停戦機運の「成熟」に抵抗したウクライナ――クルスク攻勢という冒険的行動はどこからきたか

執筆者:篠田英朗 2024年8月22日
エリア: ヨーロッパ
クルスク侵攻作戦は、停戦の機運を遠のかせ、戦争を継続させる効果を持った[ウクライナ軍による越境攻撃で破壊された戦車=2024年8月16日、ロシア西部クルスク州スジャ郊外](C)AFP=時事
クルスク攻勢の重要な留意点は、東部戦線などの劣勢に苦しむウクライナ側が、あえて停戦を遠のかせる軍事行動をとったことだ。停戦になびくことを拒絶し、むしろ戦争を継続させるための作戦を遂行した。ザートマンの「成熟理論」に即して言えば、「成熟」状態が成立することに抵抗したのだ。当事者が非合理な覚悟で戦争継続を望む限り停戦機運は「成熟」しない。ゼレンスキー大統領が武器使用制限の有名無実化を狙ったのなら、それは合理的であったのか。最大の支援国・米国は、その非合理性を説くべきではなかったか。いずれにせよ確かなのは、この冒険的行動は生まれつつあった「成熟」を消したことだ。

 8月6日、ウクライナ軍が、ロシア領クルスク州に侵入した。よく準備された奇襲作戦で、国境のロシアの防衛線を突破し、国境から10キロほどの地点にある人口6000人の町スジャを占拠した。これに対してロシア軍は、人口約44万人の州都クルスク及びクルスク原子力発電所を防衛するための塹壕を形成したうえで、ウクライナ軍の北上を阻止した。そこでウクライナ軍は、国境線に沿うように東西に拡散して軍事行動を展開し、小規模の集落を支配下に置いていった。
 この軍事作戦が何を目指して行われているのか、一見して判然としないところがあるため、多くの議論がなされた。軍事的合理性を訴える者はほとんどいなかった。代わりに、低下していたウクライナ側の士気を上げること、及びロシア側にショックを与えることといった心理的効果を論じる者が多かったようだ。
 確かに、防御が弱かったロシア領に奇襲攻撃を仕掛けて成果を出し、ウクライナ側の士気は上がったかもしれない。ロシア側もショックはあっただろう。ただしそれらは限定的かつ短期的なものだったと言わざるを得ない。
 軍事専門家の方々が、ウクライナが押され気味だった東部戦線からロシア軍の部隊をクルスク方面へ転用させることに意味がある、さらにはウクライナ側も占領地を確保して将来の停戦交渉の際の交換条件にすることを狙える、といった点を主張された。
 だが私には、東部戦線からロシア軍をクルスク方面に転用させることをウクライナ側が企図することに、何か戦略的合理性があったのかは、よくわからない。首都キーウから600キロ以上離れた東部戦線から、キーウまで400キロのクルスクにロシア軍を引き寄せて新しい戦線を作り出すことに、どのような意味があるのか。明確な軍事的利益が不明だとすれば、戦争の継続という効果を狙うことそのものが「目的」であったと考え、「合理性」をその「目的」にそって考えるしかなくなる。
 交渉材料になる軍事的成果があがっているのかどうかも、不明である。ロシアは、クルスク州内の原子力発電所や州都クルスクなどの重要拠点は守っている。ウクライナ軍が占拠したスジャに、欧州向け天然ガス輸出量の半分を占めるパイプラインの測定所があるのは、重要な事実だ。だが、それがウクライナにとって何か有利な材料になる要素を持っているのかは、不明である。折しもノルドストリームを爆破したのがウクライナ人であったことが判明するスキャンダルが話題になっている最中である。ウクライナが不用意な行動に出れば、ウクライナへの欧州人の信任がさらに低下するだけだ。もっともそもそもパイプラインはスジャだけにあるわけではない。他のあらゆる天然資源の問題と同じように、一つの部分的施設を抑えても、迂回策の模索を促進するだけではあるだろう。
 ウクライナ軍が占拠したと主張したのは、ほとんどの住民が避難した後の、もともと過疎地帯であるスジャ及び国境付近の数十の集落くらいの地域であった。その面積は、ロシア占領地域と比較にならないくらいに小さいうえに、占領地域のほとんどには社会生活が維持される実態は消えていた。行政権限を掌握したと言えるような実態は生まれえない。これが将来の停戦交渉の際の取引材料になりえるかと言えば、ただ極小的な意味においてのみであっただろう。このような国境付近の過疎地帯の限定的な占拠に対して、ロシア政府が停戦交渉で解決を図るように動機づけられるはずはなかった。実際のところ、ウラジーミル・プーチン露大統領は、クルスク攻勢の初期の段階で、一切の交渉の可能性を拒絶する、と宣言した。

クルスク攻勢は「停戦」交渉への抵抗

 結論から言えば、クルスク侵攻作戦は、停戦の機運を遠のかせ、戦争を継続させる効果を持った。ウクライナが得たのは、ほとんどそれだけだった、と言わざるを得ない。ウクライナ政府は、あるいはクルスク原子力発電所と州都クルスクを長期にわたって占領統治し、停戦交渉に用いることができると信じる条件を真剣に獲得しようとしていたのかもしれない。もしそうだったとすれば、ウクライナのクルスク攻勢は、作戦の目的に照らして、最初から失敗していたことになり、続けていたのは単なる士気高揚のためのプロパガンダだけであったことになってしまう。
 ウクライナ政府が声高に主張しているのは、支援国に対するさらなる軍事支援の拡充であった。ヴォロディミル・ゼレンスキー大統領は、ロシア領内標的の攻撃に支援で得た武器を使う許可を出してほしいと、SNSを通じて数百万人の前で、毎日のように訴え続けていた。たとえ限定的であっても、ウクライナ軍によるロシア領内の軍事攻勢が常態化して既成事実化すれば、支援国が課している武器使用の制限は、ほとんど有名無実化する。実際に、クルスク攻勢で多数の欧米諸国支援兵器が用いられていることが目撃報告されている。
 だが、果たしてこうした曲折した目的のために、リスクの高い軍事作戦を開始することに合理性があったのか、疑問が残る。ゼレンスキー大統領としては、ひとたびロシア領内に戦線を拡大させることが現実化してしまえば、どうしてもウクライナを見捨てることができない主要支援国は、ウクライナ政府の要求通りに武器使用制限を緩和するしかなくなるだろう、と計算したようである。そのため、多少荒っぽいやり方でも、既成事実作りの行動をとる決断をしたように見える。
 だがそれは見切り発車の決断であった。しかも予測される大きなリスクと比して、合理的な計算が成り立つ目標であったかどうか、疑わしい決断であった。
 重要な留意点は、東部戦線で劣勢気味であったウクライナ側が、あえて停戦を遠のかせる軍事行動をとった、ということである。追い詰められ気味であったウクライナが、それによって停戦になびくことをあえて拒絶し、リスクを承知でむしろあえて戦争を継続させるための作戦を遂行した。そのような「あえて」の合理性逸脱と総括できるのが、今回のクルスク攻勢であった。

紛争調停における「成熟理論」

 紛争解決論の分野に、ウィリアム・ザートマンの「成熟(ripeness)理論」という見取り図がある。「相互に痛みを伴う膠着(mutually hurting stalemate: MHS)」状態の程度に応じて、紛争終結の「成熟度」を測定する、という視点である。ザートマンは、1990年代のアメリカのシンクタンクで、第三者紛争調停にあたる立場を最も具体的に想定して、「成熟理論」を展開した。(拙著『紛争解決ってなんだろう』[ちくまプリマ―新書、2021年]などをご参照いただきたい。)

カテゴリ: 政治 軍事・防衛
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執筆者プロフィール
篠田英朗(しのだひであき) 東京外国語大学大学院総合国際学研究院教授。1968年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業、同大学大学院政治学研究科修士課程、ロンドン大学(LSE)国際関係学部博士課程修了。国際関係学博士(Ph.D.)。国際政治学、平和構築論が専門。学生時代より難民救援活動に従事し、クルド難民(イラン)、ソマリア難民(ジブチ)への緊急援助のための短期ボランティアとして派遣された経験を持つ。日本政府から派遣されて、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)で投票所責任者として勤務。ロンドン大学およびキール大学非常勤講師、広島大学平和科学研究センター助手、助教授、准教授を経て、2013年から現職。2007年より外務省委託「平和構築人材育成事業」/「平和構築・開発におけるグローバル人材育成事業」を、実施団体責任者として指揮。著書に『平和構築と法の支配』(創文社、大佛次郎論壇賞受賞)、『「国家主権」という思想』(勁草書房、サントリー学芸賞受賞)、『集団的自衛権の思想史―憲法九条と日米安保』(風行社、読売・吉野作造賞受賞)、『平和構築入門』、『ほんとうの憲法』(いずれもちくま新書)、『憲法学の病』(新潮新書)など多数。
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