
日本の政策論議に欠けているものは何か、それは歴史観と国際的視野だ。その典型が医療政策である。
海外の動きに逆行する医学部の定員削減
1月21日に開催された「医師養成過程を通じた医師の偏在対策等に関する検討会」で、これまで、医学部定員に上乗せして募集してきた臨時定員を減らす方針を了承した。つまり、今後、医学部定員は削減される。
これは、見当違いだ。日本の医学部の学生数が少ないことは、以前にも紹介した。日本の人口10万人あたりの医学部卒業生数は7.2人。経済協力開発機構(OECD)加盟38カ国中、イスラエル(6.8人)に次いで少ない。トップのラトビア(27.3人)の4分の1だ。
最近、日本に次いで下から3番目の韓国(7.3人)は、政府が主導する形で医学部定員を大幅に増員することを決めた。米国では、米国医科大学協会(AAMC)が、2033年までに5万4000人~13万9000人の医師が不足すると報告し、社会の関心を集めた。ちなみに、2022年時点での米国の医師数は約90万人だ。海外からの医師の受け入れなど対策に余念がない。このあたり、厚生労働省の対応とは正反対だ。
日本は、世界でもっとも高齢化が進んだ国だ。ところが、医師養成数が世界最低レベルだ。これで医療体制が維持できる訳がない。これまでは、医師の過剰残業で辻褄を合わせてきたが、働き方改革が施行され、このやり方を続けることは難しくなった。
これが日本の医師不足の真相だが、このことが日本で報じられることはない。逆に、「いずれ到来する「医師が余る」時代。「足りないなら増やせばいい」と簡単に言えない、医師不足・偏在問題の実情とは? 厚労省も適正化に苦悩」(集英社オンライン2024年1月31日)のような議論が横行している。このような主張の多くは、国際比較など科学的な議論をすることなく、厚労省や周囲の専門家の主張を踏襲しているだけだ。
都合よく利用される「医師偏在」論
厚労省は、長年にわたり、「将来的に医師は余る」と主張し続けてきた。2006年に厚労省が発表した医師の需給に関する検討会報告書では、2022年には臨床医師数が必要とされる医師数と均衡すると推計していた。
舛添要一氏、塩崎恭久氏が厚労大臣を務めた時期、および民主党政権時代には、厚労大臣が「医師は絶対数が不足している」との主張を繰り返したため、厚労省もその意向に従ったが、それ以外の大臣の時は、「医師は足りており、偏在が問題である」と言い続けている。現在も、その姿勢は変わっていない。昨年来、美容医療に進む若手医師や、都会に集まる若手医師を、強制的に、あるいはインセンティブをつけて、地方に配置せねばならないと論じているのは、このためだ。
武見敬三・前厚労大臣は、「医師の偏在対策は待ったなし」、「私が全体の指揮をとる」と発言し、このような政策を推進してきた。「強制」は役所を焼け太りさせ、利権を生む。
私は、医師が偏在していないと主張したい訳ではない。医師の絶対数が足りなければ、必ず偏在が起こる。確かに、医師が都市部に集中し、僻地に少ないことは事実だ。ただ、人口減が進む我が国で地方都市の衰退は避けられない。地方の医師不足は、このような文脈で議論すべきだ。これは世界が共通して抱える問題で、オンライン診療の普及や、医師の業務独占を緩和し、看護師の権限を強化するなどの対応をとっている。
若手医師「強制配置は無駄」は世界の常識
僻地の医師不足については、自治医科大学の設立から、医学部進学時の地域枠制度まで、政府は巨額の税金を投入して、対策を進めてきた。若者の職業選択や居住の自由という憲法で保障された人権を侵害していると批判されても一顧だにしなかった。
今回のような規制を強化する前に、まずやるべきは、過去の政策の検証である。十分な効果を果たしていないのは明らかだ。医療ガバナンス研究所が、医師不足と偏在が深刻な福島県をケースとして、このような施策の有効性を検証した結果を表1に示す。
福島県には6つの二次医療圏(複数の市区町村で構成される、入院等にかかる治療が完結するように設定した医療区域)が存在するが、2010年と22年を比べて、県内の医師数のシェア率が最も増えたいわき二次医療圏でも、増加はわずかに2.0ポイントだ。医師数の増加率は11.6%で、福島県立医科大が存在し、医師数が最も多い福島市を含む県北二次医療圏(19.4%増)を下回る。この間に都市部の県北の医師数は146人増えたが、いわきは47人に過ぎない。12年間で、この程度の成果なのだから焼け石に水だ。
福島県立医大学は、医学部定員130人のうち、約30人を地域枠に充ててきた。授業料貸与の条件として、大学卒業後9年間、福島県が指定する地方病院での勤務を義務付けているのだが、果たして、このような制度を続けるべきなのだろうか。
この点を論じる上でも、世界での経験を参照すべきだ。実は、若手医師の強制配置が上手くいかないのは、既に世界のコンセンサスとなっている。米国でも、1970年に法制化され、米公衆衛生局により運用されたが、効果は期待外れだった。米ノースカロライナ大学チャペルヒル校の研究チームは、1992年に労働義務を課しても、僻地での医師の定着率が低いこと、94年に地方の医療ニーズと医師の希望がマッチせず、医師のやる気が低下するという実証研究の結果を『米国医師会誌(JAMA)』に発表している。
2010年5月に米ジョージワシントン大学の研究チームが、世界25カ国での地域枠の実施状況を『世界保健機関(WHO)紀要』に報告したが、このうち23カ国はエチオピアやパキスタンなどの途上国だった。例外はオーストラリアとトルコ、ノルウェーだ。ただ、義務年限の中央値は15カ月で、最長でも6年間だった。国家を挙げて、9年間も若手医師を地方に縛り付けている日本は異様だ。
維新の勝ち組「西日本」に医師が多い
話を医師の偏在に戻そう。厚労省は政策課題に挙げないが、私が問題視しているのは、医師の西高東低の偏在だ。医師は関西以西に多く、中部地方から東で少ない。図1をご覧いただければ、その深刻さがご理解いただけるだろう。
都道府県の医師数は、地元での医師養成数と相関する(図2)。西高東低の形で医師が偏在するのは、西日本の医師養成数が多いからだ。
こうなるのは、我が国の近代史が影響している。現代の統治体制ができたのは、明治維新から戦前にかけてだ。中心になったのは、薩長を中心とした西国勢力である。
戊辰の内戦に勝利した西日本には、官立の高等教育機関が優先的に設置された。この中には幕末の藩校が、そのまま国立大学へと発展したものが少なくない。一方、東日本では、佐倉藩、会津藩、水戸藩などに有力な藩校が存在したが、いずれも途絶えている。
佐倉藩は「西の長崎、東の佐倉」と呼ばれるくらい蘭学が盛んで、佐倉順天堂は幕末の我が国の学問をリードしたが、明治維新後は佐倉藩の財政支援が途絶える。明治政府は、順天堂の堂主だった佐藤尚中を大学東校(現在の東大医学部)の初代校長に任命する。
幕末から明治にかけて、西洋医学に通じた有為な人材は限られている。このような人材は明治政府が登用し、この結果、東日本では藩校が廃れ、高等教育機関の設置は後回しにされた。
戦前、九州には九州帝国大学、熊本医科大学、長崎医科大学の3つの官立大学が存在したが、関東・甲信越・東北地方に存在したのは、東京帝国大学、東北帝国大学、新潟医科大学、千葉医科大学の4つだけだ。
この格差を、高度成長期の一県一医大政策が更に拡大した。1980年当時、総人口416万人だった四国には新たに愛媛県、高知県、香川県に3つの国立医学部が新設されたが、人口474万人の千葉県は千葉大学があるという理由で新設されなかった。
このような格差が拡大したのは、西日本の県の面積は小さく、東日本は大きいからだ。これは明治維新の勝者である西国は、各藩が独立を維持できた一方、東日本は合併を余儀なくされたためだ。
国立大学の「東西格差」は「医学部格差」
医学部の予算は多い。国立医科大学が受け取る運営費交付金は、医学部がない総合大学とほぼ同額の50億~60億円である。この結果、国立医学部の有無が、地域の高等教育に投入される税金を規定する。九州、中四国には国立大学医学部がない県は存在しないが、東日本では、神奈川県、埼玉県、栃木県、福島県、岩手県に国立大学医学部がない。それ以外には、奈良県と和歌山県がそうだが、いずれも戊辰戦争で幕府と近かった地域だ。
県民一人あたりに直した国立大学の運営費交付金は、圧倒的な西高東低だ(図3)。トップの京都府と最下位の埼玉県では、実に29倍の差がある。教育格差は、地域の人材格差を固定する。ノーベル賞受賞者から、総理大臣まで、西高東低の偏在が続いているのは、このような事情が影響しているのだろう。
茨城県が2位につけるのは、1970年代、東京都文京区にあった東京教育大が茨城県新治郡桜村(現つくば市)に移転し、筑波大学となったからだ。一県一医大政策で医学部が新設された筑波大学が受け取る運営費交付金は396億円(2019年度)で、東北大学や九州大学などの旧七帝大と同水準だ。つくば市は教育都市として発展し、2005年にはつくば市と秋葉原を結ぶつくばエクスプレスが開業した。教育が地方都市を発展させた事例だろう。
医療政策を議論する際には、歴史的、国際的視野に立った議論が必要だ。医師偏在対策では、このような見地が決定的に不足している。近年、日本の地盤沈下が指摘されて久しいが、その理由の一つに合理的な対応をしていないことが挙げられるだろう。