クオ・ヴァディス きみはどこへいくのか?
クオ・ヴァディス きみはどこへいくのか?

美しすぎるミャンマー民主化

執筆者:徳岡孝夫 2012年2月3日
エリア: アジア

 初めてビルマ(いまミャンマー)に行ったのは1964年、東京オリンピックの始まる半年ほど前のことだった。それまで私たちの一行6人は、オリンピック発祥の地であるギリシャのオリンピアに日本から日本製の車3台を海路輸送し、アテネの外港ピレウスに陸揚げしたのに乗り、オリンピアを起点に、ギリシャ―トルコ―シリア―レバノン―ヨルダン―イラク―クウェート―イラン―アフガニスタン―パキスタン―インドを50日間で走破した。
 本当なら上海まで走って車を日本に送り、さらに鹿児島から走り、その車で東京の国立競技場前にゴールインしたかったが、ビルマが国境を鎖し共産中国も外国人の入国を拒否していたので、五輪を機に「世界は1つ」と新聞紙面でアピールしようとしたわれわれの当初の計画は変更を余儀なくされた。

 カルカッタに着くまでに通過した各都市で、私はそれぞれの国の五輪委役員にインタビューし、彼らが「アジア初のオリンピック」に寄せる期待を取材し、それを東京に打電した。
 ところがカルカッタから空路ラングーン(今のヤンゴン)に着いたところで「アジアに帰ったぞ!」と叫びたい、ただし記事にはならない感動に襲われた。それは女性が、こちらを見てニッコリ笑うことだった。ギリシャ―インドの間の国々には、なかったオリエンタル・スマイルである。

 故梅棹忠夫氏は「南アジアはアラカン山脈で2つに分かれる。アラカンの西は西洋ではないが、もはや東洋でもない。それは中洋と呼ばれるべき地域である」と書いている。私はそれを、女性の微笑という形で実地に見た。
 お茶を運んできたビルマ航空の女性乗務員がニッコリ笑う。エレベーターの中で会った女性が微笑する。べつに意味ある微笑ではないが、客の心は和み、思わず微笑を返す。当時の日本女性も微笑しすぎるので、「特別な好意を持っているように誤解される」と「識者」が注意したものだった。

 微笑が媒介する親しさに加え、中年以上の日本人には竹山道雄『ビルマの竪琴』の残した、ビルマに対する優しい気持ちがある。「大東亜戦争に巻き込んで済まなかった」という意識、英軍との戦闘の中で戦死・戦病死した日本軍兵士への鎮魂の気持ちがある。「一緒に日本に帰ろう」という戦友の叫びを振り切ってビルマに残り、僧になった水島上等兵の心が、いまも尾を引いている。日本人はミャンマーに対して、どうしても厳しい態度を取れないのである。

 1960年代以来ビルマは、軍政に頼ってきた。多様の少数民族を抱え、止むを得ない国内事情もあるが、隣国タイに比べ甚だしい国力と民生の差である。
 ところがアウン・サン・スー・チーひとりの弁舌を恐れて自宅に長期軟禁してきたミャンマー政府が、最近になって急に民主主義に目覚めた。誰も圧力を加えた訳ではないのに、政治囚を釈放し、西側メディアの首都内での取材活動を許し、喜んだ米国は大使を送ろうかという形勢になっている。いったい何が突然ミャンマー軍部の態度を変えさせたのか? どのメディアも納得できる説明をしていない。何がミャンマーを豹変させたのか。

 私は1960年代のラングーンで、日本にも知られた政界有力者ウ・ヌー(1907-95)をインタビューしたことがある。ぶらりとホテルを出て散歩するフリをし、通りがかったタクシーを止めて住所を書いた紙片を見せた。
 ウ・ヌー邸前で待つと彼は出てきたが、会話は門の戸を隔てたままで行なった。最後に彼は「息子が日本の大学にいるんだ。このアドレスに連絡して、元気だと伝えてくれ」と言って所番地を渡した。親族との文通も禁じられているのだなと分かった。

 これもミャンマーのウォッチャーから説明のない点の1つだが、ミャンマーは北朝鮮と、一時断絶していた国交を回復した(2007年4月)。不思議な外交上の変身である。
 1983年10月、韓国の全斗煥大統領の一行がラングーンを訪問し、国父アウン・サンの廟に詣でようとした。その直前、廟の天井裏に仕掛けられていた時限地雷が爆発し、予定通りの時刻に廟内に整列していた韓国要人17人が死に、ビルマ側にも死者4人が出た。北朝鮮籍の船で逃げようとした2人が逮捕され、うち1人は死刑執行前に北朝鮮の特殊工作員である旨を自白した。
 ミャンマーは、そういうテロ行為を敢てした北朝鮮と復交したのである。

 現在進行中の民主化がどれほどミャンマーの本気または本音なのか、私は疑わしいと思う。そのうえミャンマーは中国の隣国であり、商業のかなりの部分は華僑に握られている。トクかソンか、変わり身の早い連中である。
 水島上等兵のような好意でミャンマーに接するのは立派だが、外交関係は必ずしも美醜善悪をもって決まるものではない。情勢を、しっかり見定めてから行動することである。

カテゴリ: カルチャー
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執筆者プロフィール
徳岡孝夫 1930年大阪府生れ。京都大学文学部卒。毎日新聞社に入り、大阪本社社会部、サンデー毎日、英文毎日記者を務める。ベトナム戦争中には東南アジア特派員。1985年、学芸部編集委員を最後に退社、フリーに。主著に『五衰の人―三島由紀夫私記―』(第10回新潮学芸賞受賞)、『妻の肖像』『「民主主義」を疑え!』。訳書に、A・トフラー『第三の波』、D・キーン『日本文学史』など。86年に菊池寛賞受賞。
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