【ブックハンティング】子どもと引き換えに、女性たちが失ったものの大きさを今こそ直視するとき

オルナ・ドーナト(鹿田昌美訳)『母親になって後悔してる』(新潮社)

執筆者:中真生 2022年5月3日
タグ: ジェンダー
エリア: アジア
 

 人から不意に、子どもを産まなければよかった、母にならない方がよかったという、いっときの愚痴ではない本心を聞いてしまったらどうだろうか。その人が自分の家族でなくても、ドキッとして、胸がざわつくのではないだろうか。逆に、苦労はあったけれど、子どもがいたから頑張れた、成長することができた、という話は耳に心地よい。そうであってほしいという願望がどこかにあるからだろう。そう信じなければ、家族や親子関係の根幹が脅かされるという無意識の恐れもあるだろう。

 このように人の不安を駆り立てるから、母になったことを後悔している人はふだん、それを親しい人にも話さず、周囲の人はそのような話を聞くこと、理解しようとすることから逃げていると著者はいう。SNSなどにその気持ちを書き込めば、途端に誹謗中傷を受ける。それをよいことに、社会は、母に関する「神話」をますます強固にして、女性たちが自ら進んで母になるよう仕向けているのだという。産む前は子どもに関心がなくても、また子育てでどんなに苦労をしても、最終的にはほとんどの女性が子どもを愛し、母になることで満たされ、人間的成長に至る……という神話である。

 イスラエルの社会学者で、活動家でもある著者は、母になったことを後悔する女性が異常な少数例ではないと示すことで、女性にそなわるとされる「母性」が単なる神話であることを暴き、女性たちを画一的な母へと誘導する、社会の「見えない規範」を明るみに出そうとする。

 本書は、「今の知識と経験を踏まえて、過去に戻ることができるとしたら、それでも母になりますか?」という質問にノーと答えた女性、あるいは母であることに何らかの利点はあるかという問いに、まったくないと答えるか、利点はあっても欠点がそれを上回っていると答えた26~73歳の 女性、23人へのインタビューがもとになっている。女性たちの子どもの年齢は、乳幼児から40代までと幅広く、孫がいる女性もいる。またイスラエルの出生率の高さを反映して、子どもが3、4人いる女性も少なくない。

 ただ、彼女らが、なぜ母になったことを後悔しているのかという理由が一様ではないことには注意が必要である。まず取り上げられるのは、子育ての環境があまりにも過酷な女性たちである。この場合の理由はもっとも想像しやすいだろう。母であると同時に唯一の稼ぎ手でもあるとか、パートナーが子育てにまったく参加しないなどによって、子どもが与えてくれる喜びより苦労の方が圧倒的に多いことが理由である。複数の女性が、子どもは愛しているし、子どもがもしいなくなったら自分も生きていけないほどであるが、それでももし遡れるなら、子どもは産まないだろうと断言する。

 他方、ある女性は、現実には決してそんなことはしないけれどと念を押した上で、子どもを殺すことを想像するのだと告白する。子どもが消えてくれたり、最初からいなかったことになるのを空想したり、目を覚ましたらいなくなっていてくれたらと願う女性もいる。さらに、ある女性は、たとえ大金持ちで、子どもの面倒のほとんどをパートナーかベビーシッターが見てくれるとしても、それでも母でいたくないという。このような女性たちにとって、子どもの存在自体が重荷であり、子どものことが常に頭にあるため「頭の中に自由がな」く、「気が休まらない」という。「母になると、人生が二度と自分のものにならない」ともいう。これらの告白は、母である負担が、単に子育てにかかる時間や苦労にはとどまらず、より深く、実存のレベルにまで及びうることを示唆しているだろう。母でいることは「自分らしくない」と、複数の女性がインタビューで吐露する。子どもの存在に制約されない、自分自身の人生を生きたいという、底から湧き上がる欲求は人間としてごく真っ当なものだろう。多くの男性には、たとえ子どもがいるとしても、それから受ける制約をかなりの程度軽減する、端的に言えば「逃げる」余地が与えられている。ほとんどの女性には、絶望的なほどそれがない。

 今後は、このような「後悔する母」たちのあいだの、共通点だけでなく、多様で微妙な差異をもさらに浮き彫りにしてくれることを期待する。

 本書は、母の神話を砕くことを通じて、実は、母になることで失うものは途方もなく大きく、それはときに、子どもがもたらしてくれる喜びでは埋め合わせしきれない ものであるという、考えれば当たり前だが、タブーとして取り上げられることの少ない現実を私たちに直視させる。もし母になっていなかったら、偉大な女性の科学者、起業家、作家、芸術家などが今とは比べ物にならないほど輩出され、あるいはやりたいことをやることができたと納得して生を終える女性が遥かに多かったことは確かである。母である当人が満足しているから、後悔していないからということを口実に、この現実から目を逸らし続けることは、もはや難しいのではないか。

カテゴリ: 社会
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執筆者プロフィール
中真生 1972年生。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得満期退学。博士(文学)。専攻:哲学。現在、神戸大学教授。主な著書に、『生殖する人間の哲学:「母性」と血縁を問い直す』(勁草書房、2021年)、『悪と暴力の倫理学』(共著、ナカニシヤ出版、2006年)、『哲学の振る舞い 哲学への誘いⅡ』(共著、東信堂、2010年)など。
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