「戦狼外交」の担い手としてともに習近平国家主席から高く評価されながら、突如として外交部長を解任されて姿を消した秦剛と、定年を超えてもなお重用され続ける王毅。2人の明暗を分けたものは何だったのか――。
王毅は最高指導者の「心の内」を体現する「忖度」官僚
王毅はもともと、「戦狼外交官」ではない。時の最高指導者の「心の内」を正確に読み取り、それを色付けして外交政策を立案し、交渉の場で体現できる優秀な「忖度」官僚と言った方が正確だろう。そういう面で言えば、単なる「口撃」に長けた秦剛とは本質的に異なる。
習近平と同じ1953年生まれ。15歳から7年間、陝西省の農村に下放された習近平と同様、王毅も文化大革命の荒波の中で青年時代を犠牲にした。16~24歳までの8年間にわたり極寒の東北部・黒竜江省に下放され、生産建設兵団の兵士などとして広大な荒れ地の開墾と建設という苦しい重労働に従事した。
1978年に北京第二外国語学院日本語専攻に入学した。文革終結直後の77年の大学入試はこれまで受験できなかった優秀な若者が一斉に挑んだ狭き門だったが、これを突破した。82年に卒業して外交部に入り、アジア局に配属される。時の総書記は、親日政策を実行した胡耀邦。入省2年目にして、83年に訪日する胡耀邦のスピーチ起草を担当し、一貫して日本畑のエリートコースを歩んだ。
1989年6月に人民解放軍が学生や市民の民主化運動を武力弾圧した天安門事件時には外交部日本課長だった。武力弾圧3日後の6月7日、戒厳部隊が北京駐在の日本大使館員らの住む外交官アパートを無差別乱射する事件が起こった。学生に同情した時の総書記・趙紫陽は消息を絶ち、鄧小平の死去説・重病説さえ流れ、中国政局は混沌とした。日中関係筋によると、日本大使館は外交部に抗議したが、王毅は「申し訳ない」「確認します」とも言わず、「私の……
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