東日本大震災で亡くなった外国人たちの歩みから見出す、「ひとが生きる理由」

三浦英之『涙にも国籍はあるのでしょうか―津波で亡くなった外国人をたどって―』

執筆者:森健 2024年4月19日
エリア: アジア
東日本大震災で被害に遭った外国人たちの在りし日に想いを寄せる一冊(Yanawut.S / Shutterstock)

 いまだに「震災での外国人の犠牲者数を誰も把握していない」という事実に衝撃を受けたルポライター・三浦英之氏は、そうした人々が異国の地で生きた証を取材し、一冊の本にまとめた。「震災を書く」とはどういうことか。同じく震災を取材し続けるジャーナリスト森健氏が、決して容易には手に入らないその答えの輪郭を、三浦氏新刊『涙にも国籍はあるのでしょうか―津波で亡くなった外国人をたどって―』の中に手探りする。

* * *

 どんなものを書いていますかと聞かれることがある。政治、科学、社会問題などさまざまあるが、答えにためらうものが一つある。震災だ。

 実のところ、東日本大震災については、広く関わってきた。発災の年だけでなく、現在に至る13年間、毎年さまざまなテーマで取材を行ってきた。水産業と暮らし、原発の廃炉作業、災害公営住宅の居住者の減少、発災時の首相や復興庁高官へのインタビュー……。

 けれども、ある時期以降、できるだけ避けてきものがある。被災した人たちの話、いわゆる人物ものだ。

 やっていなかったわけではない。発災から2~3年はそうした取材を積極的にしていた。岩手、宮城、福島でおよそ150以上の家族に話を聞き、あのとき、あの場所を生き抜いた話、大事なものを失った話、再起を目指す話をさまざま書いてきた。あの地域の人にとっては誰にとっても、震災は悲劇であったし、乗り越えようともがく姿は、人の営みとして描くに値するものでもあった。

 ただ、3年を過ぎる頃から、そうした取材に次第に躊躇を覚えるようになった。災害公営住宅の供給などで住居が再建され、新しい暮らしが模索される中、彼らを「被災者」と呼び続け、「被災者」という目線で取材する。そのこと自体が彼らの歩みを阻害しているのではないかと感じるようになったからだ。

「震災」を書く難しさ

 発災から一定の期間を過ぎ、生活が安定すると、彼らの悩みの多くは他の地域で暮らす人たちの悩みとあまり変わらなくなった。子どもと学校、仕事と暮らし、老いや病、地域と人間関係……。あのとき、かけがえのない家族や思い出のつまった家が失われた──。そんな話も出ないわけではないが、どちらかと言えば、避けがちになった。

 だとすれば、特別の理由がないかぎり、「被災者」としての彼らを取り上げ続けるのはおかしいのではないか──。そんな考えが強くなり、震災から5年を境にいわゆる人物ものは控えることにした。

 だからといって、それ以外のテーマが簡単なわけでもない。現地と関わりが増えれば、友人も増え、事情も理解していく一方、書きにくくなることも増える。

 防潮堤や盛土の高さ、地域や街の復興計画、各種助成金、避難指示区域や東京電力からの賠償金のあり方……。きびしいことを書かねばならない局面はしばしばあった。現地の立場に立てばよいと思えることも、それ以外の地域の人にとっては見直しを迫る視点になることがある。どちらの立場に立つのか、判断を迫られたことは一度や二度ではない。誰に向けて何を伝えようとしているのか。伝える側の責任や見識が問われることでもあるからだ。

 仕事のテーマを問われたとき、(毎年やっていながらも)震災をテーマと口にすることにためらいを覚えてしまう自分がいるのは、そんな事情があるためだ。

語られない外国人たちの物語

 そんな腰が引けた自分と異なり、震災をテーマに掲げて継続的に取材活動をする書き手の人たちがいる。その一人が三浦英之氏だ。

 本書は朝日新聞夕刊で連載していたものに加筆され、再構成されたものだ。私も連載中に目にして、これは見過ごしていた視点だと気付かされた。震災で亡くなった外国人たちのことだ。

 著者がこのテーマに気づいたのは、2022年の暑い盛りだったという。

〈勤務先がある盛岡市内の焼鳥屋で、取材で知り合ったモンゴル人青年と楽しく酒を飲み交わしていた〉

 その酒席の中、その青年から東日本大震災で亡くなった外国人の数がいまだ正確につかめていないらしいと聞く。そんなはずはないと著者は反論するも、調べだすとその数字は省庁によって異なり、詳細も明らかでないところがあるとわかっていく。

〈その不作為は(略)あまりに不平等であり、何より不正義であるように思われた〉

〈私はしばらく悩んだ末に、もし政府や自治体ができないのであれば、津波で亡くなった外国人たちを自らの取材で一人でも多く見つけ出し、彼らが生前暮らした土地を訪ね歩いていくことで、彼らが残した「生」の物語をたどれないかと考えた〉

 それが本取材の出発点だった。

 本書で取り上げられた外国人は米国、フィリピン、中国、パキスタンなど約9人。「約」とつくのは、描くまでに至らなかった人たちの姿もおぼろげに残っているためだ。

 震災は10年以上前の出来事で、外国人であるがゆえに、関係者もけっして多くない。著者は同僚、在郷団体など、さまざまな方法から当時亡くなった外国人の姿に近づこうとする。

 どんな人がいて、どんな生があったのか。

 当然のことながら、それぞれの人生は母国が異なるのと同様に、人とのつながりも、背景のストーリーも異なる。その人物像を明らかにするために、著者は各地に赴く。

 日本人の男性と再婚した母を追って16歳頃、岩手県大槌町にやってきた中国人男性はあの震災時に母をうしなった。当時18歳だった彼は悲しみに沈むが、彼はさらなる悲劇にさらされる。母が亡くなったことで滞在許可がおりないと言われてしまう。

『となりのトトロ』や村上春樹の小説など日本の文化に親しみ、憧れをもって米国からやってきた女性は、宮城県石巻市で外国語指導助手をつとめているときに震災に襲われた。享年24歳。日本人の女性教師とも仲良くなり、「日本と米国の架け橋になれるような仕事をしたい」と考えていた女性だった。

 出稼ぎでやってきたフィリピンの女性を妻にもった福島県いわき市(当時)の男性。彼は福島第一原発に勤務していたが、津波の被害で妻と小6の娘を失った。

 カトリック教会の宣教師として半世紀前に日本を訪れ、塩釜市の教会などに従事していたカナダ出身の神父(当時76)。彼は津波には襲われなかったが、震災の翌日、少し離れた場所で命を落としていた。

 著者は、生前関わりがあった人たちを訪ね、亡くなった外国人たちの歩みを追おうとする。なぜ日本に来ていたかという基本的な問いのほか、どのように暮らしていたのか、そして、どのように亡くなったのか。

 話はそこで終わらない。たいていはその外国人に関わった人たちのその後にも影響があるからだ。二転三転する人生もあれば、思わぬ展開で悲劇を受け入れる心境になることもある。そして多くの場合、異国の地で暮らしていた人の人生が、時間を経る中、周囲の人たちの間で回収されていく。そんな個々の断面を著者は自身の歩みも含めながら描いていく。

 どういう事情かはわからないが、取材を拒まれた地域もある。その一方で、問われるのを待っていたかのように語る人もいる。その意味で、本書は津波で亡くなった外国人の話でもあると同時に、そんな彼らを支援し、見守ってきた人たちの話でもある。

忘れられた「大事なこと」

 欲を言えば、もう少しディテールがほしいところもあるし、著者自身の思いや動きを抑制したほうが作品の完成度を高められたのではないかと同業者的な視点で感じるところがある。

 ただ、あの日から13年間という年月を経てなお、震災をテーマに書き続けたいと願う著者の意思は各章の行間からも滲む。

 物事には忘れていいことと忘れるべきではないことがある。心につらい事実を忘れられないでいることも悲劇だが、大事なことなのに忘れられていることも悲劇だ。著者は後者に関心があるのだろう。

 本書の後半、著者が取材のさなかに考えていたことが明かされる。

〈人は何のために生きるのか──。そんな果てしない命題を、私は職業記者になってからずっと追い続けてきたように思う〉

 その答えを著者は「おぼろげ」に記している。

 それがどういうものだったかはここでは記さない。ただ、それは著者の答えであると同時に、読者にも考えることを求めているように映る。

 それが震災から13年後に出された本である。

カテゴリ: カルチャー
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執筆者プロフィール
森健(もりけん) ジャーナリスト。1968年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『「つなみ」の子どもたち』で第43回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。著書に『小倉昌男 祈りと経営』(小学館)など多数。
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