「脱炭素化ビジネス」を中東外交の新たなレバレッジに位置付けよ――岸田首相の湾岸諸国歴訪が持つ意義とは

執筆者:村上拓哉 2023年8月7日
タグ: 脱炭素 日本
エリア: 中東
各国政府・企業と日本企業との間で50本以上の覚書が結ばれた[岸田首相を歓迎するサウジのムハンマド皇太子=2023年7月16日、サウジアラビア・ジェッダ](C)AFP=時事/SPA
安全保障色が強かった安倍政権の中東外交に比較して、岸田首相の湾岸諸国歴訪はビジネス、特に脱炭素分野の関係深化が前面に押し出されるものになった。「脱エスカレーション」という中東情勢の潮流と、石油・ガスにおける日本の購買力の相対的低下をふまえれば、脱炭素ビジネスを中東外交の新たなレバレッジに位置付けることは合理的な選択だと言えるだろう。

 リトアニアで開催されたNATO(北大西洋条約機構)首脳会合に出席した岸田文雄首相は、その帰路にてサウジアラビア、UAE(アラブ首長国連邦)、カタールの3カ国を7月16日から18日にかけて訪問した。日本の首相によるサウジ、UAE訪問は3年半ぶり、カタール訪問は10年ぶりとなる。

 驚くべきことに、日本の首相による中東訪問は、通算で9年近く在任していた安倍晋三首相を除くと2006年の小泉純一郎首相以来のことである。安倍首相が中東へ外遊したのは10回、延べ訪問国数は26カ国(そのうちUAEが4回で最多訪問)。この16年間、中東における日本の首脳外交は安倍カラーに染められたものであり、それ以外のものを見ることはかなわなかった。

安倍政権期の中東外交とは異なるスタンス

 今回の岸田首相の訪問の概要は外務省のホームページにて総花的にまとめられているが、特筆すべきことは以下の2点に集約されている。

 まず、経済外交を推進することが前面に押し出された歴訪となった。エネルギー調達の安定化に加え、中東地域を将来のクリーンエネルギーや重要鉱物のグローバルな供給ハブとし、水素・アンモニアの製造や脱炭素技術の実用化に向けて連携を強化していくことが提案された。また、先端技術分野等で各国の経済・産業多角化に日本が関与していくこと、日・GCC(湾岸協力理事会:サウジアラビア、UAE、カタール、クウェート、バーレーン、オマーン)間のFTA(自由貿易協定)についても2024年中に交渉を再開することで一致した。

 岸田政権下で首相の外遊に大規模な経済ミッションが同行したのは今回が初めてのことである。首相滞在中に各国で開かれたイベントも、「日・サウジ・ビジネス・ラウンドテーブル」、「日・UAEビジネス・フォーラム」、「日・カタール・ビジネス・レセプション」とビジネス関連のものに限定され、訪問各国の企業と日本企業とのマッチング機会を設けることが優先された。首相滞在中に各国政府・企業と日本企業との間で50本以上の覚書が結ばれている。

 そして、経済外交に重点が置かれた裏返しとして、伝統的な外交・安全保障問題は主要な議題とならなかった。日・GCC外相会合の定例化、日・サウジ間での外相級戦略対話の実施で合意する等、中東諸国との対話枠組みを発展させる動きはあったが、特定のイシューに対する具体的な議論や成果は明らかにされていない。

 3年半前の安倍首相による中東訪問(サウジ、UAE、オマーン)では、2019年半ばから緊迫化していた中東情勢の安定化が呼びかけられた他、訪問直前に閣議決定された海上自衛隊の護衛艦の中東への派遣について各国に理解を求める動きがあった。さらにその前には日本の首相として41年ぶりとなるイラン訪問を果たし、米国や湾岸諸国との仲介にも奔走している。安倍首相は任期中にイスラエル、パレスチナ、ヨルダンを二回ずつ訪問しており、パレスチナ問題の解決にも精力的に取り組んだ。安倍政権期の日本の中東外交は安全保障色が強く、今回の岸田首相のスタンスとはかなり趣を異にしていたと言えよう。

背景には「安定化に向かう中東」

 経済重視が中東外交における岸田カラーと呼ぶべきものかは現段階ではわからない。だが、中東における潮流の変化に対応したものではあろう。

 先日『フォーサイト』内の「池内恵の中東通信」でも触れられていたが、近年の中東情勢は「脱エスカレーション」が大きな潮流になっている。2020年のアブラハム合意によるアラブ諸国とイスラエルの国交樹立、2021年のカタール断交解消、そして今年3月のサウジアラビアとイランの国交正常化と、中東情勢に多大な影響を与えてきた国家間の対立構造が解体に向かいつつある。

 無論、これらの情勢変化は今も続くイエメンやシリア、リビアでの内戦にすぐさま終止符をもたらすようなものではなく、長年苦境にあえぐパレスチナの人々の窮状を解消させるものでもない。

 しかし、日本のエネルギー安全保障に直結する、ホルムズ海峡を含むシーレーンの安全確保という観点においては、地政学的なリスクが数年前と比べて大きく低下していることは疑いない。

 2019年に緊迫化したサウジ・イラン間の対立は同年9月のサウジ・アラムコ施設への攻撃、そして米国とイランの対立は2020年初頭の米軍によるイラク国内でのイラン革命防衛隊司令官の爆殺と、報復としてイランがイラク国内の米軍基地に弾道ミサイル攻撃を行ったことをもってピークに達した。中東域内には一時期米国の空母打撃群2個と水陸両用即応群1個が展開されてイランに対する抑止が強化されたが、その後の緊張緩和により、2021年9月以降は中東に空母打撃群は一度も派遣されていない。

 サウジ・イラン間の争点はイエメン紛争への対処等を筆頭にほとんど解決が見られておらず、国交正常化合意から2カ月以内で再開させるとした大使館についても、サウジ側の在イラン大使館は4カ月経った今もまだ再開していない。直近でもイラン軍による第三国のタンカーの拿捕やそれに対峙する米軍の増強の動きがある等、地域における紛争の種は残されたままとなっている。しかし、かつてのような軍事的な緊張の高まりを警戒すべきフェーズは既に過ぎ去っており、日本が緩和を呼びかけるべき「緊張」はもはやないと言っても過言ではないだろう。

 そうなると、今回の岸田首相の中東訪問において伝統的な外交・安全保障問題が議論の中心にならなかったのは自然な成り行きだったと言える。

 日本は中東諸国から中立的な立場にあると見られており、仲介役の役割を期待されることが多かった。対話促進プログラムの運営等、地道ながら息の長い取り組みをすることで、域内からも国際社会からも一定の評価を受けてきた。しかし、こうした中立的な立場からの外交は、域内の対立が激しい際には双方に接触できる立場を活かせるものの、情勢が安定化に向かっている平時においては強みを発揮できる場面がほとんどない。

「石油・ガス輸入国」としての日本の影響力は低下

 とはいえ、岸田首相の経済重視姿勢は、他に協議することがなかったという消極的な理由でなされたわけではないだろう。脱炭素化ビジネスを中核に据えた中東諸国との経済関係の強化は、日本の強みと現下の国際情勢に即した外交戦略である。

 中東における日本の外交力の源泉は……

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カテゴリ: 政治
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執筆者プロフィール
村上拓哉(むらかみたくや) 中東戦略研究所シニアフェロー。2016年桜美林大学大学院国際学研究科博士後期課程満期退学。在オマーン大使館専門調査員、中東調査会研究員、三菱商事シニアリサーチアナリストなどを経て、2022年より現職。専門は湾岸地域の安全保障・国際関係論。
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