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投稿者:
zarugo13
2017年01月06日12時19分
明治維新まで大宝律令が廃止されず日本の憲法だった、と小室直樹氏の本に書いてありました。
それって本当なのでしょうか?
浄御原令が大宝律令の元だったことは知りませんでした。
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投稿者:
sekiyuji
2017年01月06日21時31分
大宝律令が撰定されたあと、養老律令(七五七)など、改良が加えられていきました。ただ、「律令制度が原則」だったことは、たしかです。たとえば征夷大将軍は、坂上田村麻呂から、徳川まで・・・
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F
投稿者:
Feが趣味
2017年01月08日21時54分
>天武天皇は壬申の乱を制し、即位すると、皇族だけで実権を握り(皇親政治)、大鉈を振るって旧豪族から既得権益を奪い、改革事業に奔走した。・・・・・・・・・・・・・・・
提案が理に叶っていれば、法律にしようという。翌年の2月にも「律令を定め、法式を改めようと思う。分担して作業に取りかかるように」と、詔している。これが浄御原令で、天武天皇崩御ののち、持統3年(689)6月に、多くの中央の諸官庁に令(行政法)を分け与えた。
<鉄権益の争奪戦>
吉備の分国、持統3年(689年)の飛鳥浄御原令の発布により、備前国、備中国、備後国に分割、それから遅れること二十数年後の和銅6年(713年)に備前国から美作国を分立させた。
真金ふく 吉備の中山 帯にせる 細谷川の おとのさやけさ
「真金ふく」は吉備にかかる枕詞ですが、和歌に詠われるほど、鉄の日本での主たる産地として吉備は古くか知られていた。鉄生産の独占は吉備に巨大な富をもたらした。この既得権益を奪う為の吉備の分国であった。吉備一族から製鉄の既得権益を奪うことが飛鳥浄御原令の最大の目的と思われます。7世紀後半に製鉄が大和朝廷のものとなった事が、大和朝廷が吉備分国に踏み切れた原因と思われます。
<大和朝廷の製鉄>
7世紀後半より白水江(663年)の戦後対応の為に大和朝廷による直営の製鉄が、国家非常体制として開始されたようである。この時点で製鉄が吉備、半島のものから,大和朝廷のものとなった。大和朝廷にとって、百済復興戦は負け戦であったが長年の悲願であった、製鉄技術の獲得に成功した。
鉄生産地は原料である、海砂鉄の豊富な地域が選定されたと思われる。
<福島県>
福島県南相馬市の飛鳥時代(7世紀後半)から始まった製鉄遺跡。
(大和朝廷の製鉄コンビナート)
角型炉と大仏建立時に導入されたふみ鞴と組み合わせなど新しい工夫が見られる。
(Ⅱに続く)
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投稿者:
Feが趣味
2017年01月08日22時02分
(Ⅱ)
真金ふく吉備(岡山県)や滋賀県(瀬田丘陵製鉄遺跡、大和朝廷の製鉄試験操業地)からの移住者により創業したようです。(陶器より)
古代の鉄づくり-相馬地方の製鉄遺跡
http://www.mahoron.fks.ed.jp/kaisetsu/14_tetsu.pdf
相馬の製鉄遺跡群
http://www2.memenet.or.jp/kinugawa/yume/071001.pdf
<新潟県>
新潟県柏崎市奈良時代から~鎌倉時代(8世紀~12世紀)
古代の製鉄遺跡を探る ~柏崎市・軽井川南遺跡群~ 一般編
https://www.youtube.com/watch?v=VTqm-2Nr5yg
軽井川南遺跡群 下ヶ久保C遺跡・下ヶ久保E遺跡(柏崎市)
http://www28.tok2.com/home/hide3/2005nen/kuboisek.htm
製鉄利権で巨万の富を得ていた吉備は、6世紀後半に大和朝廷の弱体化政策をもろに被って苛め抜かれたようである。日本書紀に記された白猪屯倉や児島屯倉の設置は支配強化の楔であった。『日本書紀』の欽明16年(555)に初めて出てくる。この年の7月、大臣・蘇我稲目を派遣して、吉備五郡に白猪屯倉を設けた。敏達3年(574)年10月に、直接蘇我馬子が吉備国に乗り込んで、白猪の屯倉と田部を増やしている。大和朝廷で大臣であった二人が吉備に出向いて指揮を執っているのは異常である。吉備弱体化が最重要の課題であったと考えられる。曽我氏始め大和朝廷に苛め抜かれていたのでしょう。
この様に、大和朝廷は最大の対抗勢力吉備の弱体化・製鉄技術の獲得・都と全国を結ぶ広い道路網の整備など強力な律令の国家体制を確立した時期であった。8世紀半ばには大仏開眼も行われいろいろ問題は有っても、絶好調の時代を迎えていたのではと夢想します。
長々と済みません。
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それって本当なのでしょうか?
浄御原令が大宝律令の元だったことは知りませんでした。