インテリジェンス・ナウ

北米で5人のシーク教徒殺害を計画:インド情報機関の秘密工作、「インド太平洋戦略」に衝撃

執筆者:春名幹男 2023年12月28日
エリア: アジア 北米
公表されたグプタ被告の起訴状(米司法省HPより)と、そのターゲットとされるグルパトワント・シン・パンヌン氏(Facebook「Gurpatwant Singh Pannu」ページより)
1件はカナダで実行され、1件は米国のオトリ捜査によって未然に防がれた、インド情報機関によるシーク教徒指導者殺害計画。「インド太平洋戦略」を進める西側諸国に衝撃を与えただけに、米国はその対処を慎重に進めている。

 今年6月、カナダと米国でシーク教組織の指導者を狙った事件が相次いだ。殺人の指令はインド本国から、暗躍するスパイに発出されていた。北米で殺人計画の対象とされたターゲットは計5人に上り、1人がカナダで殺された。米国では1件が未遂事件となり、あと3件の計画は実行を断念したようだ。

 インドの情報機関が米国とカナダの主権を侵害して、秘密工作を実行に移すといった事態は極めて異例だ。西側が進める「インド太平洋戦略」に衝撃を与えたと言っても過言ではない。

 カナダのジャスティン・トルドー政権とインドのナレンドラ・モディ政権は互いに、相手国駐在の情報機関員の追放を発表、両国間の対立は当面、収拾が難しいようだ。他方、米国で起きた殺人未遂事件をめぐって、ジョー・バイデン米大統領はウィリアム・バーンズ中央情報局(CIA)長官らをインドに派遣、「静かな外交」で妥協策を探っているとみられる。

 脅威を増す中国に対抗して、日米などは「クアッド」などでインドとの関係をこれまで順調に強化してきた。しかし、想定外の事件発生でどう対応すべきか。事件の深層に迫ってみたい。

犯罪者を秘密工作に使う愚かさ

 11月末にニューヨーク州南部連邦地裁で公表された起訴状には、ミステリアスな事件にみえて、同時に米側のオトリ捜査にも気付かないほど、滑稽な事実も明らかにされている。

 米国での事件では、インド人ニキル・グプタ被告(52)が嘱託殺人罪で起訴されている。

 起訴状では、被告を使ったインド政府職員のCC1(仮名)が2023年、インド生まれで米国籍を持つ、ニューヨーク在住の弁護士・政治活動家を米国領土内で暗殺する計画を命じた。

 起訴状ではこの弁護士の氏名は明らかにされていないが、『ワシントン・ポスト』によると、ターゲットにされたのはNYに本部を置く「シーク教徒に正義を」という組織で活動する弁護士グルパトワント・シン・パンヌン氏。

 CC1は、インド政府機関職員で、安全保障およびインテリジェンスに責任を負う「現場上級官」と自称している。情報機関の指揮官とみられるが、起訴状では情報機関の名前は明らかにされていない。

 今年5月ごろ、CC1はグプタをリクルート。シーク教徒の人口が多いインド北部パンジャブ州にはシーク教徒の主権国家「カリスタン」樹立を目指す分離独立運動の指導者に対する暗殺計画で協力を求めた。それがパンヌン氏だったということになる。

 グプタ被告もインド人で、国際的な麻薬および武器の取引に関与してきた、とCC1との通信で明らかにしている。

 CC1は、グプタに殺人の準備作業で手伝えば、グプタがインドで犯した犯罪を「免罪する」と約束した。そもそもこの事件は、インド政府当局が、情報機関の秘密工作が何たるかも分からないような素人の犯罪者を脅して暗殺計画に関与させた、乱雑な工作のようだ。

米情報機関がオトリ捜査

 計画に参加したグプタは、暗殺の実行者になるとみられる人物と接触した。起訴状は接触の方法を明記していないが、全体の記述からみて、オンラインでの接触とみられる。

 この人物(CS)は、実際には「米国の法執行機関」に協力する「秘密の情報源」だったと起訴状は記している。さらにCSから、殺し屋(UC)を紹介してもらった。

 UCも、米法執行機関のオトリ捜査員だった。CC1はグプタがUCに10万ドル(約1430万円)を支払うことに同意。6月9日ごろには前金としてUCに1万5000ドルを支払った。

 米司法省はグプタ起訴に関する発表資料の末尾で、米麻薬取締局(DEA)ニューヨーク支局、連邦捜査局(FBI)がこの事件を捜査。DEA特殊工作部門やDEAウィーン事務所、FBIプラハ事務所、チェコ国家麻薬本部などの支援を受けた、と記している。

 DEAの「国家安全保障インテリジェンス部(ONSI)」は2006年に、米インテリジェンス・コミュニティ(IC)の一員となった。

 CSやUCというコード名で起訴状に記された人物は実際には、DEAないしFBIの捜査官だったとみられる。この事件では、米国で広く認められているオトリ捜査を行った結果、殺人を防ぐことに成功した。このため、あえて起訴状公表に際してDEAやFBIの協力を明らかにしたのだろう。

 

米印首脳会談中の殺害は禁止

 6月中に、CC1はグプタに、「ターゲット」のニューヨークの自宅住所、電話番号、毎日の行動予定などに関する個人情報を入手するよう求め、グプタはそれらの情報をUCに伝えた。そして、可能な限り早く殺人を実行するよう指示した。それと同時に、米国とインドのハイレベル会談と重なる数週間は実行を控えるよう指示した。

 実際、モディ首相はホワイトハウスに招かれ、6月20~24日に国賓として訪米しており、米印首脳会談中の犯行を避けたとみられる。

 米国でのこの未遂事件はそれほど深刻な問題として報道されていないが、首脳会談中に実行されていたら、米印関係を揺るがす問題になっていた可能性がある。

対米秘密工作は失敗

 他方、6月18日には、カナダ・ブリティッシュコロンビア州のシーク教寺院の外で、マスクをした複数のガンマンがハーディープ・シン・ニジャール氏を射殺する事件が起きた。ニジャール氏はパンヌン氏と同じシーク教組織の分離独立運動の同志で、難民としてカナダに移住、カナダ国籍を取得していた。

 翌19日、グプタはUCに「ニジャールもターゲットだった」と認め、「われわれには非常に多くのターゲットがある」と言った。起訴状によると、インドが計画した殺人は、ニューヨーク、カリフォルニア両州で各1件、カナダで3件の計5件とみられる。

 6月20日、CC1はグプタに、次は「優先」と言い、グプタはCSに「早くやれ」と求めた。しかし、CSもUCも「ターゲットが不在」などといった言い訳を繰り返して実行が遅れた。6月30日になって、グプタは突然、インドからチェコに渡航。チェコ当局は米国の要請を受けて、グプタを逮捕したという。

 恐らく、グプタは米側によるオトリ捜査の現実に気が付き、インド当局から責任を問われる可能性もあって、逃亡したとみられる。

 米国とチェコが司法共助協定で合意すれば、グプタの身柄は米国に移送されることになる。

カナダ首相はインド政府の関与を確信

 事件の捜査結果を得て、トルドー・カナダ首相は9月18日、ニジャール氏殺害の裏で「インド政府の関与を示す信頼できる疑いがある」と言明し、許しがたい主権侵害とも非難した。

 ほぼ同時にカナダ政府は、首都オタワ駐在のインド対外情報機関「調査分析局(RAW)」オタワ支局長パバン・クマル・ライ氏の国外追放を発表、インド側は疑惑を否定して強く反発し、駐ニューデリー・カナダ外交官を国外追放した。この外交官もカナダの情報機関の駐インド代表とみられる。

 インド国内での報道によると、カナダ側は証拠となる情報や文書をインド側と共有していないため、両国間の会談は進展がみられないという。

インド側が「ハイレベルの調査委」設置

 他方、米国の対応は大統領の発言も含め非常に慎重だ。米政府はニューヨークでのインド側の殺害計画について、インド政府高官との情報共有と相互理解に努めてきたようだ。

 ジェイク・サリバン国家安全保障問題担当大統領補佐官は8月5~6日、サウジアラビアのジッダで行われたロシア・ウクライナ戦争に関する国際会議で、モディ首相の国家安全保障担当補佐官、アジト・ドバル氏と会談。起訴状の内容や複数のターゲットのリストなどを渡し、ドバル氏はさらに詳細な情報があれば、インド側も捜査できると回答した。

 その後バーンズCIA長官がインドでラビ・シンハRAW長官と会談、さらに9月のG20サミットの際のバイデン大統領とモディ首相との会談、ワシントンでのアントニー・ブリンケン国務長官とスブラマニヤム・ジャイシャンカル印外相の会談を挟んで、10月には、アブリル・ヘインズ国家情報長官(DNI)のインド訪問につなげた。

 ヘインズ長官が渡した詳細な情報や証拠を詳しく検討した結果、インド側も捜査を行うことを決定。さらに11月18日にはハイレベルの調査委員会を設置することが決まったという。

キーマンは78歳のドバル補佐官

 インド側が公正な捜査を行うかどうか明らかではないが、米印間では前向きの協力に向けた取り組みがスタートした形のようだ。

 それは恐らく、インド政府の安全保障政策とインテリジェンスを牛耳るドバル補佐官を窓口にして話を進めたことが有効に働いたからだとみられる。

 ドバル補佐官は1945年生まれの78歳。インテリジェンス組織の中心を成す情報総局(IB)勤務が数十年と最も長く、パキスタン駐在の秘密工作員や工作部門のトップも務め、IB長官を経て、国家安全保障担当補佐官となった。

レベルが低いRAWの秘密工作

 IBは英国統治時代の1887年設立で、この種の組織としては世界で最も古いと言われる。国内治安と防諜の任務を負い、現在の陣容は約1万8000人。対外情報機関のRAWは1968年にIBから独立して誕生した比較的新しい組織だ。2008年のムンバイ同時多発テロ以後、ドバル氏らが中心となって、RAWの対外情報機能の強化を進めてきた。

 しかし、今回明るみに出たRAWの秘密工作。起訴状を見る限りでは、RAWの秘密工作 は相当レベルが低そうだ。中国などの工作のレベルには達していないようだ。筆者が接したRAWの駐日要員も、分析が任務の中心のように見えた。

RAWの事件関与は解明できるか

 今度の事件はRAWが実行したとみられている。その最大の疑問は、事前に政府中枢の承認を得ていたかどうかだ。

 ヒンドゥー至上主義者と言われるモディ首相を支えるドバル補佐官は、シーク教徒の動きを抑える強硬派とみられている。今度の事件前に、果たして、モディ首相やドバル補佐官がどれほどの情報を知らされていたかも問題になるだろう。

 パンジャブ州でのシーク教徒の分離独立運動やテロ事件は1980年代に激化、1984年にはシーク教徒の聖地・黄金寺院に立てこもった過激派をインド政府軍が排除する事件が起きた。これに対してシーク教徒が強く反発、同年のインディラ・ガンディー首相の暗殺につながった。それほどインドにとっては大きい問題なのだ。

 反政府系の多数のシーク教徒がカナダなどに移住しており、モディ政権は今後ともこの問題で難しい対応を迫られそうだ。

 

カテゴリ: 社会 政治
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執筆者プロフィール
春名幹男(はるなみきお) 1946年京都市生れ。国際アナリスト、NPO法人インテリジェンス研究所理事。大阪外国語大学(現大阪大学)ドイツ語学科卒。共同通信社に入社し、大阪社会部、本社外信部、ニューヨーク支局、ワシントン支局を経て93年ワシントン支局長。2004年特別編集委員。07年退社。名古屋大学大学院教授、早稲田大学客員教授を歴任。95年ボーン・上田記念国際記者賞、04年日本記者クラブ賞受賞。著書に『核地政学入門』(日刊工業新聞社)、『ヒバクシャ・イン・USA』(岩波新書)、『スクリュー音が消えた』(新潮社)、『秘密のファイル』(新潮文庫)、『米中冷戦と日本』(PHP)、『仮面の日米同盟』(文春新書)などがある。
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