「天下一のイケメンと一度でいいから……」中世の寺社に書かれた落書きは、なぜ男性同士の恋愛願望についてばかりなのか?

執筆者:清水克行 2021年11月19日
カテゴリ: カルチャー
エリア: アジア
秘めた想いをつい落書きしてしまうのは、いつの時代も変わらない表現行動なのだろうか――。

 世の中には、落書きに寛容な人もいれば、寛容ではない人もいる。日本人は圧倒的に後者だろう。ドイツやイタリアの大聖堂で日本人学生の落書きが発見され、国内で大バッシングが起きたことは記憶に新しい。

 しかし、場所や時代が変われば、価値観も大きく変わる。じつは中世の日本人は、落書きに寛容だった。寺社への落書きは日常茶飯事で、当時の絵巻を見ると神社に落書きする人々も描かれている。

 では、なぜ人々は寺社に落書きをしたのか。そして社会はなぜそれを許容したのか。現代人には想像もつかない、室町時代の人々の行動様式を生き生きと描いて話題を呼んでいる清水克行著『室町は今日もハードボイルド 日本中世のアナーキーな世界』より一部抜粋・再構成してお届けする。

落書きの代償

 2016年7月、ツイッターでのある些細なつぶやきがネットを騒がせた。

 同年6月30日にドイツのケルン大聖堂を訪れた首都圏の私立大学の女子学生二人が、大聖堂の壁に自分たちの名前や日付などを落書きしたうえ、こともあろうに、それをツイッターで誇らしげに画像をあげて自慢してしまったのだ。

 ケルン大聖堂は世界最大のゴシック様式建築で、ドイツが誇る世界遺産である。これを「祭り」に飢えた目ざといツイッター民たちが見逃すはずがない。たちまち落書きをした人物は特定され、ネット上では本名と写真が出まわり、「炎上」騒ぎとなった。

 「落書きしたクズ女は幼稚園からやりなおせ、日本の恥め」

 「クズだろ。どうしたらこんなに馬鹿になれるんだ?」

 「世界に恥を晒す愚か者」「退学に値する」「恥を知れ」

 5年経ったいまでも、ネット上で当時の書き込みを見つけ出すのは難しくない。その後、学生たちが所属していた大学はホームページに「世界の皆様に心からお詫び申し上げます」という謝罪文を掲載、現地に副学長を派遣して学生ともども大聖堂側に謝罪をした(『読売新聞』7月13日朝刊、『朝日新聞』電子版8月3日)。

 私は、これまで半世紀近く生きてきて「世界の皆様に」お詫びした謝罪文というものを初めて見た。

かつてはイタリアでも

 似たようなバッシングは、2008年6月にも起きている。このときは、中部地方にある市立短大の学生たちが同年2月にイタリアのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(世界遺産登録地区内)の壁に学校名や名前を油性ペンで落書きしたのが発端だった。

 この頃はまだツイッターなどは一般的ではなかったため反響は緩慢だったが、そのぶん新聞各紙が大々的に採り上げて、ケルン大聖堂の事件以上の騒ぎになっている(『読売新聞』7月10日朝刊、『朝日新聞』7月1日夕刊など)。

 短大には一日に抗議電話が500件、事態把握後もしばらく市に報告しなかったことが発覚して、大学も市長から厳重注意をうけている(『読売新聞』中部版6月26日朝刊)。さらに数日後、関西の私立大学の男子学生3人の落書きも同大聖堂から発見され、学長が謝罪し、当人たちは停学処分とされる(『朝日新聞』6月26日夕刊)。

 また月末には、新たに関東の私立高校の硬式野球部監督の落書きも発見され、校長が謝罪。監督は解任され、解雇や野球部の大会出場辞退までもが検討された(『毎日新聞』6月30日夕刊)。新聞の読者欄にはモラルの低下を嘆く投書が連日掲載され、しばらくはテレビも巻き込み国民的なバッシングの嵐が吹き荒れた。

 「悪」はどんな些細なものでも、徹底的にみんなで叩く。過ちを犯した者には「世間」なるものに対して無限に謝罪を強いる。ツイッターの有無にかかわらず、こうしたことが集団発狂的に繰り返されるのが、哀しいかな、わが国の現実なのだ。

 しかし、はたして彼らのしたことは、それほど悪いことなのだろうか?

「落書き禁止令」はあったが

 ご想像のとおり、中世日本では、寺社への落書きはやりたい放題だった。

 中世の代表的な法典・法令を集成した『中世法制史料集』全6巻・別巻(岩波書店)という権威ある史料集がある。そのうち、各地の武士たちが支配地に対して発した法令を集めた第四~五巻(武家家法Ⅱ~Ⅲ)の二冊を見るだけでも、戦国大名などが寺社への落書きを禁止した法令は、これぐらい確認できる。

〇らくがきの事(朝倉教景禁制、1513年、福井の西福寺宛て)

〇らくがきの事(今川氏親禁制、1514年、静岡の長谷寺宛て)

〇らく書いたすべからざるの事(蘆名盛氏掟書、1550年、会津の諏訪神社宛て)

〇落書ならびに高声の事(武田信玄禁制、1561年、山梨の府中八幡宮宛て)

〇当社壇の内落書の事、一切これを停止(ちょうじ)なり(穴山信君禁制、年不詳、山梨の熊野神社宛て)

 これだけ各地で禁令が繰り返されているということは、それだけ同様の行為が多発していたと理解するべきだろう。実際、中世に建立された全国の寺社建築には、内部の板壁に同時代の参詣者による多数の落書きが残されている例が多い。

 かつて私も、戦国時代の落書きが残る寺として有名な新潟県東蒲原郡阿賀町の護徳寺観音堂と同町の平等寺薬師堂を訪れたことがある。護徳寺観音堂は1557年、平等寺薬師堂は1517年の建立で、室町時代の地方寺院の素朴なたたずまいをいまもよくとどめている。お堂の内部は光を通さず昼も真っ暗。床板の冷え込みは雪国ならではのもので、靴下を履いていても足の裏が刺すように痛かった。

お堂の中は落書きだらけ

 それだけでも往時を彷彿とさせるのに十分な雰囲気だったが、地元の方が照らす懐中電灯の光の先を見上げて、私は思わず息をのんだ。天井に近い板壁や長押(なげし)のあらゆる場所に、たどたどしいひらがなまじりの墨文字で落書きがなされているのだ。

 まるで昨日今日書かれたような生々しい墨痕(ぼっこん)だったが、それらは字体からしても、間違いなく、このお堂に参詣した戦国時代の庶民たちの手によるものだった。懐中電灯を照らして四方を見まわせば、私たちのまわりは落書きだらけだった。このとき、同行した江戸時代の研究者であるSさんが溜息をつくようにして吐いた一言が印象的だった。

 「こんなものを見ちゃうと、江戸時代よりも戦国時代のほうが最近のように思えてきて、なんかおかしな感じですねぇ」

 江戸時代よりも戦国時代のほうが遥か昔のはずなのに、その戦国時代の人々の筆跡が私たちを取り囲んで生々しい。知識として知っている江戸時代よりも、彼らのほうがよほど身近に感じられるのだ。Sさんならずとも、自分のなかの時間軸がおかしくなりそうな体験だった。

 おそらく参詣で立ち寄った巡礼者や、一夜の宿を求めて転がり込んだ旅人が、村はずれのお堂や社殿などに落書きをするのは、当時は当たり前のことだったにちがいない。戦国大名などがそれを禁じようという姿勢を見せてはいたものの、実態は庶民による落書きはやりたい放題だったのだろう。

 しかし、なぜに彼らはこんなに落書きに大らかだったのだろうか。その落書きに書かれた内容も大いに気になるところだが、その中身に踏み込むまえに、まずは彼らが落書きに託した思いについて考えておくことにしよう。

千社札と落書き

 武田信玄の重臣、穴山信君(あなやまのぶただ)(1541~82)が領内下部(しもべ)温泉(山梨県南巨摩郡身延町)の熊野神社に宛てて命じた、次のような落書き禁止令が残されている。

 当社壇の内落書の事、一切これを停止なり。ただし、舞殿以下の事、禁ずるにおよばざるものなり。(穴山信君禁制、年不詳、山梨の熊野神社宛て)

 前半では社殿内での落書きを禁じており、それについては他の戦国大名の発した落書き禁止令と大差はない。ただ面白いのはその後で、「ただし、舞殿以下については落書きしても構わない」と述べているところである。

 戦国武将といえども、落書きを全面的に禁止することはできず、部分的に落書き容認空間を設定することで、本当に大事な神社の中枢施設への落書きを抑制しようとしたのである。もっと毅然とした態度をとれば良いものを。この落書きへの甘い対応は、いったい、なんなのだろうか。

 どうやら当時、落書きは、現代の私たちが考えるような低俗な行為ではなく、一面で参詣者たちにとっての当然の行いと見なされていたようなのである。いまでも古いお寺や神社に行くと、建物のまわりに千社札(せんじゃふだ)が貼ってあるのを見かけることがある。さすがに近年は文化財としての認識が浸透してきて、お寺や神社も千社札を禁止するのが普通になったが、それでも古い時代に貼られたものがまだ剥がされずに残っているのを、よく目にする。

 自分の名前や住所を江戸文字でデザインしたシールを寺院や神社の建物に貼りつける千社札の習俗は、江戸時代にまで遡るものだが、そこには参拝者が仏や神と交流をもったことを記念する、「結縁(けちえん)」の意識があった。参拝者は自分の名を書いたシールを建物に貼りつけることで、仏や神とつながりをもったことを示すのである。

 中世の落書きにも、これと似た意識があったにちがいない。彼らは自分の参拝の事実を後世に記しとどめ、自身の願いごとが仏神に届くことを祈ったのである。落書きは仏神への願いと悦びの表現だった。

 千社札を貼ったり、現在も行われている絵馬に願いごとを書いて奉納したりする行為も、その洗練された形態と見るべきだろう。それは戦国大名といえども、簡単には封じ込めることのできない習俗だった。穴山信君が「せめて落書きは舞殿までにしてくれ」と懇願したのも、無理からぬところであった。

落書き、いかがですか?

 鎌倉~室町時代の絵巻物や参詣曼荼羅に描かれた有名な寺院や神社の風景には、多くのお参りする人々が描かれているが、実際、よく見ると、そこにも群衆に混じって落書きしている人が、ときおり見られる。

 たとえば鎌倉時代に描かれた『西行物語絵巻』では、熊野の八上(やがみ)王子(和歌山県西牟婁郡上富田町)を参拝した歌人の西行法師(1118~90)が、ちゃっかり神社の玉垣に得意の和歌を書き記している。西行の手にかかれば、もはや落書きもアート。中世日本に現れた即興芸術家、さながら12世紀のバンクシー、といった風情である。

 しかし、落書きが許されたのは、アーティストに限ったことではない。とくに参詣曼荼羅は、寺院や神社が参拝者獲得の宣伝用に作った観光ポスターのようなものなのだが、そこにも西行と同じように参拝者が落書きをしている様子がさりげなく描かれている。

 考えてみれば、参拝者による落書きを寺社が不謹慎だと感じていたとすれば、そもそも観光用ポスターにそんなシーンが描き込まれるわけがない。むしろ落書きは、その地の寺社から推奨されていた可能性すらある。

 参詣曼荼羅は、絵解きとよばれる宣伝マン/宣伝ウーマンによって各地に持ち運ばれ、解説付きで広められたとされている。

 「由緒ある××寺に来て、あなたも記念に落書きいかがですか?」

 「ご利益ある○○神社は、いつでも落書きOKです!」

 参詣曼荼羅をひっさげて全国を宣伝に飛びまわった絵解きたちは、あるいは、こんなことを吹聴して、落書きを奨めてまわっていたのかも知れない。

エロ落書き

 では、そんな彼らはどんな内容の落書きをお堂や社殿に残したのだろうか?

 現在確認されている中世の落書きで署名があるものは、ほぼすべて男性によって書かれたものである。その他の署名のない大多数も、文体や漢字の使い方などから、おそらくほとんど男性によって書かれたものだろうと推測されている。そんななか、さきほど紹介した新潟県阿賀町の護徳寺観音堂の数ある落書きのなかには、次のようなものが見える(読みやすくするため、一部ひらがなを漢字に改めた)。

 水沢住人・津河住人二平弥五郎[  ]天下一の若もじ様[  ]今生来世のために一夜臥(ふ)し申したく存じ候。

 なにせ落書きなので、すでに文字が擦れて読めなくなってしまっている部分もあるのだが、「若もじ様」とはイケメンの美少年を意味する。つまり、「天下一のイケメンと、現世来世の思い出として一晩でいいから一緒に寝たい」と書かれているのだ。「二平弥五郎」が美少年をさすのか、それともこの願いを書いた本人なのかはわからないが、書いた主は間違いなく男性で、美少年との同性愛を祈願した内容である。

 こうした同性愛の熱い思いを綴った落書きは決して珍しいものではなく、他にも数多く各地で確認されている。いくつか列記すると、

 「若もじ様、恋しや、のふのふ(イケメン恋しい、あぁ)」(護徳寺)

 「せめて一夕お情けうけ申したく候(せめて一晩お願いします!)」(同)

 「あらあらしりしたや、のうのう、あわれよき若もじ(ああヤリたい、あぁ、カッコいいイケメン)」(松苧神社、新潟県十日町市)

 「御結縁のために、仁四郎様、したやしたや(結ばれますように、仁四郎様、恋しい恋しい……)」(同)

 もうこうなると、ほとんど現代のエロ落書きと変わらないのだが、現代との最大の違いは女性に対する愛欲を綴った男性の落書きがほとんど見られず、圧倒的に男性同士の同性愛の願望を綴ったものばかりという点だろう。この他にも新潟県十日町市の松苧(まつお)神社には、大般若経全巻を読破したという超マジメ坊主が「大方様(おおかたさま)恋しやなう」と、熟女未亡人への届かぬ思いを綴った落書きや、「まだ一度も抱き申さず候」と童貞卒業を祈願した若者の落書きがわずかにあるが、おおむね男性同士の恋愛願望の落書きが多数を占めている。

 もちろん落書きの中身はすべてがすべて恋愛に関するものばかりではないのだが、それにしても、なぜ恋愛願望の落書きには異性愛ではなく、同性愛ばかりが目立つのか? これは確定的なことはいえないのだが、どうも当時の人々は異性愛は結婚や出産・子育てなどを目的としているぶん、所帯染みたものと考えていたふしがある。

 それに比べて、男性同士の同性愛は打算や生活の問題が介在しないぶん、ピュアなものと考えていたらしい。口うるさくて糠みそ臭い女房なんかではなく、もっと心から通じ合える“運命の人”と結ばれたい。彼らはそうした思いから、恋の成就を仏神に祈念したのではないだろうか。

 しかし、では一方で、なぜ女性の書いた落書きは見つからないのか。女性が参詣や参籠をしないはずはなく、字が書けなかったはずもないのだが、この点はまだ解明されていない。落書き研究上の大きな謎なのである。

夢で逢えたら……

 とはいえ、エロ落書きをさんざん並べておきながら、同性愛はピュアなものだったといっても、なかなか読者にはわかってもらえないだろう。そこで、私が知っている哀感に満ちた切ない落書きを一つ紹介しよう。これは、兵庫県姫路市の名刹、書写山円教寺(しょしゃざんえんぎょうじ)の屋根瓦に刻まれた、ある落書きである(『兵庫県立歴史博物館総合調査報告書Ⅲ 書写山円教寺』)。

  南無阿弥陀仏 甚六菩提のためなり

  恋しやと 思ひゐる夜の

  夢はただ いくたび

  見るも 君のおもかげ

  天文二十四年卯乙拾月十一日(花押)

 日付は天文24年だから、西暦1555年。武田信玄と上杉謙信が川中島で衝突を繰り返していた頃である。この瓦は、本堂屋根の修理のときに発見されるまで誰にも気づかれず、450年にわたって天空を仰いでいたが、現在は屋根から降ろされ本堂内に展示されており、参拝者は誰でも見ることができる。ただ、この落書き瓦が作られた事情にまで考察を進めた研究者は、これまで誰もいなかったようだ。

 丸瓦の表面に流麗な筆致で刻まれた文字は、おそらく瓦がまだ焼成される前に筆跡をなぞって彫られたもので、その後、焼きあがった瓦を寺には内緒で屋根にあげたのだろう。こんなことができるのは瓦職人しかいないから、筆者は瓦職人と考えて間違いない。また文末に花押(サイン)が見えるが、当時、花押をもつのは男性に限られるから、筆者が男性であることも疑いない。

 一行目に「南無阿弥陀仏」とあり、「甚六菩提のためなり」とあるから、この瓦はすでに死去した「甚六」なる男のために、瓦職人の男がその成仏を祈願したものなのだろう。では、「甚六」と筆者の関係は?

 寺の屋根にプライベートな人物の成仏祈願を掲げるなど、お寺が許すはずもない。そこまでの違反行為をあえてするのは親子や兄弟のような親族相当の者でないとありえない。しかし、真相はそのどちらでもない。

 真ん中に書かれた和歌は「恋しやと 思ひゐる夜の 夢はただ いくたび 見るも 君のおもかげ」。意味するところは、「恋しいと思っている夜にみる夢は、ただ何度みても君の面影だけだ」。これは明らかに恋の歌である。しかも、おそらくは死別した恋人への思慕を詠んだ歌である。

 ここから推測するに、甚六と筆者の瓦職人は男同士の同性愛関係。ところが、一方の甚六は何らかの事情で不慮の死を遂げる。彼のことを片時も忘れられない男は、新たな仕事として受注、製作した円教寺の屋根瓦の一枚に彼の菩提を弔う願いと思慕の念を綴った和歌を記し、誰にも知らせず、こっそりと本堂の屋根に据え置いた。以来450年、ひとりの物好きな歴史学者に気づかれるまで、男たちの秘めた想いは「天空」のみがそれを知っていたことになる。

 もはやこれを「落書き」とよんではいけないのかも知れない。この瓦職人はこの世では決して叶わぬ想いを「天空」に捧げることで、仏神に届けようとしたにちがいない。ときに中世の「落書き」には、これほどの重く切ない願いが込められていたのである。

袋叩きにする前に

 最後に、冒頭で紹介した現代の落書き事件の後日談を紹介しよう。

 2008年のイタリアでの落書き事件は「犯人」に対する国民的バッシングが吹き荒れ、ついにさきの短大は学長が当事者の学生をともない大聖堂を訪れ、関係者へ謝罪するまでに追い込まれた。落書きをした女子学生は関係者のまえで泣きじゃくり、さすがに先方も当惑し、これ以上の謝罪は求めず、「この問題はもう水に流したい」と述べたという。

 直後、イタリアの新聞各紙は、この日本の異常すぎる対応を一面カラー、写真入りで大きく特集記事で報じた(『朝日新聞』・『毎日新聞』7月2日朝刊)。メッサジェロ紙は「集団責任を重んじる日本社会の『げんこつ』はあまりに硬く、若い学生も容赦しなかった」と記す。

 とくに高校の野球部監督がプライベートで訪れた先での落書きを理由に解任されたことについては、「教員、大聖堂に落書きで解任の危機」、「わが国ではあり得ない厳罰」とコメントされ、「(日本では)間違いを犯した人間に対し哀れみはない」、「休みの日でも、地球の反対側にいても(落書きは)許されない」と紹介された。

 イタリア人がこうした反応をした理由として、彼らのあいだでは観光地や宗教施設での落書きをさほど大きな問題と考えていなかったという事情があるようだ。フィレンツェに限らず、イタリアでは古代遺跡はスプレーにまみれ、アルプスの山々には石を組んだ文字があふれているという。落書きされた大聖堂の壁には、日本語の落書きの量をはるかに上回るイタリア語、英語の落書きがあるそうだ。

 たしかに外国の観光地に行くと、信じられないぐらいの落書きを見かけることがある。外国では、意外に落書きは身近なものだったのだ。某大学の学生も「ほかにもたくさん落書きがされていて安易な気持ちでやってしまった」(『朝日新聞』6月26日夕刊)、例の短大の学生も「初めての海外だったので記念に書いた」(『日本経済新聞』6月25日朝刊)と語っている。

 さらに、解任された高校の野球部監督は、大聖堂の入り口で油性ペンを販売する人がいて、「書くと幸せになると聞いて、つい書いてしまった」と語っている。事実、彼の落書きは自分と妻の名前をハートで囲んだものだった。

 合法かどうかは別にして、海外でも宗教施設への落書きに願いを込めるのは一般的なことだった。もちろん文化財の汚損は許されることではないが、愛の成就を神に祈ろうという姿勢は、中世日本の落書きにも通じる。そう考えると、はたして彼らを問答無用と袋叩きにした私たちの行いは、正しかったのか否か……?

 異文化を学ぶことの効能の一つは、自分たちが絶対的な“正義”や“常識”だと信じていることが、時や場所を変えれば必ずしもそうではないということを知る、ということだろう。それによって私たちは、自分たちと異なる価値観に対して“寛容”になることができる。

 私たちのご先祖も、現代の世界各地の人々も、落書きに素朴でストレートな願いを込めて生きてきた。それを一方的に「悪」と決めつけて、徹底的に吊し上げにする思考がいかに狭量なものであるか。落書きの歴史は、いまの私たちに意外に大切なことを教えてくれる。

 

清水克行(しみず・かつゆき)
1971年生まれ。明治大学商学部教授。歴史番組の解説や時代考証なども務める。著書に『喧嘩両成敗の誕生』(講談社選書メチエ)、『日本神判史』(中公新書)、『戦国大名と分国法』(岩波新書)、『耳鼻削ぎの日本史』(文春学藝ライブラリー)などがあるほか、ノンフィクション作家・高野秀行氏との対談『世界の辺境とハードボイルド室町時代』(集英社文庫)が話題になった。

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執筆者プロフィール
清水克行(しみずかつゆき) 1971年生まれ。明治大学商学部教授。歴史番組の解説や時代考証なども務める。著書に『喧嘩両成敗の誕生』(講談社選書メチエ)、『日本神判史』(中公新書)、『戦国大名と分国法』(岩波新書)、『耳鼻削ぎの日本史』(文春学藝ライブラリー)などがあるほか、ノンフィクション作家・高野秀行氏との対談『世界の辺境とハードボイルド室町時代』(集英社文庫)が話題になった。
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