理の貧困問題の解決」を訴えた金光理恵候補がいた。金光候補は落選したが、この時の知事選挙で当選した熊谷俊人氏によって、千葉県では県立学校への生理用品無償配布が実現している。

 この他にも、各地の選挙で落選した候補者が訴えていた「子育て世代への給付金」が当選した候補者によって実施された例はいくつもある。選挙で堂々と政策を訴える人がいるからこそ、社会は課題を認識し、その解決に向けた方向に変わっていく。

 そして、もう一つ伝えたいことがある。それは「自分が立候補しない限り、選挙は『よりマシな地獄の選択である』」ということだ。

 日本で選挙に立候補するためには、高額な供託金を納める必要がある。衆議院の小選挙区、参議院の選挙区、都道府県知事では300万円。国政選挙の比例候補になるためには600万円を納めなければならない。政令指定都市の首長選挙では240万円。市区長選挙では100万円。こんなに供託金が高い国は世界でも珍しい。だから候補者が少ない。

 世界を見ると、アメリカ、ドイツ、イタリアのように供託金制度がない国もある。フランスでは2万円程度(下院)の供託金が必要だったが、1995年に廃止された。

 諸外国では、選挙に立候補することは当然の権利だという意識がある。かつて筆者が取材した2003年のカリフォルニア州知事選挙には、なんと135人も立候補した。多くの候補者がいれば、その中に「応援したい」と思える候補が出てくる可能性は高くなる。

 私はかつて、日本の国政選挙でどれくらいの人が被選挙権を行使しているのかを計算してみたことがある。衆議院議員選挙では7万5000人に1人。参議院議員選挙では25万人に1人ぐらいの割合だった。この中から「投票したい」と思える人に出会える確率は低くて当然だ。だから私は「よりマシな地獄の選択」だと言い続けている。

 もし、あなたが「投票したい人がいない」と言って投票をあきらめてしまったらどうなるだろうか。社会がよりよい方向に向かう可能性はどんどん低くなる。自分の希望する社会は永遠にやってこないだろう。

 そうであるならば、有権者がするべきことは決まっている。すべての候補者に興味を持ち、比較検討したうえで選挙に行くことだ。

 最初は大変に思えるかもしれない。しかし、「すべての候補者を直接見てみよう」と考えるだけで、あなたと政治との距離はぐっと近くなる。この距離感は、この先の人生を生きるうえで決して邪魔にはならない。むしろあなたを賢明な有権者に近づける。

 私はこれからも選挙の現場に出かけるつもりだ。いつかあなたと選挙の現場でお会いできる日を楽しみにしている。

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執筆者プロフィール
畠山理仁(はたけやまみちよし) ノンフィクションライター。1973年愛知県生まれ。早稲田大学第一文学部在学中より取材・執筆活動を開始。日本のみならず、アメリカ、ロシア、台湾など世界中の選挙の現場を20年以上取材している。著書に『黙殺 報じられない“無頼系独立候補”たちの戦い』(集英社、第15回開高健ノンフィクション賞受賞)、『領土問題、私はこう考える!』『コロナ時代の選挙漫遊記』(ともに集英社)、『記者会見ゲリラ戦記』(扶桑社)などがある。畠山氏に密着取材したドキュメンタリー映画「NO 選挙,NO LIFE」が2023年に全国で上映された。公式ツイッター@hatakezo
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