昭和天皇がガダルカナル作戦で示した「意外な軍事的素養」

執筆者:山田朗 2023年7月17日
タグ: 日本
エリア: アジア
1942年頃にガダルカナル島・ヘンダーソン飛行場で撮影された戦闘機(写真提供:USMC Archives

 明治維新以降、80年間続いた大日本帝国。明治大正昭和初期と続くこの期間はまさに「戦争の時代」だった。日清戦争、日露戦争、第一次大戦、満洲事変、支那事変、そして対英米開戦まで、10年前後の間隔で大きな戦争をしていたことになる。

 『日本の戦争はいかに始まったか』(新潮選書)は、それら戦役の開戦過程と当事者たちの決断を、各分野の第一人者8人が分析した講義をまとめたものだ。

 そのうち、第7章「昭和天皇は戦争にどう関わっていたか」では、明治大学文学部教授の山田朗氏が最近発見された新資料に言及しながら、当時の天皇の言動を細かく分析している。ここでは、山田氏の論考に沿って、昭和天皇が実際の軍事作戦にどのように関与していたかを見てみよう。

天皇説得のための想定問答集

 アジア太平洋戦争が始まる前、1941年9月6日の御前会議の頃には、確たる勝算が示されないままに対米英戦争が決定されることに大きな不安を抱いた天皇は、『杉山メモ』等によれば、御前会議前日に近衛文麿首相・杉山元参謀総長・永野修身軍令部総長を呼び、「絶対に勝てるか(大声にて)」と問い質しました。

 しかし、永野総長の回答は、「絶対とは申し兼ねます」というもので、天皇は確信が持てませんでした。翌日の御前会議で天皇は、明治天皇の御製「四方の海」を朗読して、統帥部の姿勢を暗に批判し、外交優先を示唆しました。天皇のこうした姿勢を憂慮した参謀本部では、服部卓四郎作戦課長が主導して高山信武課員に天皇説得のための「御下問奉答資料」(想定問答集)を作成させ、長期持久戦になれば、南方の資源を戦力化できるので有利であることなどを多くの数値を挙げて説明しました。

次第に開戦に傾斜

 こうした動きが効果をあげたのか、近衛内閣の末期となった10月には天皇は次第に開戦論に傾斜し始めました。『木戸幸一日記』によれば、10月13日に天皇は木戸内大臣に宣戦布告の詔書について相談し、ドイツの単独講和を封じること、ローマ法皇庁を通じての外交チャンネルの構築の必要性について語っています。

 また、東條英機陸相は、天皇を安心させようと、部下の石井秋穂中佐に戦争終末シナリオを作成させ、それは11月15日の大本営政府連絡会議で「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」として決定されましたが、そこには天皇が木戸に語ったことが盛り込まれています。天皇の覚悟が次第に固まりつつあることがわかる。近年公開された百武三郎侍従長の『百武三郎日記』でも、11月には天皇が戦争に相当前のめりになっている旨のことが記録されています。

「真に御満悦の御様子」

 対米英戦争が始まると、先制主動の優位を得た日本軍は各戦線で順調に進撃しました。『木戸幸一日記』によれば、1942年2月16日、シンガポール陥落が伝えられると天皇は「天機殊の外麗しく」「全く最初に慎重に充分研究したからだとつくづく思ふ」と語り、3月9日、ラングーン陥落の報に接した際にも「余り戦果が早く挙り過ぎるよ」と「真に御満悦の御様子」でした。

 この時期、天皇がやや憂慮したのは、フィリピンのバターン半島攻略が予定通りに進んでいないことくらいで、天皇は2度ほど「バタアン攻撃の兵力は過小ではないか」と下問して兵力増強と積極的作戦を促しています。

主体的作戦関与はガダルカナルから

 緒戦においては、分散した連合軍を、準備を整えて集中した日本軍が航空優勢の下で攻撃したため、天皇も特に作戦に深く介入するといった必要はありませんでした。天皇が、作戦の進捗を深く憂慮し、主体的に関与し、具体的に発言をしだすのはガダルカナル攻防戦(1942年8月~)からだと言って良いでしょう。

 次に、天皇の主体的な戦争関与といいますか、天皇は本当に日本軍を指揮したのか、ということですが、まずプロフェッショナルな軍人としての天皇の知識と能力はいかなるものであったのか。これを具体的に示す資料というのは、少ないことは確かです。しかし、それを感じ取ることのできる資料はあります。【資料2】をご覧下さい。

天皇直々の注意喚起

【資料2】ガダルカナル砲撃に関する天皇の注意(1942年11月12日)

昨日機関参謀東京より帰来報告の最後に「過般総長拝謁、主力艦のガ島砲撃計画を奏上せるに日露戦争に於ても旅順の攻撃に際し初瀬八島の例あり、注意を要すとの御言葉あり。電報するに至らざるを以て本件伝へよ」との軍令部の伝言あり。〔中略〕

上陛下の御注意に答へ奉らず、御軫念(ごしんねん)を相懸け申す事今日戦艦の価値如何の問題に非(あら)ずして誠に恐懼(きょうく)申訳なき次第なり。

​出典: 宇垣纒『戦藻録』(原書房、1968年)234-235頁。1942年11月13日の条。

 ガダルカナル砲撃に関する天皇の注意です。連合艦隊参謀長だった宇垣纒が日記を書いていて、その中に出て来るエピソードです。

 主力艦のガ島砲撃計画を軍令部総長から天皇に奏上したところ、「日露戦争においても旅順の攻撃に際し初瀬八島の例あり、注意を要す」という天皇の注意があったというのです。実は、10月にも海軍はガ島のアメリカ軍飛行場の機能を奪うために、金剛・榛名の戦艦2隻をガ島沖に突っ込ませて、艦砲射撃でヘンダーソン飛行場を徹底的に破壊することに成功しました。その結果アメリカ側はその飛行場を使えなくなったのですが、しばらくすると復旧して活動を始めたので、もう1回1ヵ月後にやろうということで、また同じタイプの比叡・霧島2隻の戦艦でガ島砲撃を再度やりますと天皇に報告したところ、天皇は「注意を要す」と語ったのです。

 これは1904年5月に起こったことで、封じ込められている旅順艦隊に対して連合艦隊が海側から砲撃を加えたのですが、何回かやっている内にロシア側も日本艦隊がこういうコースを通るだろう、と予測して夜間に機雷を仕掛けた。その機雷に触れて、初瀬・八島2隻の戦艦が沈没したという大事件です。戦艦が6隻しかない中、2隻がいっぺんに失われてしまったということですから、これは大変な損害です。

的中した「2戦艦沈没」の懸念

 天皇の注意が何を意味しているかというと、海上から地上を攻撃する時は、どうしても作戦がマンネリになって待伏せされたり相手に対策を講じられたりするから、繰り返しやるのはいけない、ということです。しかもそれを天皇は事件前に発言した。実際、アメリカ側の待伏せ攻撃によって比叡・霧島は沈没してしまいます。

 つまり、初瀬・八島と同じことが起きたのです。結果を知って天皇が言ったのであれば大したことではありません。作戦が始まる前にこういう注意を与えたというところが重要です。天皇が日露戦争の教訓を主体的に学んで、自分の使える知識として持っていたことを示しています。しかし、天皇の言葉が届く前に海軍は作戦を始めてしまった結果、戦艦2隻を失ってしまった。地上と軍艦が相対するという場面はそうはないのですが、タイミング良くこういう発言をしたということは、天皇の軍事的素養を示しているものだと思います。

波多野澄雄、戸部良一(編著)『日本の戦争はいかに始まったか 連続講義  日清日露から対米戦まで』(新潮選書)

※波多野澄雄 戸部良一 編著『日本の戦争はいかに始まったか 連続講義 日清日露から対米戦まで』(新潮選書)から一部を再編集。

カテゴリ: カルチャー
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執筆者プロフィール
山田朗() 1956年生まれ。明治大学文学部教授。
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