

吉村良和(よしむらよしかず)
京菓子司〈亀屋良長〉八代目。1973年京都生まれ。大学卒業後、家業に入る。脳腫瘍を克服した経験を契機に、伝統製法を守りつつ異業種コラボや健康志向菓子、SNS発信など新領域を開拓。京都菓子文化の伝承と革新の両立をめざす。
明治維新と世界大戦を乗り越え220年
徳永 和菓子の歴史を簡単に教えて下さい。
吉村 古代の菓子は、果物や干し柿、木の実などを総称して「くだもの」と呼んでいました。奈良・平安時代に油で揚げた「唐菓子」が中国から伝来し、鎌倉時代には禅宗とともに喫茶と点心(羊羹や饅頭等)が伝来します。日本人は仏教の影響で獣肉を避けたため、元々は羊のスープだった羊羹が日本では小豆や寒天を用いて練り蒸す菓子に、饅頭は肉の代わりに野菜や小豆を詰める形に変化しました。
外来のものを取り入れつつ、日本流にアレンジする柔軟性は古くからありました。安土桃山時代になると、ポルトガルやスペインから「南蛮菓子」が伝わります。カステラや金平糖、鶏卵素麺、ボーロなど、今でも親しまれている菓子です。
そして江戸時代には、砂糖の流通とともに和菓子が完成しました。ただ、砂糖は非常に高価だったため、茶道用のお菓子やハレの日の食べ物として用いられました。明治維新後、西洋文化の影響で和菓子にもバターや乳製品が使われるようになり、西洋の技術も取り入れたお菓子作りが進みました。
徳永 会社の歴史も教えて下さい。
吉村 当店は京都市中心部の醒ヶ井通沿いに位置しています。醒ヶ井通から1キロ程南に、左女牛井(さめがい)という井戸があり、江戸時代には京都三名水のひとつとして名高かったと言われています。伝承によれば、茶人の村田珠光がこの水を求めて移り住み、千利休もこの水を茶の湯に使用したとも言われています。1803年、当時「亀屋良安」の番頭をしていた創業者は、店の焼失を機に「亀屋良長」を創業し、以来220年以上続く店となりました。
徳永 歴史が長ければ苦労も多かったはずですね。
吉村 例えば、明治維新の時は遷都に伴い京都の人口は急減しました。和菓子屋も輸出を考えたり、洋菓子の要素を取り入れるなどして生き残りにかけたそうです。また、第二次大戦終結後は深刻な砂糖不足に悩まされました。先々代は医療用ブドウ糖で飴を作るなどして難局を乗り切ったそうです。
コロナ禍でSNS活用とオンライン受注に活路
徳永 吉村さんご自身について教えて下さい。
吉村 私は大学卒業後の1998年に家業に入りました。バブル期には、当店でも作れば売れる好景気が続き、前年比20%増の年もありました。ところが1990年代に入りバブルが崩壊すると売上が減少を続けます。阪神淡路大震災やリーマンショックなどの影響も重なり、京都の和菓子業界全体が斜陽産業と呼ばれるようになりました。当初はあまり深く考えずに家業に入りましたが、売上状況や借入金の存在が見えてくると、店がなくなるかもしれないと危機感を強めました。
徳永 継ぐ葛藤はあったのでしょうか?
吉村 当初、京都での街中暮らしが嫌で、また、両親とも関係が良くなかったため、府外の大学に進学しました。京都に戻る気はなかったのですが、当時は就職氷河期で、友人からも「家業があるなら継いだら」と勧められました。少し働いて嫌なら辞めようと思っていたので、継ぐというより、家に就職するという感覚だったかもしれません。ところが、3年目に母の脳腫瘍が見つかり余命3カ月と宣告されました。私もその頃に結婚したこともあり、徐々に継ぐ決心がついていきました。
店を継いでから、自分の代で潰してしまえば先祖に顔向けできないとプレッシャーに感じる一方で、毎年のように赤字が膨らむやり場のない苦しさを抱える時期が長く続きました。そんなさなか、今度は私自身が30代前半で脳腫瘍と診断され、大きな手術や放射線治療、抗がん剤治療を受けることになりました。幸い手術は成功し、後遺症も軽度で済みましたが。
徳永 最近だと新型コロナウイルス禍も大変だったのではないでしょうか。

吉村 コロナ禍で京都への観光客が激減し、2020年4月には売上が前年同月比で7割減少しました。店を開けてもお客がほとんど来ない状況に直面し、実店舗での販売が見込めない中、オンライン販売に本腰を入れることを決断しました。ただ、何事も景気のせいにすると思考停止になるので、私自身も努力しました。Xやインスタグラムを活用し、オンライン注文に対応できる体制を急速に整備しました。また、職人が羊羹に波紋をつける工程を短い動画で投稿したところ、SNSで注目され、当店のサイトへのアクセスが急増し、全国からオンライン注文が殺到しました。
コロナ禍で大打撃を受けたのは当店だけではありません。京都の老舗仲間も同様で、危機感を共有していました。そこで何軒かに声をかけて「老舗セット」を企画し、複数店の主力商品を共通の箱に詰め、弊社で発送事務を一括して請け負う形です。これもSNS発信によって売れ行きがよく、参加店からも「こんなに反響があるとは思わなかった」と驚かれるほどでした。非常時にこそ新たな形での連帯が生まれたと感じています。
続ける仕事、売れる仕事、やりたい仕事
徳永 老舗であることの強みと弱みを教えて下さい。
吉村 いちばん大きい強みは信用ですね。220年続いている京都の老舗という事で、取引先も百貨店も声を掛けて下さります。これは先祖が積み上げてくれた財産であり感謝しかありません。半面、舵を切りにくいのが老舗の弱みです。代替わりしても、先代、先々代が健在で、親族や古くからの社員もいます。新しい挑戦を提案すると「そんなことは許されない」とブレーキが掛かることもあります。
徳永 老舗の場合、血縁の近いメンバーで経営していると価値観が内向きになりがちなどの課題もありますでしょうか。
吉村 古い業種には業界の常識がありますが、お客様は必ずしもその物差しで見ていません。外部の人は率直に 「それ、わかりにくいですよ」 と指摘してくれますので、自分を客観視できます。弊社では、妻や異業種出身の社員は私が見落としている部分を鏡のように映してくれます。今の時代、ネットで何でも翌日に届きますし、和洋菓子店もレストランも飽和状態で競争は激しいです。そんな環境では同じやり方を守っているだけでは生き残れませんので、外で培ったノウハウを異文化として取り込むことで、店の色を保ちながら新しい価値を出すことは重要です。新しく入った社員には「何か気づいたことがあれば遠慮なく教えて」と頼むようにしています。
徳永 製品や社風で「変わった部分」と「変わらない部分」を教えて下さい。
吉村 いわゆる「不易流行」ですね。弊社の不易は、お客様の思いを菓子という形にして喜んでもらうこと。弊社は上菓子屋といって、注文を聞いてお客様の要望に合わせて菓子を作る店でした。その意味で、お客様の思いを形にする仕事です。一方で、言い方が適切かはわかりませんが、お客様は時代とともに変わっていきました。
例えば、羊羹です。大家族が多かった時代には、長い羊羹を一本丸ごとお土産等で持参する人も多かったのですが、核家族化で「食べきれない」と敬遠されるようになり売れなくなりました。外から嫁いできた妻や若手の女性職員の意見で、羊羹を薄く切って個包装し、パンと一緒にトースターで焼くスライス羊羹や、小さく個包装してナッツを加えたオリジナル羊羹が生まれました。
それから、お汁粉。徳永さんは、夏に食べるお汁粉があるってご存知ですか?
徳永 え? あのアツアツの?
吉村 はい、懐中汁粉といって、暑い夏に熱いものを食べて涼をとるという食習慣がありました。弊社でも夏場に売っていたのですがこれが中々売れずに困っていました。これについては妻の助言で、おみくじ付きにリブランディングして冬に売るようにしたら途端に売れるようになりました。

徳永 貴社には、創業当初から続ける仕事、売れる仕事、やりたい仕事、の3つの仕事があると伺いました。
吉村 弊社では黒糖を加えたこしあんに寒天を流し固めた烏羽玉というロングセラー商品を扱っていて、配合や型の大きさ、素材は微妙に変わっていますが、基本的に創業当初から続けています。

売れる仕事は、依頼に応えること。先述のように上菓子屋として注文を受けてから菓子を作りますが、現代では、結婚式の引出物、企業の周年菓子、アニメコラボ菓子などが多いです。デパートや取引先から「こんなモチーフの菓子を作ってほしい」「洋風の素材を使ってみてほしい」と頼まれたら、とりあえず「やってみます」と返事する。簡単ではありませんが、試作を重ねていくうちに、新しい技法や素材との出会いが増え、結果的に商品企画の幅が広がりました。頂いたお題に対して「どう形にすれば依頼主が一番喜ぶか?」を考えるようにしています。
やりたい仕事とは、自分が大事にしている方向性に合ったお菓子作りです。例えば、テキスタイルブランドと組んで、可愛いパッケージに伝統的な和菓子を詰め合わせて販売したり、チョコレート専門店と組み、ドライフルーツやナッツ、ラム酒などを使った和洋折衷の羊羹を開発したり、他にも、トマトやバジルなど、「まさか和菓子に?」というような素材を使ったりしました。
私自身が術後に体質が変わり、動物性のものや精製度の高い材料の和菓子を食べると体調が悪くなるようになったので、血糖値を上げにくい甜菜糖やココナツシュガーを中心に使い、動物性食品をほとんど使わない「身体にやさしい和菓子」も開発しました。ただ、あまりに尖り過ぎると世間との乖離になるのでそこは気を付けています。
家訓「懐が澄む」
徳永 家訓はございますか?
吉村 当店には、二代目の時代から伝わる家訓として「懐(ふところ)が澄む」という言葉があります。これは「適正な利潤を上げることは悪ではない。正しい利益を得て、それを社会や従業員、取引先、お客様などに循環させるのが商人の務めなのだ」という教えです。京都という土地は昔から大きく儲けることに対して、どこか後ろめたいイメージを持ちやすいと言われます。儲かっている店は何か裏があるのではと勘繰られがちです。
この家訓はお金を水にたとえ、水を溜め込むと腐るように、利益も循環させなければならない、と説いています。社会や周りに生かされるような使い方をしてはじめて、お金は清らかで尊い意味を持つ。そんな先人の精神に、今も学び続けています。
もう一つ、父や祖父からは「菓子屋は大きくし過ぎるな」と繰り返し聞かされました。
徳永 悩ましいですね。規模が拡大すると店主のカラーが薄まるという話でしょうか。
吉村 昔は今のような情報伝達手段がなかったので、大きくすると目が届かなくなるという話だと思うのですが、今でもこの言葉が頭の片隅にあります。私は「規模拡張=悪」ではなく、どのような方法ならば規模の拡大が許されるのか、立ち返り自問自答するための指針として受け止めています。和菓子業界にも、製造、営業、広報、経営を一人でやっている職人はいます。その気持ちは痛いほどわかります。自分でやる方が早いし納得できる品質が保てます。しかし、それでは、量産できずに一代で途絶えてしまうかもしれない。視野が狭まるという問題もあります。
弊社も少し前までは従業員の数も20人程度で、その頃は私自身が工房に立って全工程を確認できましたが、現在は約60人に増えました。私が抱える仕事も増え、自分の目で見届けられない工程も出てきました。店のカラーを保ちながら各現場の個性も活かす、このバランスが難しいです。個々が一定レベルの技術を持ちながら、複数人でアイデアを出し合う二層構造が理想だと思っています。
注意しているのは、競争を煽り過ぎないことです。一人ひとりが一定の技量に達しないと全体が回らないので個人技で基礎を固めるのは大事ですが、和菓子はチーム作業が多いので、全体の雰囲気がギスギスすると品質が落ちます。特に、商品開発では冗談が飛ぶような楽しい雰囲気で出てきた企画ほど、商品にも楽しさが乗ります。

相次ぐ「20代の離職」を防いだ社内プロジェクト
徳永 昔の和菓子は、高級な砂糖をふんだんに使う贅沢品で、日常的に食べるものではなかったと聞きました。今は砂糖の値段も下がり、健康志向など人々の嗜好は大きく変わったと思います。吉村さんにとって令和の時代における「究極の和菓子」とは何でしょうか?
吉村 例えば、茶道の場面で本当においしい和菓子とは、邪魔せずにお茶を主役に立てる、いわば、口にして「抹茶がおいしい」と感じられるような菓子です。香りが強すぎる素材を使ったり、抹茶に抹茶入り菓子を合わせると主役がぼやけてしまいます。茶道の場面以外で言えば、「おいしすぎない」というのが良いお菓子でしょうか。
徳永 おいしすぎない、ですか?
吉村 本来、人間は体に必要なものをおいしいと感じるはずです。適量で「もう十分」と思えるのがちょうど良いおいしさですね。一方で、ジャンクフードのようなものに含まれる強烈な甘味や脂肪は味覚や感覚を麻痺させ、中毒的に量を食べさせてしまいます。ストレス社会では刺激の強い味が求められがちです。作り手としては、適量で満足できる味で、それでも自然と手が伸びるような味を大事にしています。
徳永 非常に興味深いですね。ですが、「おいしすぎない」という感覚を社員に指導するのは難しそうです。後継者育成や技術伝達に際して、「これが正解の味」と教えるプロセスは、どのように組み立てているのでしょうか。
吉村 伝統菓子には最低限守るべき配合・形の基準があります。口頭と作業中の所作で示し、ここが外れると当店の味ではないという座標軸を共有します。ただし細部まで手取り足取りは教えません。やはり作り手が五感で確かめ、違いを掴み、失敗から学び、自分の感性を信じることが上達の近道だからです。例えば粒餡を作るなら、 生の豆、一段階煮た豆、二段階煮た豆、三段階煮た豆、砂糖蜜に浸した豆、完成品の餡にした豆など、全段階で必ず味見するように言っています。
徳永 とても素晴らしい学びの場ですね。
吉村 ただ、人材確保は簡単ではありません。せっかく育てた若手が数年で辞めてしまう、という事も何度もありました。5年前に20代社員の離職が続いたのを機に、社内プロジェクト「かめや和菓子部」を創設しました。和菓子業界では、自分が意匠した和菓子が店に出るのは仕事の醍醐味とも言えますが、実際は10年程経たないと自分の菓子を出せないのが通例です。若い人はその10年が待てずに辞めてしまいます。
振り返ってみると、私自身は跡取りという立場で、時には父親である社長への従業員の鬱憤のはけ口にされたりもしましたが、それでも自分で新商品を考えて売ったりできていました。そこで、かめや和菓子部では、製造・販売・事務の混成チームで、若手の作品を1週間限定で店に並べるようにしました。POP制作やSNS発信も彼らに任せます。すると、それまではあまり練習をしなかった社員も、勉強・試作へのモチベーションが一気に上がり、私の指摘にも真剣に耳を傾けるようになりました。当事者意識が出て、それだけ熱量も上がりました。独立する人も増えて、この10年間で10名が自分の店を持ち、台湾・米国・チリといった海外でも活躍しています。
おいしいものを食べている時、人は喧嘩しない
徳永 伝統とは何でしょうか?
吉村 先人からの知恵の結晶が伝統だと思います。実は病気になった時にヨガと瞑想を習ったのですが、それを機に、伝統を守ることが目的ではなく、先人の知恵の結晶である伝統を道具として使い、現代の人に喜んでもらう営みが重要だと考えるようになりました。京都の和菓子屋は「うちはうちのやり方がある」というスタンスで、依頼や要望を断ることが多々あります。材料や製法はこうでなければならない、という頑固さを誇りとする面がありますが、私自身は、これまで「伝統だから当たり前」だと思っていたことが、単に自分の拘りだったことに気づきました。
徳永 なるほど。正しいものを残すのではなく、残ったものが正しい、のかもしれませんね。吉村さんは日本語を例に挙げていますね。
吉村 歴史的に様々な語彙が外国から日本に伝わりました。文法も大きく変わったでしょう。「全然大丈夫」のように本来文法的に誤った表現も日常的に聞こえるようになりました。その意味で、正しいことも大事ですが、伝わることも大事だと思うのです。もちろん、せっかく伝えるならいい言葉を喋りたいし、人が喜んで幸せになるように話したい。弊社は和菓子という言葉しか喋れませんので、引き続きこの「言葉」を磨いていきたいと思います。
徳永 伝統に頑なに忠実であり続けるのは、令和に平安時代の言葉を話すようなものなのかもしれませんね。そんな吉村さんは、今どんな思いで仕事をされていますか?
吉村 最終目的は世界平和です。おいしいものを食べている瞬間、人は喧嘩をしません。以前、中国素材と日本素材を合わせたお菓子を京都で披露した際、中国の方も日本の方も同じ笑顔になりました。その時に、和菓子の和は、和えるの和という意味もあるのだなと実感しました。また、欧米のお菓子は、スパイスを利かせ、フルーツや乳製品を加えるなど「足し算」の手法で作られますが、日本の和菓子は水で煮てあくや雑味を取り、素材のエッセンスを浮かび上がらせる「引き算」の手法で作られます。その手法ゆえに、喧嘩をせずに様々な外的な要素を取り入れることができたのだと思います。
京都は世界的にも強いブランド力を持つ都市です。何度も戦災や災害を経験しながら、1000年以上にわたって都としての歴史を紡ぎ、国内外から観光客が後を絶ちません。その源泉は外来の文化を取り入れながらも京都らしさを形作っていく柔軟性なのかもしれません。
徳永 素敵なお話をありがとうございました。
