地域大国エチオピアで続く日本の人的「空白」

執筆者:篠田英朗 2024年1月11日
タグ: 紛争
エリア: アフリカ
ティグレ地方の険しい高地。TPLFはこの地形を活かして、ゲリラ戦に持ち込んだ
「アフリカの角」の大半を占めるエチオピアは、FOIPの観点からも軽視できない。2020年11月に勃発したティグレ紛争では国連安保理が機能せず、ロシア・ウクライナ戦争の陰で援助資金が枯渇するなど、その現実は現代の国際情勢を反映している。確かにエチオピアは関与の在り方が難しい国だ。しかし、だからこそここに人的ネットワークを発展させ、人材育成を図る現場として位置づける視点が重要になる。

 アフリカ連合(AU)の本部は、東アフリカの地域大国エチオピアの首都アディスアベバに置かれている。GDP(国内総生産)や人口でエチオピアを上回る国は、アフリカにも他にある。しかし欧州列強の植民地化をはねのけたエチオピア帝国の誇り高い歴史を持ち、アフリカ大陸中央部に近い東部沿岸の地理的立場の優位は、エチオピアに独特の事情だ。

 アフリカの玄関口としての立場を意識したエチオピア航空の路線の充実からは、筆者も恩恵を受けている。数十年前であれば、アフリカ大陸の中で別の国に移動する際に、中東あるいは欧州を経由したほうがかえって早い、といった場合が多々あった。現在は、相互の直通便が充実してきている。特にアディスアベバを起点にした大陸内外の主要ルートを網羅するエチオピア航空の存在は大きい。

「アフリカの政治首都」と呼ばれることさえあるアディスアベバは、アフリカ大陸において特別な性格を持つ大都市だ。アディスアベバの人口は現在400万人弱程度だが(エチオピア全体の人口は1億2380万人)、アフリカ全域の急激な人口増加と都市化を象徴する町になっており、2100年までにアディスアベバは現在の10倍近い3500万人以上の人口を擁する世界有数の大都市になると予測されている。

 もっとも、長期にわたる内戦をへて1993年にエリトリアが分離独立したときから、エチオピアは沿岸部の領土を失い、内陸国になってしまっている。これはエチオピアの対外政策の方向性に大きく影響する重要事実である。

 海へのアクセスを欠いているエチオピアにとって、ジブチとの関係は生命線である。加えてエリトリアとの複雑な関係、そしてソマリア情勢への深い介入の歴史は、内陸国となった「アフリカの角」の地域大国エチオピアの運命を考えることなくしては、理解できないだろう。貿易だけの話ではない。エチオピアは、内陸国でありながら、海軍の建設を悲願としている。果たしてどの国にその拠点を置くのか、大きな注目点となっている。

 青ナイル川の上流にある地の利点を活かして建設したGERD(グランド・エチオピア・ルネサンス・ダム)をめぐっては、下流に位置してダムの使用に制限をかけたいエジプトと、エチオピアは激しく対立している。背景には、この地域の巨大な人口増加圧力と気候変動による水不足の深刻化がある。両国ともに死活的な国益がかかっている問題だと認識しており、両国がいずれ武力衝突する、と予測する者も少なくない。アフリカの地域大国である両国間の緊張関係は、すでに現時点で、地域情勢に大きな影を落としている。

 内陸国とはいえ、アフリカの角の大半の面積を占有し、周辺国に様々な影響を及ぼしているエチオピアの動向は、FOIP(自由で開かれたインド太平洋)の観点からも、軽視してはならない重要な観察ポイントである。

アビィ政権登場の高揚

アクサムの1700年ほど前のオベリスク(巨石柱)。シオンのマリア教会(エチオピア帝国時代に建造)の向いに復元された。いずれもエチオピアの歴史の豊かさを物語る重要遺跡

 エチオピア帝国は、過ごしやすい気候の高地に栄えた。険しい山脈に囲まれた中での繁栄は、外敵からの防御には優れていた。しかし広大で肥沃な平地で行うような農業生産を充実させることはできない。コーヒーなどの輸出品目に産業が依存している。食糧生産が不安定なため、「アフリカの角」に飢饉が訪れるたびに、エチオピアの人々は繰り返し危機を経験してきた。穀物供給源であるウクライナとロシアが戦争状態になり、黒海を通じた輸入が止まると、エチオピアにも甚大な影響が及ぶ。現在も生活品の激しい物価高の状態にある。

 約80の民族を抱えていると言われ、地形の険しさも手伝って、国内情勢は複雑だ。冷戦時代のエチオピアは、1974年に軍のクーデターで君主制が廃止されてから、ソ連の庇護を受ける社会主義国家となった。1977年に実権を握ったメンギスツ・ハイレ・マリアムが、数十万人が犠牲になったと言われる抑圧的な独裁政権で統治する一方、北のエリトリアとティグレ、そして東のオガデンで、長期にわたる内戦を続けた。

 1991年にメンギスツ政権を倒したのは、主にEPLF(エリトリア人民解放戦線) とTPLF(ティグレ人民解放戦線)の勢力であった。その際にアディスアベバにEPRDF(エチオピア人民革命民主戦線)による政権が樹立された。その後、1993年にEPLFが支配する形でエリトリアが分離独立を果たしたため、エチオピアの統治は、有力ではあるが少数民族であるティグレ人が主体となったTPLFが主導する形で進められた。

 大きな転機が訪れたのは、2018年にアビィ・アハメドが、エチオピア最大民族オロモ出身の初めての首相として選出された時である。国民統合を訴えて「平和省」を設立して民族和解に取り組む姿勢をアピールしたり、エチオピア航空等の主要産業を牛耳っていた国営企業の民営化を進めたりしながら、アビィは、外政面では、長年の懸案事項となっていたエリトリアとの関係改善に努めた。

 アビィ首相は、国境紛争の火種となっていた町バドメの帰属問題について、エリトリアへの譲渡を認める譲歩を行い、これを受けて「アフリカの北朝鮮」と称されるエリトリアの独裁者イサイアス・アフェウェルキ大統領との間で歴史的な首脳会談を行い、戦争状態の終結を謳う平和友好の共同宣言を発した。仲介にあたったのは、ジブチに隣接して紅海に面するエリトリアのアッサブに初の海外軍事基地を設置したUAE(アラブ首長国連邦)だったが、歴史的な和解を通じて、エチオピアもエリトリアの港湾の使用許可を得た。両国にはサウジアラビアも接近して、中東の地域政治が東アフリカに持ち込まれる形となった。さらにアビィ首相は、2019年にノーベル平和賞を単独で受賞し、国際的な注目を集めた。

 筆者は、アビィ政権が成立してから、各国のエチオピアを見る視線が変化したことを感じ、2018~20年の期間からエチオピアに足を運び始めた。当時のエチオピアは、ソマリアのAMISOM(アフリカ連合ソマリア・ミッション)に加えて、スーダン・ダルフール地方のUNAMID(国連アフリカ連合ダルフール派遣団)とアビエイのUNISFA(国連アビエイ暫定治安部隊)、そして南スーダンのUNMISS(国連南スーダン派遣団)と、周辺国のそれぞれの大規模な国際平和活動ミッションに数千人単位で兵力を提供しており、要員派遣数で世界一になっていた。そこでエチオピア軍が運営するPKO訓練センターを訪問すると、アメリカ、イギリス、フランス、さらにはブラジルなどから派遣されてきた者が常駐して、関係構築に努めていた。日本もアディスアベバの防衛駐在官が足しげく通って、財政支援を提供していた。

 当時の雰囲気は、慎重さを失わず国内情勢を見極めながらも、アビィ政権がもたらした変化の波に乗り遅れないように布石を打っておく、というものだったと言える。つまり社会主義政権の歴史が長く、近年は中国からの大規模な支援・投資も受け入れていて、反欧米的な政治文化の伝統を持つエチオピアが、より自由主義諸国寄りになるとしたら、それはもちろん大歓迎しなければならない、という雰囲気だった。

ティグレ紛争で反欧米に舵を切った連邦政府

 状況が一変するのは、2020年11月に勃発したティグレ紛争である。上記の通り、1991年以来、エチオピア連邦政府の実権を握っていたのは北部ティグレを基盤にするTPLFの勢力であった。

カテゴリ: 政治 軍事・防衛
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執筆者プロフィール
篠田英朗(しのだひであき) 東京外国語大学大学院総合国際学研究院教授。1968年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業、同大学大学院政治学研究科修士課程、ロンドン大学(LSE)国際関係学部博士課程修了。国際関係学博士(Ph.D.)。国際政治学、平和構築論が専門。学生時代より難民救援活動に従事し、クルド難民(イラン)、ソマリア難民(ジブチ)への緊急援助のための短期ボランティアとして派遣された経験を持つ。日本政府から派遣されて、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)で投票所責任者として勤務。ロンドン大学およびキール大学非常勤講師、広島大学平和科学研究センター助手、助教授、准教授を経て、2013年から現職。2007年より外務省委託「平和構築人材育成事業」/「平和構築・開発におけるグローバル人材育成事業」を、実施団体責任者として指揮。著書に『平和構築と法の支配』(創文社、大佛次郎論壇賞受賞)、『「国家主権」という思想』(勁草書房、サントリー学芸賞受賞)、『集団的自衛権の思想史―憲法九条と日米安保』(風行社、読売・吉野作造賞受賞)、『平和構築入門』、『ほんとうの憲法』(いずれもちくま新書)、『憲法学の病』(新潮新書)など多数。
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